追悼”センセーショナル”「ザ・デストロイヤー」~1930-2019 視聴率64%の”白覆面の魔王”

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ザ・デストロイヤーさんがお亡くなりになりました。

私より歳上の世代の方々にとって、「ふくめんレスラー」といえばこの方でしょうね。

 

私のデストロイヤーさんの最初の印象は「馬場の味方をするへんなガイジン」。デストロイヤーさんは1973年から1979年まで、長きに渡りジャイアント馬場の全日本プロレスで日本陣営として活躍していました。

 

しかし、鶴田やマスカラス、ブッチャーらとの試合よりも、「覆面十番勝負」よりも、「うわさのチャンネル」での和田アキ子、せんだみつお、そしてなんといっても徳光アナとの絶妙なカラミの印象の方が…

 

それもそのはず、デストロイヤーさんは1930(昭和5)年生まれプロレスラーとしての全盛期は、力道山晩年の日本プロレスでの激闘の時期でしょう。私はそれらを後に雑誌やビデオで観た程度なので、致し方ないところなのです。

 


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デストロイヤーとは

 

シラキュース大学、同大学院修士課程修了のインテリ。アメリカンフットボールとレスリングの選手として活躍し、卒業後母校のコーチを務めながら、1954(昭和29)年にプロレスラー デビュー。

 

●正式なリングネームは「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」。長過ぎですがカッコいいです。

 

●1963年5月、日本プロレスに初来日。力道山晩年のライバルとして、必殺技の「4の字固め」で激闘を展開。文字通り日本全国に“センセーション“を巻き起こします。「プロレスごっこでかけられたら地獄の痛さ」「裏返すとかけた方が痛い」デストロイヤーの4の字固めは、一度かけたら自分でも外すことができず、レフェリーの沖式名が靴を脱がして解くのがお約束でした。

 

●同年5月24日、東京体育館で行われた力道山とのWWA世界選手権は、日本テレビ中継の平均視聴率64%を記録。これは今なお歴代視聴率4位のレコードとなっています。

 


 

●初来日「コワルスキー平手打ち事件」

 

プロレスファンの間で有名なのがこの事件。「覆面レスラー初の世界チャンピオン」として初来日したデストロイヤーが、力道山vsキラー コワルスキー戦の試合前にリングに上がり、日本のファンに初めて紹介された際のハプニング。スーツ姿のデストロイヤーは、コワルスキーに握手を求めますが無視され、怒りのビンタ!「大物」のコワルスキーをものともしないデストロイヤーの度胸に、日本のプロレスファンは一発でハートを鷲掴みにされた村松友視さんも著書でその時の衝撃を語っておられます。

 

その後、デストロイヤーはその件を「挨拶したら“ローカルチャンピオンが”と侮辱されたから」としていましたが、真相は違いました。以下、2008年にコワルスキーが亡くなった際の、デストロイヤーの追悼コメントです。

 

「キラー・ウォルター・コワルスキーの訃報を聞いて、悲しみでいっぱいです。彼は私の日本でのキャリアを確立するために、それこそ空に向けて打ち上げるロケットのように支援してくれたのです。あれは1963年、日本プロレスの第5回ワールドリーグ決勝戦の東京体育館。まさにこれから力道山vsコワルスキーが始まる前、WWA世界チャンピオンとして来日した私は試合前にリング上で紹介されたのです。

(中略)

ネクタイにスーツ姿でリングに上がった私はコワルスキーに歩み寄り、握手を求めた。その瞬間、彼は耳元でこう囁いた。「オレの顔を張れ。そしてリングを降りろ」一瞬、その意味がわからなかったが、コワルスキーの言うとおりにやってみた。すると、場内は騒然とした。そして、一瞬にして日本人の心をつかんだ。平成20年のいまでも日本のファンから「リング上でコワルスキーの頬に平手打ちをかましたのを覚えている」と言われる。ウォルター・・・50年以上に渡って私の師であり、友人であり続けたことを感謝する。そして心からご冥福をお祈りします」(週刊プロレスNo.1438)

 

自身が恥をかいてもデストロイヤーの売り出しに協力したコワルスキーの漢気。そして、「プロレス」というビジネスの奥の深さを感じるエピソードです。

 

親日家で知られるデストロイヤーさん。ご冥福をお祈りします。

 

The Destroyer-Richard John Beyer
July,11 1930. – March,7 2019.

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