「UWF」とは何だったのか?~⑦リングス編

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●ファイティングネットワーク・リングス

1991年5月、U3派の中で最後発となった「たった一人の旗揚げ」前田日明の横浜アリーナでのリングス旗揚げ興行は、かつてのU信者、前田シンパを始め、判官贔屓もあり高い注目を集めます。

 

前田は、かつての仲間を失ったことで自身の理想を見つめ直したのか、世界各地を飛び回り未知なる強豪格闘家たちと接触、

「世界最強の男はリングスが決める!」

をキャッチコピーに衛星放送WOWOWの支援を取り付け、経営も安定しているように見えました。

クリス・ドールマンの協力によりは初期はオランダ勢との抗争で興行を成立させ、その後、ヴォルク・ハンを発掘しコマンドサンボを得意とするロシア勢の活躍で躍進します。

 

その他にもグルジア、ブルガリア、アメリカ、ブラジルなどからも未知なる格闘家を招聘し、文字通り「ファイティングネットワーク」を形成していきました。

 

私はとにかくハンのコマンドサンボのテクニックにシビれました。護身術とも軍事制圧術とも見えるそのリアルなテクニックに魅了されました。

 

その後、正道会館と提携し、佐竹、角田らが参戦。

 

いまでこそワークとシュートの混在、と指摘されますが、後の「総合格闘技」という競技確立にリングスの果たした役割は非常に大きいものでした。

 

プロレス、サンボ、キックボクシング、柔道、空手などあらゆるジャンルの格闘技が統一ルールの下で戦うことを実現し、1ヶ月程度のスパンで継続的に興行を開催、WOWOWによる定期放送もあり、発信力もありました。

 

石井館長はここで興業プロモートのノウハウを学び、後にK-1を立ち上げていきましたし、ピーター・アーツ、ノゲイラ、ヒョードルら、その後の格闘技界を支える選手の発掘をした功績も多大なものがありました。

 

しかし、後塵のK-1、そして高田-ヒクソンをきっかけに発足したPRIDEの出現により徐々に求心力を失い、1999年2月、前田は横浜アリーナのアレキサンダー・カレリン戦で引退。

その後は興行で苦戦が続き、国内外の選手とスタッフが相次いでPRIDEに引き抜かれ、2002年、WOWOWがUFCと新規に契約してリングス中継を終了、リングスも活動停止となりました。

 

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