追悼「西城秀樹」〜70年代、ヒデキの輝き

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西城秀樹さんが亡くなりました。

 

「西城秀樹といえばヤングマン」という報じられ方ばかりですが、私からするとそれは「猪木といえばブロディ戦」と言われるくらいの違和感があります(わかりづらい)。

 

今回は、70年生まれの私から見た「ヒデキ」について、「ヤングマン以前」の70年代名曲を中心に、ヒデキの美学、世界観をご紹介します。

 

※文中敬称略

 


 

70年生まれの私世代にとって、「ヒデキ」は最初に憧れた「カッコいい男」代表です。日本人離れした長身に長い足、そして長い髪。「オールスター運動会」「水泳大会」番組で見せる身体能力の高さ。「少女マンガに出てくるような二枚目」のイメージです。

 


 

ヒデキは物心ついた時から「スター」でした。80年代の「ザ・ベストテン」というより、そのひと世代前の「芸能ニュース」とか、往年の「夜のヒットスタジオ」が似合うスターでした。

 

●最初の記憶は、5枚目のシングル「情熱の嵐」(1973年5月25日)。

「君が望むなら」(ヒデキ!)ってヤツですね。とにかくこの人が出てくると、悲鳴のような女性の歓声がもの凄い、なんだか怖ろしい人気者、という印象でした。

 

●その次が9枚目のシングル「激しい恋」(1974年5月25日)。

「やめろと言われても」(ヒデキ!)です。こんな素っ頓狂な振り付けだったのは記憶にないですが(笑)、幼稚園児の私でも口ずさめるようなキャッチーさが魅力でした。

 

●続いては10枚目のシングル「傷だらけのローラ」(1974年8月25日)。

 

大げさなバラードで始まり、中盤からアップテンポになるドラマティックな楽曲、その芝居がかった世界観は、ほかの歌手にはマネできないですね。この紅白はアランドロンの「怪傑ゾロ」のコスプレで登場したのは、ハッキリ覚えています。初出場だったんですね…。

 

●18枚目のシングル「若き獅子たち」(1976年9月5日)。

誰が聴いても「良い曲」。ブラスとストリングスで、古き良き映画音楽のようです。こういう「歌謡曲の世界」が廃れてしまったのは哀しいですね。

 

●20枚目のシングル「ブーメランストリート」(1977年3月15日)。

キャッチー過ぎるサビで、いまでもふと口ずさんでしまう程のインパクトがあります。ド派手なアクションはもちろんですが、立ち姿が美しいです。

 

●続く22枚目「ボタンを外せ」(1977年9月5日)。

この辺りはずっと阿久悠さんの世界です。ボタンがたくさんついたベストを着て「ボタンを外せ」って…大変だろ(笑)と思ってました。

 

●23枚目「ブーツをぬいで朝食を」(1978年1月1日)

ここから「ザ・ベストテン」でのヒデキ、の記憶があります。ライターを使ったアクションが子どもにマネされて火事が起きたかなんかで、涙ながらに謝罪してたのを記憶しています。

 

●25曲目「炎」(1978年5月25日)。

この曲も名曲です。ラス前のセリフの大袈裟ぶりは圧巻。しかし、火は懲りたのでは…(笑)。

 

●26曲目「ブルースカイブルー」(1978年8月25日)。

これまた古き良き映画音楽のような、壮大なスケールのバラードで、大好きな曲でした。告別式出棺の時に流されていたのを観て、あぁやっぱりそうだよな、と思ってしまいました。

 


 

●そしてようやく、28枚目が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(1979年2月21日)です。

この時期は完全に「ザ・ベストテン」の9999点、のイメージです。

確かにこの楽曲は明るくて良い曲ですし、大ヒットしたのでイメージ強いのは仕方ありませんが、私の中ではこの楽曲は「私の好きなヒデキの終わりの始まり」的な印象なのです。

 


 

70年代のドラマティック、大袈裟なヒデキ的世界観が、80年代の「ライトでシラケ」な世間とズレ始めます。

トシちゃんやマッチなど、新世代ジャニーズ アイドルが「明るく元気なアイドルポップス」を唄い始めると、ヒデキは「オトナの世界、ラブソング」を目指したのだと思うのですよね。

 

●36曲目の「眠れぬ夜」(1980年12月16日)。

なんとオフコースのナンバーで、私はこれでオフコースを知りました。原曲よりテンポアップ、ポップではありますが世界観は内向的で文学的。青いセーターがカッコよくて、オフクロに編んでもらったのを覚えています。

 

その後は、

●44曲目「ギャランドゥ」(1983年2月1日)

 

もんたよしのり作。改めて聴きましたがカッコよくてシビレます。この曲を聴くたびに「三菱ギャラン」店の前に喫茶店「ドゥ」があり笑った事を思い出します。

 

●49曲目「抱きしめてジルバ -Careless Whisper-」(1984年10月15日)

こちらはワム!です。

などのスマッシュヒットを放ちながら、徐々に第一線から外れて行ったイメージです。

 

「ちびまる子ちゃん」での再ブレイク(1991)は、セルフパロディ、お遊びですね。はい。

 


 

ヒデキカンゲキ!

 

ヒデキといえば「ハウスバーモントカレー」。リンゴとハチミツ。会葬御礼でも配られたそうです。

このCMにも出てますが河合奈保子、そして石川秀美も「ヒデキの妹」オーディションからのデビューでしたね。

 


 

激しいアクション、ワイルドな歌唱

 

激しいアクションは、山本リンダと共にそれまでの「東海林太郎的歌謡曲」をぶっ壊した立役者です。マイクスタンドを使う(「薔薇の鎖」1974)のも先駆者でしたし、スタジアムライブもこの人からですよね。クレーンに乗る、放水車、レーザー、ドライアイス…ヒデキから始まったものはたくさんあります。

 

「ちぎれた愛」1973、「傷だらけのローラ」1974、「白い教会」1975、「ジャガー」1976 などの「セリフ入り絶唱」はほかの歌手がやったら失笑で恥ずかしくて見ていられなかったでしょうが、ヒデキだからサマになりました。

 

「ロックミュージシャンとして〜」とか取ってつけたような再評価もなされますが、「70年代キングオブ歌謡曲、トップアイドル、トップスター」であり、歌謡曲とお茶の間に「ロックな過激さ」を広めた人、というのが私の中の「ヒデキ」です。

 

ぜひ、「ヤングマン」より前(もちろん以降も、ですが)の秀樹の楽曲も聴いてみてください。

 

野口五郎さんの弔辞が素晴らしかったので、引用して終わりにします。

ご冥福をお祈りします。

 


 

秀樹、君が突然去ってしまったことを知ってから何日が経っただろうか。皆さんに、気持ちの整理がつくまで少し時間を下さい。そうお願いしたのだけど、どうやってこの現実を受け止めて良いのか。いまだに君の言葉をいろんなことを思い出して、泣いてばかりいる。

秀樹との46年間は、簡単に語りきれるものではありません。こんな風に君への弔辞を読むなんて考えてもいなかった。僕にとって、君は本当に特別な存在だった。ある時は兄のようでもあり、ある時は弟のようでもあり、親友でもあり、ライバルでもあって、いつも怒るのは僕で、君は怒ることなく全部受け止めてくれて。いま思うと僕と君との違いは、心の大きさが違うよね。つくづくそう思うよ。いつも僕が言うことを大事に大事に聞いてくれて、何でそんなに信用してくれていたの。

訃報(ふほう)を聞いて君の家に向かう途中で、僕は突然思い出して妻に言った。秀樹の歌で「ブーメランストリート」という曲があって、ブーメランだから「きっとあなたは戻って来るだろう」って歌詞だけど、でも戻ってこなかった人を、アンサーソングとして「ブーメランストレート」ってどう、って言ったら、それ良いねって、秀樹、大笑いして。そしたら彼本当に「ブーメランストレート」っていう曲を出してしまったんだよ。

君の家に着き、君に手を合わせ、奥さんの美紀さんと話し始めたら、秀樹の曲をかけ続けていたディスプレーから突然「ブーメランストレート」が流れてきた。数百曲もある君の曲の中で、五郎、来てくれたね、君が僕だけに分かる合図を送ってくれたのかなってそう思ったよ。

30年ほど前に、君は「チャリティーコンサートをするんだけど、その時の曲を作って欲しい」って、突然言い出した。
「秀樹、僕は人の曲は作らないって知ってるだろ」
「うん、だから作って」
「秀樹、だから作っては日本語変だから」
「うん、最後にみんなで歌う曲作って欲しいんだよ」
「秀樹、悪いけど無理だから。それ出来ないから」
「分かってる。一応締め切りはいついつだから」
「秀樹、それ出来ないからね」って別れたのに。

締め切り日ぎりぎりにパジャマを着て譜面とデモ音源を君の家に届けた僕に、まるで僕が作ってくるのが当たり前のように、玄関先で「ありがとね」って君は笑顔でひと言。完全に見透かされてるよね。今年になってから、その曲がシングルカットされてるのを知って、僕はそれまで知らなかったんだよ。シングルカットされているのは。君のマネジャーにお願いして、音源もらって、マルチがないからCDから君の声だけ取り出して、今年2月の僕のコンサートでデュエットした。なぜ今年だったんだろう。不思議でならない。コンサートを見に来てくださった君のファンも喜んでくださった、って奥さんから聞きました。
 
デビューしてアイドルと呼ばれるようになった僕らは、次はその席を後輩に譲らなければ、そして次の高みを目指さなければと考えていた。その方向が僕らは一緒だった。同じ方向を目指していた。秀樹は決してアクション歌手ではないし、本物のラブソングを届ける歌手を目指していたことを、僕は知っている。1993年、初めての「ふたりのビッグショー」での共演。一緒に歌った「Unchained Melody」「Smoke Gets In Your Eyes」ハーモニーの高いパートは僕で、最後に格好良く決めるのは秀樹。でも僕はそんな秀樹が大好きだった。本当に格好良いと思っていた。
 
お互い独身時代が長かったから何でも話すようになってゴルフも一緒に行った。君が車で迎えに来てくれて、僕がおにぎりとみそ汁を用意して、夫婦かなんて言いあって。僕が「秀樹、結婚するから」って言った時の驚いた顔を忘れない。2月に僕が披露宴をしたときに、「おめでとう」と君に握手を求められた瞬間、僕にはすぐ分かったよ。あ、こいつ結婚するって。案の定、5カ月後に美紀さんと結婚した。

秋も深まったある日、妻が「もしかして子どもが出来たかも」と言いだし、驚いた僕は明日病院に行って検査してもらおうと二人で話した。そんなとき、君から突然の電話。「五郎、まだ誰にも言ってないんだけど、俺、子どもが出来た」。生まれてみれば同じ女の子で君んちが6月3日、僕んちが6月5日。まじかこれ。当然娘たちの初節句、ひな祭りも一緒に祝ったよね。
 
3年前、秀樹の還暦パーティーに出て、サプライズでケーキを持ってステージに出させて頂いた時の秀樹のびっくりした顔、今でも忘れられません。さかのぼること44年前、1974年。この年僕が「甘い生活」でレコード大賞歌唱賞を取れると下馬評だったけど、君の「傷だらけのローラ」が受賞。もちろん君は欲しかった賞だし、当然うれしかったと思う。でも、君は僕の前では喜んだりしなかった。僕を気遣ったんだと思う。それから2年後、二人で受賞した。そのときは握手して二人で抱き合った。そして40年後、還暦パーティーで僕が「抱いていいか」。「何だよ」と言われたけど、僕はそんな君を抱きしめた。その時、君は僕のことを一瞬抱きしめ返そうとした。その瞬間に君の体の全体重が僕にかかった。それは僕にしか分からない。心の中で、「秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」そう思った。それと同時に、僕の全身が震えた。こんなぎりぎりで立ってたのか。こんな状態で、ファンの皆さんの前で立ってたのか。そこまでして、立とうとしていたのか。なんてすごいやつだ。彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのに、サプライズで来ている僕が「西城秀樹です」って秀樹のファンの皆様に彼を紹介してしまった。
 
秀樹ほど、天真爛漫(てんしんらんまん)という言葉がぴったりな人は僕はこれまでに会ったことがない。何事にもまっすぐで、前向きで、おおらかで。出会う人を全て魅了する優しさと全てを受け入れる潔さとたくましさ。そんな君を慕う後輩がどんなにたくさんいたか。僕はうらやましかったよ。
 
僕もひろみも、秀樹の代わりにはなれないけど、まだしばらくは頑張って歌うからね。おまえの分も歌い続けるからね。そして君を慕ってくれた後輩たちとともに、僕らの愛した秀樹の素晴らしさを語っていこうと思います。何よりも君を愛し、支え続けたファンの方々とともに。
 
秀樹、お疲れ様。そして、ありがとう。もう、リハビリしなくて良いからね。もう頑張らなくて良いから。
 
君のかわいい子どもたち、家族を、いつも見守ってあげて欲しい。そしておまえの思うラブソングを天国で極めてくれ。
 
秀樹、お疲れ様。
そしてありがとう。
 
平成30年5月26日、野口五郎

 

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    サイトヘッド様には猛暑の中、よろしくお願いいたします。
    *「西城秀樹 初期曲の最高傑作=薔薇の鎖 雑誌募集歌から誕生した大傑作」
    西城秀樹さんは自分よりも確か一つ年上の、男目から見ても格好良い男でした。当時「ヒロミ ゴロー ヒデキ」の新御三家と呼ばれながらも定着した評価は「実力のゴロー 歌の上手さのヒデキ ルックスのヒロミ」でしたね。そんな中突如として世に現れたのが「薔薇の鎖」なる和声ポップス=JPop不滅の名曲でした。
    *「当時、多数存在した平凡 明星等の雑誌による募集歌」
     この各種雑誌による募集歌は当時、唯一大好きなスター達と万が一以上の高い確率だが、応募しなくてはいられないっ と誰しも思わせた読者向け企画でした。調べますと歴史は大変古く、特に「平凡募集歌」は既に1952年昭和27年頃 既に星野哲郎さんがチャイナの波止場で入選しデビューしていましたし、その後1969年「港町ブルース=原詩-深津武志 補作-なかにし礼」 「ごめんねチコちゃん 作詞=安部幸子」 更には後に雑誌明星も募集歌を始め出し様々な傑作が生まれました。「青春の坂道 原案=中司愛子 作詞=松本隆」 「オレンジの雨 作詞=吉田栄子 補作詞=大日向順子」等など実は結構名作佳作が多いのです。
    実は、西城秀樹にも募集歌が解っているだけでも2曲存在し明星募集歌として「俺たちの時代=作詞=熊野昌人 補作詞=たかたかし」 そして登場するのが、平凡募集歌として「薔薇の鎖
    原案=斎藤優子 作詞=たかたかし」でした。 御覧の通り実はかなり一般のファンたちにも門戸が開かれていたのには驚きで、当時「郷ひろみ 魅力のマーチ 原案=喜瀬悦子 作詞=岩谷時子」「浅野ゆうこ 太陽のいたずら 作詞=吉田真由美(島田説在り) この曲のみ補作も何も一切無くそのまま採用の珍しいほどの隠れた名曲です」 等もありましたね。
    当時雑誌で、「魅力のマーチの原詩」を見ましたら、全く違っていたのが驚きでした。
    つまりオリジナルの姿が全く無かったのです。なるほどこれでは作詞と言うよりも原案としか言いようが無く、原詩作者も複雑だったと思われます。この「薔薇の鎖」も原詩作者の斎藤優子 おそらくは当時自分と同じ世代の熱狂的なヒデキ命のファンだったのでしょう。
    そのヒデキの為に、心血注いで命掛けて何度も何度も何度も書き直し、応募したのでしょうね。何か原詩作者の思いが乗り移ったかの様な詩なのです。
    それを当時からベテランの一歩手前程度だった「たかたかし」が補作詞では無く作詞と言う形にまとめあげたのが、まぁ良かったのでしょうね。詩はもちろんとにかく曲が本当に良かった。作曲の鈴木邦彦さんはデビュー当時からの作曲家であり、久々の担当。更にアレンジは当時新進喜悦の作編曲家として頭角を現してきた「馬飼野ブラザースの舎弟 康司さん」でしたが、このアレンジが結局大成功で素晴らしかった。まず弦ストリングスを一切使用せずに、4リズム(ピアノ無) ブラスセクションのみと言う大変シンプルなアレンジなのに、実は物凄く派手にゴージャスに聴こえる?のです。これはまず当時のディレクター「ロビー和田」のディレクションはもちろんレコーディングテクニックも抜群でした。まずイントロのサックスと間奏のサックス 良く聴けば音が左右LRにビンビンすっ飛んで回っている、おそらくはエフェクトにオートパンナー等を用いてパンニングしているのでしょう。更によくよく聴けばブラスセクションの音が抑えられ、その分「4リズム=Eリードギター Eリズムギター Eベースギター セットドラムス」が一番音が大きくされ中心になり、Eサイドリズムギターにはエフェクトワウが派手に掛けられかなり激しく賑やかに活躍しますがこれが良かったのですね。
    しかも更によく聴くと「セットドラムスのキックとベースギターが必ずしも同じ同期では無い」処も斬新でした。こういう細かい小技がアレンジャー馬飼野康司さんのテクニックでありその後の活躍で思い知らされました。こうしてJPopの忘れられぬ名曲となった薔薇の鎖、西城秀樹は遠い処に逝ってしまったけれど、原詩作者の思いと我々末端のファンの思いは決して消えず、長く残る名曲それが「薔薇の鎖」でした。なお当時かなりの数が在った「歌番組」で様々歌われましたが、ごく一部の「8時だよ全集」はフルバンドのみでしたが、このほかの歌番「歌のベストテン 火曜ビックマッチ ベスト30歌謡曲 ゴールデン火曜速報」等は当時全て弦を交えた大編成のオーケストラ伴奏でしたが、各番組専属のアレンジャーの創意工夫でこの「薔薇の鎖」は見事に再編曲されていましたね。特に「ベスト30歌謡曲の専属アレンジャー=伊藤辰雄さん」は本当に優秀な方で、素晴らしい個性的なアレンジで彩ってくれました。思えば素晴らしく良い時代でした。 敬具

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。「薔薇の鎖」、スタンドマイクのパフォーマンスばかりが注目されますがこういう背景で誕生した楽曲だったのですね。原作詞も見てみたいです。

  2. 茶々丸 より:

    はじめまして。
    Twitterでmiraiさんがこちらのブログを紹介されていて、読ませていただきました。
    ほぼ同い年なのに、凄い記憶力にビックリです‼️
    ゴローさんの弔辞に涙が枯れることはありません。
    ときどきこの記事を読み返したいので、私のamebloに投稿する事をお許し頂けると幸いです。
    宜しくお願いしますm(_ _)m

    • MIYA TERU より:

      はじめまして、コメントありがとうございます。
      ブログでのご紹介、宜しくお願いいたします。

  3. mirai より:

    こんにちは。初めまして。
    私、ツィッターでヒデキに関するブログを紹介させて頂いています。
    本日「#西城秀樹」で紹介させて頂きましたので、よろしくお願いします。
    とても分かりやすい曲の解説と感想、ヒデキへのステキな思いありがとうございました✨

  4. 富山 妙 より:

    私は、1968年生まれなので、ブログ主さんとほぼ同時代の感覚で、西城秀樹さんを見てきたと思います。私も西城秀樹さんと言えば、ヤングマンよりもローラです。西城秀樹ファンという自覚はありませんでしたが、御三家の中では西城さんが一番気になっていたと思います。今でも、何となく郷ひろみさんには対抗意識を持っていたりもします。ローラが流行ったころは、まだ小学1年生でしたが、「ローラ」と絶叫する姿を何となく覚えています。西城さんが亡くなって、初めにyoutubeで検索したのもローラでした。NHKの紅白の映像でしたが、その映像に圧倒されました。西城秀樹って、こんなにかっこよくて、こんなに歌がうまくて、こんなに今でも通用するような人だったんだと。そして、どうして、西城さんをちゃんと応援してこなかったのか、とても悔やまれました。男性アイドルのファンになることに何となくためらいがあり、西城さんを本当は好きだったことに自分自身気付かなかったのかもしれません。死後になってしまい、遅まきながらですが、西城さんのファンとして歌を聞き続けていきます。

    • adminredcm より:

      コメントありがとうございます。私も今回の訃報に接し遅まきながら紅白のローラを見て、圧倒されました。問答無用のカッコよさ、ですよね。「当時、新人なのに顔を隠すなんて」と言われたという話を聞き、時代を感じます。こういうドラマチックな歌手っていなくなりましたよね・・・。

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