風見慎吾「涙のtake a chance」~1984 ブレイクダンスの衝撃!

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前回の「80年代 欽ちゃんファミリー ヒット曲集」ではスルーしましたが、今回は80年代の日本に”ブレイクダンス旋風”を巻き起こした、風見慎吾(現:風見しんご)さんの「涙のtake a chance」を取り上げます!

 

百聞は一見に如かず。まずは当時の映像をご覧ください。

 

・・・スゴすぎますw しかも生歌www

 

日本ではまだ誰もブレイクダンス、ヒップホップダンスを知らない時代に、それもアイドルが、毎日のようにゴールデンタイムで放送される「歌謡曲」の歌番組で、いきなりこんなことをやりだしたら、そりゃ大騒ぎになりますよね。

 

ナインティナインの岡村隆史さん、マドンナのツアーメンバーなど世界的なダンサーとして知られるTAKAHIRO氏などが「風見さんのブレイクダンスを見てダンスを始めた」と語り、リスペクトする人が大勢います。

 

風見さんは、2020年12月14日に行なわれた「パリ2024年オリンピック競技大会・ブレイキン(ブレイクダンス)追加種目決定」記者発表に呼ばれ、若きブレイカーと共にブレイクダンスを披露。

 

「日本にブレイクダンスを広めたパイオニア」としての功績を評価する声が近年、高まっています。

 

 

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ブレイクダンスをはじめたきっかけ

 

風見さんがブレイクダンスを始めたきっかけは、映画「フラッシュダンス」(1983年7月日本公開)の中で、少年たちが踊る「ほんの短いシーン」を見て、衝撃を受けたことでした。

 

風見さんはデビュー前、哀川翔さんらと「劇男一世風靡」の前身である「劇男零心会」の一員で、原宿の歩行者天国でストリートパフォーマンスをしていた頃は「バク転・バク宙担当」。身の軽さには自信がありましたが、当時国内ではブレイクダンスはまだ未知のジャンル。当然、指導してくれる振付師はおらず、教材どころか映像すら入手できません。

 

そこで風見さんは一念発起、自らアメリカ・ニューヨークに乗り込みます。

 

しかしそこでも教えてくれるスクールなどは存在せず、ストリートで生のブレイクダンスを観たり、手売りのビデオを買い、それを繰り返し観て独学で練習するほかなかったそうです。ニューヨークの路上に段ボールを広げてステージを作り、その上でダンスに興じる子どもたち。「今のようにYouTubeとか参考にする映像もないので、子どもたちから教わりました」。

 

パンピーならいざしらず、風見慎吾さんは当時「週刊欽曜日!」という、視聴率30%超えの人気番組にレギュラー出演し、TV歌番組、ドラマにも出演する人気アイドル。よくぞこんなチャレンジをと、その行動力に驚かされます。

 

”大将”に直談判

 

風見さんは当時、「欽ちゃんファミリー」期待の若手タレントで、「僕笑っちゃいます」で歌手デビュー。以降、「泣いちっちマイ・ハート」「そこの彼女」と3枚のシングルをリリースし、明るく爽やか・純朴系の男性アイドルとして、順調なセールスを記録していました。

 

 

4枚目のシングル曲も既に決まっていました(後にわらべが「時計をとめて」としてリリースした楽曲)が、「どうしてもブレイクダンスを取り入れた楽曲がやりたい!」と”大将”・萩本欽一さんに直談判。

 

最初は「オマエは何がやりたいんだ?」と言われたそうですが、目の前でブレイクダンスを踊り、必死に熱意を伝えて、変更を了承してもらったのだとか。

 

リリース日も決まってる中でこの激しいダンスに似合う曲を新たに作って…とは、関係者もかなり大変だったことでしょう。

 

大将からは「お茶の間に広めたいのなら、ただ凄いことをするだけじゃダメ。子どもが練習すれば真似できると思わせなきゃ」アドバイスされ、敢えてスピードを落としたり、わかりやすい振り付け的な動きなど、シンプルな見せ方を工夫したそうです。

 

4thシングル「涙のtake a chance」

 

こうして突貫で作成された4枚目のシングル、「涙のtake a chance」(1984 昭和59年12月リリース)。

 

作詞:荒木とよひさ/作曲:福島邦子/編曲:小泉まさみ

 

この時代に、しかも急造された割には普通にカッコよく、ちゃんとダンスサウンドになっていて、それでいてしっかり歌謡曲としてわかりやすいキャッチーさもあり、完成度が高くてビックリします。プロの作曲家、作詞家、アレンジャーってスゴイですね。

 

そして歌番組に出演した風見慎吾さんは、自らディスコで声をかけて集めたバックダンサー「ELECTRIC WAVE」と共に、キレキレすぎるアクロバチックなダンスで一躍、旋風を巻き起こします。

さらには一切、口パクなし。全力で動き回りながら息を切らしながら歌い、初めて見る「ブレイクダンス」を踊る姿に、世間は驚愕。それまでのアイドル歌謡曲の「振付け」とは明らかに一線を画した「ぶっ飛び」具合です。

 

インカムなしの時代、手持ちのハンドマイクを落とす、歌い出しに間に合わないなどのハプニングも多く、TVスタジオの硬いコンクリートのフロアで踊ると全身青タンだらけで、「両足の内転筋を切った」と後に風見さんは明かしています。

 

私は当時、中学生でしたが、まず突然の路線変更にビックリしました。それまでの爽やか、ゆったりとした素朴な路線から、いきなり過激なダンスアクション…

 

何がどうした?と思っていましたが、その裏にご本人のこういう行動があったとは知りませんでした。

 

そしてすぐに同級生達も、真似する奴が続出しました。打点の高すぎる伸身のバク宙やその場バク宙、側宙なども組み込み、ウィンドミルなどの回転技、ヘッドスピンなどなど、今となっては当たり前の「ブレイクダンス」ですが、この時期にこれらをお茶の間に広めた功績は、多大なものがあります。

 

「BEAT ON PANIC」でのヌンチャク・バトルダンス

 

風見さんは”大将”欽ちゃんから「次はタップダンスをやれば?」と促されたそうですが、固辞。

 

続く5枚目のシングルは、さらに激しいダンス(ヌンチャクを使用した「バトルダンス」)の「BEAT ON PANIC」をリリース(1985 昭和60年4月)。B面の「Hollywoodスペシャル」がタップダンス調になりました。

 

作詞:水色玉青/作曲:福島邦子/編曲:小泉まさみ

 

 

この「BEAT ON PANIC」は、”打ち込み”を大胆に取り入れたエレクトロ風ファンキーな楽曲。曲の一部にラップが取り入れられているのが、これも日本のポピュラー音楽への導入としては初期のものと言われています。

 

 

 


 

最後にもう一度、当時のブレイクダンスのスゴ技集をご覧ください!

 

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