「格闘技 世界一決定戦」⑧〜1980 vs“熊殺し”極真カラテ ウィリー ウイリアムス

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アントニオ猪木の格闘技戦シリーズ中、多くの方が「最も危険」で「最も興奮した」と口を揃えるのが、この事実上の「アントニオ猪木の格闘技世界一決定戦」最終回、vs極真カラテ “熊殺し” ウィリー ウィリアムス戦です。

 

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◆16 1980(昭和55)年2月27日 日本武道館 アントニオ猪木(4R 1分24秒 両者ドクターストップ)ウイリー ウイリアムス

 


 

対戦までの経緯

 

この時点で「格闘技戦 13勝0敗1引き分け」と人気、実力共に頂点を極めたアントニオ猪木。そして当時の格闘技ブームのもう一方の雄が、“地上最強のカラテ“、極真会館でした。梶原一騎氏原作の劇画「空手バカ一代」のテレビアニメ化、「地上最強のカラテ」実写映画化と影響力を拡大。この1980年当時、極真の“最強幻想”は頂点に達し、世界中の門下生が大山倍達総裁の下、超武闘派軍団を形成していました。

極真カラテのドン・大山倍達総裁は1950年代、極真カラテ創設前にプロレスラーとしての経歴もあり、力道山時代からたびたび『カラテとプロレスはどちらが強いか』という論争の中心にいた人物。しかし、この時点でのアントニオ猪木との関係は、決して悪くありませんでした。アリ戦の際には大山総裁自ら猪木に蹴りを指導するなど、友好関係を保っていました。

 

しかし、猪木がモンスターマン、ランバージャックらと「格闘技世界一決定戦」を敢行し、“空手よりプロレスの方が強い”というイメージ戦略を打つことに対し、当然のように反発を抱く者がいました。その名は大山茂、極真空手北米支部長です。

大山茂氏は大山倍達総帥の「他流試合を禁ず、行えば破門」とする勧告の中、梶原一騎 極真会館評議委員長と、同評議委員の“鬼の”黒崎健時氏と共に、正式に猪木への挑戦をブチ上げます。その対猪木の最終兵器が、ウィリー ウイリアムスでした。

 


 

●“熊殺し”ウィリーウィリアムス

 

ウィリーは極真会館コネチカット支部で大山茂氏の門下生。1975年、梶原一騎氏が極真空手を題材に製作した映画「地上最強のカラテ PART2」で巨大なグリズリーとの闘いを披露し“熊殺し”の異名を持つ、身長2m近い超大型の黒人空手家です。

 

アントニオ猪木、新日本プロレスはウィリーからの挑戦を受託。「プロレス夢のオールスター戦」の翌日、1979年8月27日に両者同席のもとで対戦発表記者会見が行われますが、試合会場も日時も未定で、「後楽園球場で開催か?」などがウワサされました。

 

その後、ウィリーは1979(昭和54)年11月、極真会館の「第2回全世界選手権」に出場。準決勝で三瓶啓二の襟を掴む反則を犯し、反則負けで3位入賞に終わります。この結果は「猪木と対戦するウィリーを優勝させてはならん」という政治的判断が働いたのでは?、と当時、大きな疑惑となりました。

 

その後、ウィリーは藤原敏男氏、黒崎健時氏の特訓の下、猪木殺戮のための殺人兵器へと強化されていきます。そしてその模様は同時進行で劇画「四角いジャングル」で描かれます。自動車のタイヤで轢かれる、自動車を破壊するなどなど梶原ワールド全開のトレーニングが描写され、さらに大山茂氏が「ウィリーが猪木に負けたら腹を斬る」と発言するなど、ウィリーの最強幻想はどんどん肥大化していきました。

 

大山倍達総帥は、あくまで他流試合は禁ず、としてウィリーを破門、大山茂氏は禁足処分に。そんな事はお構いなしに、新日本プロレスと極真会館の対立は双方のファン同士も含めて激化。新日本の道場には連日、嫌がらせや脅迫の電話が続き、若手だった前田明はいつ道場破りがくるか、神経をすり減らしたと語っています。

 


異様な緊張感

 

今回も大揉めに揉めたルール問題ですが、ウィリーはグローブ着用、猪木はグラウンド5秒以内で決着。そして試合当日。日本武道館は猪木信者のプロレスファンと、極真信者の観客で超満員となり、館内は異様な雰囲気に包まれます。双方のセコンド陣はおろか観客同士も殺気を漲らせ、一触即発の様相。警官隊が警備にあたり、入り口には爆弾テロ事件以来の金属探知機が配備される物々しさでした。

 

極真勢がウィリーを取り囲み、対する猪木は藤波辰巳、長州力、星野勘太郎、永源遙らが真っ赤なシャツで取り囲み、物々しい入場。双方共に、セコンドの表情の緊迫感が異様です。

 

▲試合前の国歌吹奏。二階堂進コミッショナー、立会人の梶原一騎氏、黒崎健時氏、新日プロサイドは永源遥、藤波辰巳、長州力、新間寿氏、極真サイドは大山茂氏、添野義二氏らが勢ぞろい。レフェリーはユセフトルコ氏、サブレフェリーはミスター高橋。

 

▼試合展開については、こちらの動画をご覧ください!

 

最初のハイライトは第2ラウンド、もつれてリング下に落ちた両者はそのまま乱闘を続け、「両者リングアウト」の裁定。まさかこのまま終了かよ、と館内が不穏な空気に包まれる中、ここで立会人の梶原一騎氏が登場。「3ラウンドからの続行」を宣言!大熱狂の中、延長のゴングが鳴ります。

 

第3、第4ラウンドは激しい打撃戦の末、またももつれてリング下へ。場外で猪木が腕ひしぎ逆十字で極めたところで、場外リングアウトの裁定が下されます。

  

▲もつれて両者はリング下、場外では両軍の局地戦が勃発。猪木脇腹骨折は何者かに蹴りを入れられたとの説も

 

またも延長を望む声が上がる中、ウィリー側の添野師範がウィリーのグローブをハサミで切り、素手で殺れ、とけしかけます。しかし、場外乱闘で猪木が左ワキ腹骨折、ウィリーは右肘の腱破裂、によりドクター ストップがかかり「引分け」で決着となりました。

 


私感「猪木×ウィリー」

 

・・・と、いうのが表向きの猪木vsウィリー戦のストーリーです。この試合は「新日本プロレスvs極真会館」というバックボーンの緊迫感がメインで、肝心の試合内容は今ひとつ、というのが、私の率直な感想です。

 

当時、一部の関係者を除いては双方共に裏側は知らされておらず、双方ともに「絶対に負けられない戦い」と信じ、その緊迫感と殺気たるや異様ですし、対戦表明から実現、そして決着までのストーリー構成は見事なものでしたが、ウィリーの打撃はいずれもスローモーだし、パンチ、肘打ち、膝蹴りなどもちっともリアルに見えません。これは猪木戦に限らず、“クマ殺し”の映像も、いま見るとチープ過ぎて失笑モノ。ちっともリアリティがないのです。この試合を初めて見た中学生当時ですら、前評判やリアルタイム世代の熱狂に比べて、イマイチ乗れない感が否めませんでした。

 

また、おそらくは梶原一騎氏をはじめとするプロデューサーが多過ぎて猪木が思うように絵が描けず、肝心の猪木自身が“乗って”ないですし、肝心のリング上もウィリーの大根ぶりで、残念な出来栄えになった、というのが実像な気がしてなりません猪木自身も、その面倒くささにいささか辟易した雰囲気を感じるのです

 

試合前に公言していた通り、猪木vsルスカ、アリから始まった異種格闘技 世界一決定戦は、このウィリー戦を持って一区切りとなりました。


 

<関連記事>アントニオ猪木「格闘技世界一決定戦」シリーズ

①1976 vsウィリアム ルスカほか

②1976 vsモハメド アリ 前編

③1976 vsモハメド アリ 中編

④1976 vsモハメド アリ 後編

⑤1976 vsアクラム ペールワン(79 ジュベール ペールワン)

⑥1977-78 vsモンスターマン、チャック ウェップナー、カール ミルデンバーガー

⑦1979 vsミスターX、レフトフック デイトン、キム クロケイド

⑧1979 vsウィリー ウィリアムス

 

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