「1984年のチェッカーズ」~80年代アイドル⑧ なぜチェッカーズは「語られない」のか?


PR


「80年代」を語る上で外せないスーパーアイドル「チェッカーズ」。

 

しかしながら語りにくい、語られないことこの上なく、正当な評価がなされていない、またしにくい代表のようなグループです。

私自身、同時期に活躍した「吉川晃司」や「小泉今日子」は語れても、「チェッカーズ」は難敵です。誰もが知っているのに、何だったのか、と言われると答えに困ります。とはいえ、「1980年代アイドル」を語る上では避けては通れません。

 

今回は、難題「チェッカーズとは?」を、敢えて語ってみたいと思います。

 


 

●「1984」芸能界の衝撃

 

ロサンゼルス オリンピックが開催され、カールルイスが大活躍した年です。

アメリカではマイケル ジャクソンがアルバム「スリラー」でグラミー賞を独占し、イギリスでは”Band Aid”が「Do They Know It’s Christmas?」をリリース。翌年の「We Are The World」~”Live Aid”へと続くムーブメントが起こるなど、日本においても洋楽・外タレの黄金時代でもありました。

 

そして日本の芸能界では、アイドル全盛期。松田聖子中森明菜トシちゃん、マッチの四天王を頂点に、今では信じられないほど数多くの”ソロ”アイドルが、毎日のようにTVの歌番組で大活躍していました。もちろん、西城秀樹や郷ひろみといったもう少し上の世代のスーパーアイドルも健在でした。

 

そんな1970年代から続く「ザ・ゲーノー界」「アイドル界」に異変が起こります。台風の目になったのが、「チェッカーズ」「吉川晃司」「小泉今日子」でした。この中で、今なお活躍を続ける「吉川晃司」「小泉今日子」に比べ、完全に「なかったこと」のようになっているのが、今回取り上げる「チェッカーズ」です。

 


 

●「チェッカーズ」が語られることがない理由

 

2018年には「デビュー35周年」でベスト盤が発売されたりしましたが、ほとんど話題になりませんでした。あれだけ爆発的な人気で、80年代を象徴するグループなのに・・・という感じです。

 

解散していてもなんらか再評価される+熱心なファンがいるバンドが多い中で、「チェッカーズ」がそうならない理由。

 

それは、2003年に元メンバーの高杢氏によるフミヤ批判の暴露(ボーロ)本出版を契機に、翌2004年に早逝したドラムス徳永氏の葬儀の場でまで泥仕合を演じるほどのメンバー間の確執で、「最もメジャーな主人公、藤井フミヤとしても、もはや触れてほしくない感じ」が大きいのだと思います。

 

ただし、それはさておいても、繰り返しになりますが超リアルタイム世代の私からしても、「吉川晃司」と「小泉今日子」は語れても、「チェッカーズ」は、なんだかよくわからないのです。

 

そしてその理由は、ズバリ「アイドルだから」なのです。

 

ここから、「チェッカーズ」の足跡を、同時期に活躍した「吉川晃司」と「小泉今日子」についてもセットで辿ってみます。個人的に好きな楽曲のみ、YouTubeのリンクを付けてあります。

 


 

チェッカーズの活動は、大きく2つに分けられます。

 

●『前期』がデビューした1983(昭和58)年から、1986(昭和61)年9月までの3年間。芹澤廣明氏が楽曲を手掛けていた「スーパーアイドル期」

 

●『後期』が1986(昭和61年10月から解散した1992(平成4)年までの6年間。自作曲をリリースした「アーティスト?期」

 

中でも『前期』の快進撃は、社会現象になるほどの人気ぶりでした。

 

<前期:スーパーアイドル期>

 

■1983(昭和58)年

9月に「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。

■1984(昭和59)年

1月にリリースした2曲目「涙のリクエスト」が大ヒット。

立て続けに

 

「哀しくてジェラシー」(5月)

「星屑のステージ」(8月)

がヒット。

 

そして「ジュリアに傷心」(11月)がグループ最大のヒット(70万枚)に。

 

「ザ・ベストテン」「トップテン」などランキング番組に複数楽曲が入るなど、TVで「チェッカーズ」を見ない日はありませんでした。この年のオリコン年間チャートでは4位(涙のリクエスト)・5位(哀しくてジェラシー)・8位(星屑のステージ)年間歌手別売上で「松田聖子」を抑えて1位となり、2年目(実質1年目)でチェッカーズは芸能/アイドル/歌謡界の”天下”を獲りました。

 

ちなみに

 

「小泉今日子」1月に「クライマックスご一緒に」、3月「渚のハイカラ人魚」、6月「迷宮のアンドローラ」9月「ヤマトナデシコ七変化」12月「The Stardust Memory」

 

「吉川晃司」は2月に「モニカ」でデビュー、6月「サヨナラは八月のララバイ」、9月「LA VIE EN ROSE」

 

でそれぞれ、旋風を巻き起こした年です。

 


 

●デビュー主要スタッフ

 

「チェッカーズ」はアマチュア時代、オールディーズバンドとして活動し、真島昌利氏の「THE BREAKERS」と対バンするなど、そこそこ知られた存在でした。メジャーデビューにあたって「全身チェックの衣装」など、バンドとしてのコンセプト メイクをしたのは秋山道男氏。この方は一言では説明不能なマルチなプロデューサー、クリエイター。ただし、この方が表に出ることは当時、まったくありませんでした。

 

初期楽曲は作詞家:売野雅勇氏と作曲家:芹澤廣明氏のコンビ(「ギザギザハートの子守唄」「神様ヘルプ!」の2曲は作詞:康珍化氏)。しかし、実はデビュー当時からB面やアルバムには既に、メンバー自作曲が収録されていました。

 


 

●デビュー曲「ギザギザハートの子守唄」

 

いわゆる「数え唄」。藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、かまやつひろし「我が良き友よ」などの系統です。

この楽曲を受け取ったメンバーの感想は「こんな演歌みたいなの演れるか」。もう一曲の「涙のリクエスト」を気に入り、こっちがデビュー曲だと思ってリハをしていたそうです。

ところがデビュー曲は「ギザギザ〜」に決定。その理由をプロデューサ曰く

『涙の〜』はいい曲だけどインパクトが弱い。『ギザギザ〜』のトガッた感じでコイツら何者?と思わせた後に『涙の〜』でヒットを狙う」

まさに手練手管。この戦略は結果的に大成功でした。

 

ちなみにデビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」と語られていますが、私はデビュー曲のPVにあった「ニホンの皆さん、コンチワ!」の方が印象に残っています。

 


 

●チェッカーズは「ヤンキー」ではない〜久留米という不思議な町

 

「ギザギザ〜」はその歌詞の内容から「ヤンキーソング」と評されることがありますが、私は「ヤンキー」には違和感を覚えます。

チェッカーズは「ヤンキー」でも「ツッパリ」でもなく、「久留米の不良」です。

 

これは当時の空気と、久留米という町を知らない人には理解できない違いです。そもそも「ヤンキー」や「ツッパリ」には、アーリーアメリカン楽曲を聴いたり演奏したりするセンスはありません。

 

久留米は、福岡市の中心部から西鉄電車で40分くらいの距離にある、中小地方都市。東京の感覚からすると通勤圏内ですが、この時代くらいまでの久留米は独立した商業圏を持つ雰囲気でした。古くは、いまやグローバルな大企業「ブリジストン」が創業した町で、福岡と佐賀、長崎のハブとして機能し、港もないのに不思議な発展を遂げていました(博多が有名な“とんこつラーメン“は、“長崎ちゃんぽん“の白濁スープと醤油ラーメンが合体して久留米で生まれた、という説があります)。

 

しかし、訪れてみるとなんということはない、なにもない田舎町。米軍基地があるとか、カルチャー的な要素も特にありません(ヤクザさんの事務所はたくさんありますが)。にも関わらず、80年代を代表する「松田聖子」「チェッカーズ」が揃ってこの久留米から出現したのは、なにかの磁場が働いていたのかと思うほど不思議な“突然変異”でした。(ほかにも”世界の荒鷲”坂口征二、競輪の中野浩一、藤吉 久美子、ARBの石橋 凌、田中麗奈、吉田 羊、家入 レオなど有名人を多数輩出する謎の町です)

 


 

■1985(昭和60)年

 

デビュー3年目(実質2年目)も快進撃は続き、

 

「あの娘とスキャンダル」(3月)

 

「俺たちのロカビリーナイト」(7月)

 

当時流行した12インチシングル「HEART OF RAINBOW/ブルーパシフィック」(9月)

 

「神様ヘルプ!」(11月)をリリース。

 

主演映画「CHECKERS IN TAN TAN たぬき」も公開になります。

オリコン年間チャートでは1位(ジュリアに傷心)、5位(あの娘と~)、8位(俺たちの~)がベスト10入り年間歌手別では「中森明菜」に次いで2位でした。

 

この年は

 

「小泉今日子」4月「常夏娘」、6月「ハートブレイカー」、7月「魔女」11月「なんてったってアイドル」

 

「吉川晃司」1月「You Gatta Chance」、4月「にくまれそうなNEWフェイス」、9月「Rain-Danceがきこえる」

 

「小泉今日子」はついに「なんてったって~」で”アイドル”のメタを演じて、完全に立ち位置を獲得。

「吉川晃司」も怒涛のヒット連発で、瞬間風速的に芸能/アイドル/歌謡界の”天下”に手をかけました。

 


 

●圧倒的な「フミヤ」と「吉川晃司」人気

 

チェッカーズが社会現象と言われるほどのアイドル人気が爆発したのは、なんといってもリードボーカル「藤井フミヤ」のルックスと唄声でした。後に他メンバーも徐々に認知され、後期には「弟の尚之がイケメン」と女子人気が高まりますが、初期はほぼ、「チェッカーズ=フミヤ」。

きのうまで「トシちゃんかマッチか、シブがきか」と騒いでいた当時の女子たちにとって、突如現れた「フミヤと吉川晃司」という新たな選択肢は、黒船レベルの衝撃。まったく「お行儀のよいかわい子ちゃんアイドル」ではなく、自分の意思で好き勝手に暴れる彼らは、同じブラウン管にいても、既存の男性アイドル達とは異次元の存在でした。

女子だけでなく、小中高生の「男子」の支持を集めたのも彼らの特長。よく言われることですが前髪を長く垂らし、もみあげをテクノカットにした髪型は一世を風靡しました。このアイドルからはみ出した2組と、ロック界から「尾崎豊」を取り上げるための雑誌「PATI>PATI」(ソニーマガジンズ)が刊行されるほどの過熱ぶりでした。

 


 

●アイドルとしてど真ん中を歩む

 

この時期までの「チェッカーズ」初期楽曲は、1950年代オールディーズサウンドと、1970年代グループサウンズを融合した「懐かしくも新しい歌謡ロック」というコンセプト。ブカブカのカワイイ衣装、ギザギザの髪型。「商業アイドル」の頂点として歌番組、バラエティ、ラジオ、コンサート、「明星」「平凡」などアイドル雑誌の取材、さらに映画主演まで過密スケジュールをこなし、ブロマイド売上でもトップを記録。1st.から4th.アルバムまで、売野、芹澤コンビの大ヒット シングルにメンバーのオリジナル曲を交えた構成で、概ねオールディーズをオマージュしたコンセプチュアル アルバムをリリースします。

 


 

■1986(昭和61)年

 

「OH!POPSTAR」(2月)

 

「Song for U.S.A.」(6月)

 

をリリース。「OH!POPSTAR」はいわゆるメタ的作品です。

 

主演映画2作目「Song for U.S.A.」が公開。

そしてターニングポイントとなる初の自作曲

 

「NANA」(10月)

をリリース。歌詞がエロい、とNHKで放送禁止になったのも、いまでは笑い種ですね。

 

オリコン年間チャートではベスト10内は9位(OH!POPSTAR)のみ。シングルCDのセールスがガクっと落ちますが、人気が落ち目になったわけではなく、年間歌手別では中森明菜、KUWATA BANDに次いで3位でした。

 

この年は

 

「小泉今日子」4月「100%男女交際」、7月「夜明けのMEW」、11月「木枯らしに抱かれて」

 

「吉川晃司」1月「キャンドルの瞳」、3月「Modern Time」、9月「すべてはこの夜に」

 

「小泉今日子」は「夜明けの~」から明らかに「メロウな唄もの路線」にシフトチェンジしましたし、「吉川晃司」も「Modern~」は自作曲、「すべては~」は自らがボーカルトレーニングに使用していた(佐野元春が沢田研二に提供した)楽曲を敢えてチョイスするなど、明らかにシフトチェンジ。同時期にこうなるのが面白いところですね。

 


 

●「NANA」は中森明菜?

 

当時、「フミヤとキョンキョンは付き合っている」というのは公然のヒミツでした。そんなキョンキョンから「吉川クンがタイプです」と番組中に公言され困惑した吉川晃司さんがスルーして、黒柳徹子さんに「女の子に恥かかせちゃダメでしょ」とこっぴどく叱られた、というエピソードが有名ですが、そりゃスルーするだろ・・・と誰もが思ってました。

 

「フミヤ&キョンキョン」は写真誌でなんどか騒がれましたが表向きはあくまでウワサ。そしてこの初の自作曲シングル「NANA」は中森明菜のことだ、というのもまた、当時のウワサでした。極悪人のマ●チさんといろいろあった時期ですし、そう思って聴くとそのマンマ、な気がします(あくまでウワサです)。コイズミさんはその後、弟さんの方とも・・・(以下略)

 


 

<後期:自作アーティスト?期>

 

■1987(昭和62)年

 

ここからは完全に自作楽曲(編曲:THE CHECKERS FAM.)になります。

 

「I Love you, SAYONARA」(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:大土井裕二
年間15位(オリコン)

 

WANDERER(7月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治
年間25位(オリコン)

Blue Rain(11月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 

7つの海の地球儀(11月)
〈Cute Beat Club Band名義/12インチシングルEP〉
作詞:秋元康、作曲:Special Turuku、編曲:Micky Moody

 


 

■1988(昭和63)年

 

ONE NIGHT GIGOLO(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:武内享

Jim&Janeの伝説(6月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治

 

素直にI’m Sorry(10月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 


 

■1989(平成元)年

 

Room(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治
年間37位(オリコン)

Cherie(7月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治

 

Friends and Dream(12月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治

 


 

■1990(平成2)年

 

運命 (SADAME)(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

夜明けのブレス(6月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治
年間34位(オリコン)

 

さよならをもう一度(11月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 


 

■1991(平成3)年

 

Love ’91(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:大土井裕二

 

ミセス マーメイド(9月)
作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治

 

ふれてごらん 〜please touch your heart〜(12月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 


 

●自作路線、それでもあくまで「アイドル」

 

5th.アルバム以降、1988(昭和63)年からは完全に芹澤楽曲を卒業して、メンバー自作曲オンリーとなりました。

 

ブラスやシンセを多用したUKテイストだったり、プリンスを意識したサイバーファンク、ダンス ナンバーであったり、ジャジーなアプローチがあるかと思えばハウスをやったりAORをやったり、手当たり次第に自分達の趣味嗜好を放出し始めました。

 

ユニークなのが、こうなると普通は「もう俺たちはアイドルじゃない」と言い出して、TVの露出を減らしてレコーディングとライブに軸足を置くのですが(かつての沢田研二、原田真二、Charだってそうですし、同時期の吉川晃司もそうでした)、チェッカーズはブラウン管であくまでもベタなアイドルをやり続けました。

 

見た目にカワイイ衣装ではなくカッコいい兄ちゃん達にはなりましたが、あくまでチェッカーズは解散まで、「アイドル」バンドであり続けることを自ら望んでいたように見えます。

 

自作曲になってから楽曲のクオリティは高まったものの、セールス的には下降線の一途を辿ります。後の評価で「自作路線で売れなくなって落ち目になって解散」という論評がありますが、それは当時を知らない世代が書いた嘘っぱちです。

 

確かにCDセールスは落ちましたが、チェッカーズは決して人気がなくなったワケでも、落ち目になったワケでもありませんでした。

 

なぜなら、もはや彼らは売れても売れなくてもOKな存在の「アイドル」であり続けたからです。

 


 

■1992年(平成4)年

 

今夜の涙は最高(3月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 

Blue Moon Stone(5月)
作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之

 

Present for You(11月)
作詞・作曲:THE CHECKERS、編曲:THE CHECKERS FAM.
(実際の作詞は藤井郁弥、作曲は武内享)

 

そしてこの年、10月の「ミュージックステーション」で解散を発表し、「紅白歌合戦」のステージを持って解散します。

 

この年の目玉であり当然、トリを務める計画もありましたが当時「グループでトリを務めた前例がない」という、NHKの不毛な前例主義で中盤に出演。私はこの時期、既に紅白歌合戦を観なくなっていたため、まったく記憶にありません。今回、初めて映像を観ましたが、会場はチェッカーズ ファンの悲鳴で騒然となり、その後の進行が危ぶまれるレベル。そりゃそうなるだろ、という感じです。

 

こうしてチェッカーズは31曲のシングルと、10枚のオリジナル アルバムを残して、メジャーデビューから約10年間の活動に終止符を打ちました。

 


 

●改めて「チェッカーズ」が語られない理由

 

こうして改めて振り返ってみて、ようやくわかりました。

 

「チェッカーズが語られない理由」は、彼らが最後までベタな「アイドル」であったため、音楽好き、”語る”層が、彼らの楽曲やステージを完全にスルーしていたからなんですね。「チェッカーズ」は女子供が観る、聴くもので、「昔チェッカーズ好きだったのよー」は「光GENJI好きだったのよー」と同義で、当時の少女でいまオバさん方にとっては「甘酸っぱく恥ずかしい思い出」。

 

その方々が「チェッカーズの音楽はね」なんて語るわけがないのです。至極当たり前の理由です。

 

そしてそれは誰のせいでもなく、彼ら自身が「アイドル」であることを自ら「指向」したから、に他なりません。

 

 

まったく同時期に活躍した「吉川晃司」が、布袋寅泰との「COMPLEX」で男性ファンを獲得して、ロック アーティストへと移行したのとは対極にあります(その吉川晃司でさえ、真っ当には評価されてるとは言い難いですが)。

 

 

「チェッカーズ」は「所詮アイドルでしょ」とバカにされる割には音楽性も高く、楽曲もカッコイイものが多くて、いま聴いても「よくできてるなぁ」と感心する完成度です(アイドル時代もセルフ楽曲時代も)。加えて今回、改めてライブ映像を観てみると音楽的な素養や、演奏やコーラスのテクニックも含めて、ロックバンドとしてかなりの腕前で、メンバーは皆、音楽が好きなんだなぁ、と感じます。

 

なのに、「音楽的にここが~」と真正面から評価されることもなく、私もする気にはなれないのです。これこそが「チェッカーズ」の悲劇である気がします。

 

なぜ「チェッカーズ」は、あれだけの腕前と音楽的素養を持ちながら、なんでアイドルであり続けたんだろう?というところが、どうにも理解しがたく、感情移入がまったくもってできないんですね。「こんなこといつまでもやってられるか」と足掻いて抗う「吉川晃司」とは違うのです。これが、リアルタイムで世代である私からしても「チェッカーズはよくわからない」理由なのです。

 


 

●その答えは怪作「TAN TANたぬき」にアリ?

 

「チェッカーズを評価なんて無意味、なぜならチェッカーズはアイドルであり、それ以外の何者でもない」

というのは、実は人気絶頂期に公開された怪作映画「チェッカーズin TAN TANたぬき」(1985年4月)を観れば明らかなのです。

 

「製作総指揮:鹿内春雄、製作:日枝久、パッケージ販売はポニーキャニオン」という、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの「フジサンケイ グループ」が総力を結集したクソ映画。設定とかストーリーなんかどうでもよく、「チェッカーズのアイドルとしての魅力を大画面で楽しめる」だけで押し切った、ある意味80年代アイドルのスゴさがよくわかる作品です。

 

そしてそれでもギョーカイのオトナたちの計画通り、当時、小中学生の圧倒的な動員で大ヒットとなりました。

 

このいまでいうところの”閉じコン”っぷりが、後に「チェッカーズが語られない」理由そのものなのです。

 


ID:4408


PR


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です