「密林男」 グレート・アントニオの悲劇~1961.1977 ゴッチと猪木に“制裁“された怪奇派レスラーの意外な晩年

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オールドプロレスファンなら誰もが知る「密林男」グレート・アントニオ。力道山時代、大型バスを引っ張る怪力デモンストレーションで一躍有名になった、昭和の“怪奇派“レスラーの筆頭格です。

それ以外にも「カール・クラウザー(カール・ゴッチ)とミスターXに控室で“制裁“された」「アントニオ猪木に試合中に“ガチギレ“され、ボコボコにされた」など、不穏過ぎるエピソードで知られるアントニオ。

 

これほど“悲劇の“が似合うレスラーもいないのですが、晩年を過ごしたカナダでの評価は、まったく違うのだそうです。

 

今回はそんな彼の、2度の“制裁“事件と、その数奇な人生を取り上げます。

 

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グレート・アントニオとは?

 

グレート・アントニオは1925年、クロアチア出身。

1945年のユーゴスラビアとの合併を機にカナダへ移住。怪力自慢の「ストロングマン」として名を馳せ、1952年には「433トンの列車を19.8メートル引っ張った」としてギネス世界記録に認定されています。

 

その後はサーカスやカーニバルで怪力のアトラクションに出演する傍ら、プロレスに進出。カナダやニューヨークを転戦し、大物ジン・キニスキーやバーン・ガニア、ブルーノ・サンマルチノらと対戦。

 

力道山率いる日本プロレスの外国人ブッカーとなるグレート東郷の目に留まり、初来日を果たします。

 

初来日、怪力デモで話題沸騰!

 

1961(昭和36)年5月1日、日本プロレスの春の祭典「第3回ワールドリーグ戦」が開幕しました。

参加選手は

日本代表=力道山、豊登、吉村道明、遠藤幸吉
覆面代表=ミスターX
ドイツ代表=カール・クラウザー
アメリカ代表=ロニー・エチソン、アイク・アーキンス
カナダ代表=グレート・アントニオ
スペイン代表=ヘラクラス・ロメロ
日系代表=ハロルド坂田、グレート東郷

というメンツ。

4月27日夜、アントニオは外国人のエースであるクラウザー、ミスターXと共に初来日。羽田空港ロビーに現れたアントニオはカメラのフラッシュに激昂して突如暴れ出し、報道陣めがけて長椅子を投げつけ、出迎えに来た力道山に向かって突進するなど大暴れ。

 

翌28日にはアントニオの怪力デモンストレーションが行われ、神宮外苑で満員の子供たちを乗せた8tバス4台を鎖で引っ張り、一般マスコミにも取り上げられるなど、一大センセーションを巻き起こします。

このアントニオ人気でワールドリーグ戦は話題沸騰、地方興行でもチケットが飛ぶように売れ、連日超満員の盛況。ダフ屋が暗躍し、前代未聞のニセの入場券が発見される盛り上がりブリでした。

 

5月1日の開幕戦、アントニオは遠藤幸吉と公式戦(45分3本勝負)で対戦。アントニオは遠藤を一方的に痛めつけ、ボディープレスで圧殺して1本を先取、2本目は遠藤の試合放棄で勝利を収めます。

 

試合後も大暴れするアントニオを鎖をかけて制御する若手の中に、若き日の猪木寛至がいました。

 

ちなみに…アントニオの公式戦はこの遠藤戦のみ。本大会は「今回からシードとなった力道山への挑戦権を争うリーグ戦」なのですが、アントニオはシリーズ途中で力道山に挑戦する扱いを受けるなど、当時の運営はかなり大雑把です。

 

ワールド大リーグ戦中の“事件“

 

そしてリーグ戦中盤の5月21日、岡山大会で事件が起こります。

 

この日はアントニオと、正統派外人レスラーのエース格であるカール・クラウザー(後のカール・ゴッチ)のシングルマッチが組まれていました。試合は荒れた展開となり、俗に言う“シュート“を仕掛けられたアントニオはクラウザーに顔面パンチを浴びせられ、大流血。

 

試合は両者リングアウトで一応、引き分けで終わりますが、控室に戻ったアントニオをクラウザーはミスターX(ビル・ミラー)、マイク・アーキンスと3人で袋叩き。

 

試合後にその事態を知った力道山は、アントニオの商品価値が下がるのをおそれてマスコミに箝口令を敷いた、と言われています。

 

そして6月2日、東京・蔵前国技館で力道山がアントニオとインターナショナルヘビー級王座をかけて対戦。

 

試合は当時スタンダードだった3本勝負ですが、さしもの力道山も馬鹿力だけでテクニックもなく、試合の組み立てもまったくできないアントニオ相手に悪戦苦闘。容赦ない空手チョップの連打と蹴りを見舞い2-0で完勝しますが、誰の目にも、アントニオの「期待外れのデクの棒ぶり」は明らかでした。

この試合で一気に商品価値が暴落、「賞味期限切れ」となったアントニオは、6月7日には猪木を含めた若手5人とハンディキャップマッチで対戦。なんと5人掛りで逆エビ固めを決められて、ギブアップ負けを喫します。

 

そして契約最終日の6月9日、アントニオは高松でミスターXと対戦します。

 

このミスターXことビル・ミラーはクラウザーと並ぶ、名う手の「実力者」であり、翌1962年にもやはりクラウザーと共に当時の超人気レスラー、バディ・ロジャースを控え室で“制裁“したことでも知られています。

 

この試合は当時、TV中継もされたそうです。私は残念ながら映像を観たことはないのですが、当時を知る方によれば「アントニオは最初から怯えきっており、リングに上っても一切攻撃できず、大きな体を丸めて逃げ回る姿が哀れだった。それをミスターXが追い回し、顔面や頭部を容赦なく殴りつけ、戦意喪失したアントニオの試合放棄のよう形で終わった。」

 

東京スポーツ、櫻井康夫氏も「背筋が寒くなるような試合、というよりもはや公開リンチだった」と語っています。

 

なぜアントニオはクラウザーらから”制裁”を受けたのか?

 

これには「力道山は知らなかった」「力道山公認だった」など諸説ありますが、そもそもの理由は、アントニオの「特異すぎる性格」にあるのは間違いないと思います。

 

そして、根本的にアントニオは所詮はイロモノ、客寄せパンダであり、レスラーとしての実力は皆無である、というのがポイントです。

 

このリーグ戦にはクラウザーとミラーという実力派の2人がおり、それにアントニオを加えた3人が「エース格」として扱われました。プロレスファンの間ではクラウザーが開幕戦の吉村道明戦で見せたクリーンなファイトとフィニッシュの見事な原爆固め(ジャーマンスープレックスホールド)に魅力され人気が高まりますが、地方興業での”目玉”はあくまで、アントニオなのです。

アントニオはギャラを前金で受け取っていたものの、シリーズが連日大入りが続いていることを目の当たりにして東郷に契約延長とギャラアップを要求するなど、目に見えて“増長“します。

 

そもそもアントニオは奇行を繰り返し、ガイジンレスラー間で鼻つまみ者だったのでしょう。最初から「こんなイロモノと同格に扱われるのもイヤ」だったクラウザー達は、アントニオが興行人気が自分だけの力だと“錯覚“し、掟破りの“ギャラアップ”まで要求していることを知り、「身の程知らずの“変人“に、業界のしきたりを教えてやる」と袋叩きに。

 

それを知った力道山は慌てますが、明らかに常識を逸脱しているのはアントニオであり、商品価値を比べたらクラウザー達の“暴挙“を「黙認」する他ありません。それはクラウザー(ゴッチ)が後に日本プロレスのコーチ役になったことからも明らかでしょう。

 

こうしてアントニオは哀れ、ほうほうの体でカナダ行きの船で帰国。それ以降の消息は、語られることもありませんでした。

 

突如、新日本プロレスに再来日!

 

そして、歴史は繰り返されます。

 

1977(昭和52)年10月、新日本プロレスの「闘魂シリーズ第2弾」開幕戦にグレート・アントニオが突如乱入。16年ぶりの再来日を果たします。

 

すでに50歳を超え、リングからも遠ざかっていた彼ですが、アントニオ猪木との「アントニオ対決」が商売になる、という新日本プロレスサイドの目論見だったのでしょう。

 

かつてと同じくバスけん引パフォーマンスを予告するアントニオを一目みようと「新宿 京王プラザホテル前に3,000人ものファンが集まった」とも言われ、室蘭では再びパフォーマンスを披露するなど、話題性は健在でした。

そしてシリーズ最終戦、12月6日の蔵前国技館で遂にアントニオ猪木とのシングルマッチが実現します。

 

試合はワンサイド、凄惨な展開となりました。

 

ニヤニヤと笑い、TVカメラにVサインをするなど不真面目なアントニオに、猪木は終始不機嫌。

 

猪木のタックルを腹で跳ね除けるなど、まともな試合は期待できない態度です。レフェリーのミスター高橋によればアントニオは試合中に「エンペラー・ヒロヒトを呼べと言っただろ、どこに来てるんだ」などと発言していたのだとか。

 

そして、力任せのハンマーパンチを猪木の背中に叩き込んだ瞬間、明らかに猪木の表情が変わり、“スイッチ“が入ってしまいました。

 

後に「キラー猪木」と言われた“シュートスタイル“に変貌した猪木は、見事なテクニックでアントニオの巨体をマットに這わせると、無防備な顔面を思い切り、蹴り上げます。

 

鼻っ柱に強烈なキックを叩き込まれたアントニオは大流血し、戦意喪失。わずか4分あまりでの凄惨なKO劇に、超満員の観客は息を呑むしかありませんでした。

 

 

なぜ、猪木はアントニオを“制裁“したのか?

 

後に前田日明が長州力の顔面を蹴り大怪我を負わせた際、「プロレス道にもとる」として前田を解雇した猪木に対し、「自分だって同じようなことやってるじゃん」と多くのプロレスファンがツッコミを入れました。

 

私は猪木ファンですが、これについては擁護のしようがありません(笑)し、「なぜ猪木はあれほどキレて、容赦なく顔面を蹴り上げたのか」と聞かれたら、その時の心理は本人ではないのでわかりません。

 

間違いなく猪木さんご本人もその時の心境など「いちいち覚えてねぇよ、どうもこうもねぇよ」と言うでしょうね(笑)

 

試合を見るに、試合中にアントニオがふざけた動きで自分を愚弄し、それを見た観客から失笑が漏れたことが一つ目の要因。猪木さんはとかくプロレスで笑いが起きることを嫌います。

 

そして二つ目の要因は、力任せのハンマーパンチが痛かった(笑)「闘魂ビンタ」の発祥も、ファンの不意打ちパンチが要因ですからね(笑)

 

そして三つ目の要因は、そもそも相手にしたくなかった。ゴッチさん同様、プロレスの“強さ“と“技術“に自負のある猪木さんからすると、アントニオのような技術もなく練習もしないで(キャラだけで)「プロレスラー 」を名乗るヤツは許せません。

 

興行会社のオーナーとしてチケットを売るためにイロモノ起用や話題作りには誰よりも知恵を絞り積極的な猪木さんですが、それはあくまで集客まで。試合でのおふざけは、絶対に許容したくなかったのでしょう。

 

それ以外にもアントニオのシリーズ中の奇行の数々、若手時代の記憶、商品価値などなど理由はいくつもありますが、「こうでもしないと観客も納得しねぇだろ。プロレスをナメるな」という感じなのではと思います。

 

意外な晩年と死後の評価

 

こうして2回の来日で毎回、制裁を受けるという稀にみる仕打ちを受けたグレート・アントニオ。

 

猪木戦を最後に来日することはなく、2003年9月7日、晩年の居住地だったモントリオールにて、心臓発作により死去。77歳でした。

 

そんな彼は、晩年の20年ほどを過ごした地元では「奇矯な行動をする人物として、人々に愛されていた」というのです。海外のサイトを見ると、いくつかの映画にも出演していたようです。死後、彼を顕彰する壁画やベンチなどが市民により作られています。

さらには、カナダ出身の作家著イリース・グラベルが彼を題材とした子供向け絵本「 The Great Antonio」を描き、

 

カナダを拠点にする音楽グループ「Mes Aïeux」が2008年、「ザ・バール・ブラザース」が2017年に、それぞれ彼を題材とした楽曲を発表しています。

 

プロレス関係者の話を聞くと出てくるのは「エキセントリックな勘違い人物」と悪評だらけなのですが、カナダでの彼は、どういう扱いなんでしょうね…。「ファンタジーの世界から飛び出してきた、ピュアな人物」という評価だったのでしょうか。

 

彼の晩年の蒐集物は「長年に渡りメモされてきた紙切れ、世界中の書物の切り抜き、そしてゴミ袋」だったそうです。

 

死後、その膨大な蒐集物の中からビル・クリントン事務所からの手紙、ピエール・トルドー、ライザ・ミネリ、リー・メジャース、ソフィア・ローレン、ジョニー・カーソン、モハメド・アリ、マイケル・ジャクソンらとのツーショット写真が発見されたのだとか。

「プロレス界は世の中の常識やルールを逸脱した人を受け入れる、度量の大きな社会」というのが、一般的な認識なのですが、ことグレート・アントニオに関しては真逆の印象です。

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