世界の荒鷲「坂口征二」~②新日本プロレス・前編

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令和の時代に「ビッグ・サカ」を語る!坂口征二SP、第2回は新日本プロレス・前編です!

 

 

>①柔道日本一~日本プロレス編はこちら

 

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日本プロレス+新日本プロレスの合併計画

 

猪木に続きジャイアント馬場を失い、視聴率でも苦戦が続く日本プロレス。NETが考えた起死回生策は、TV中継も外人招聘ルートもなく旗揚げ以降、苦境に立たされ続けていた、アントニオ猪木率いる新日本プロレスとの“合体“でした。

 

NETとしても日本テレビとジャイアント馬場の合体を前に、是が非でも実現させたい秘策。

アントニオ猪木と新日本プロレスとしても日本プロレスとの合併は、NETの放映権料で負債を完済できることに加えて手薄の選手層が強化され、NWA会員である芳の里(日本プロレス社長)のルートで大物外国人選手の招聘も可能になる上に、「追放された」自身の汚名を返上する、絶好の機会でした。

 

2人は、猪木の住むマンション1階にあるすき焼き屋「らん月」で会談。この時、仲介役を果たしたのは猪木と東京プロレス時代につながりがあり、坂口とは同じ明治大学卒のマサ斎藤だったと言われています。

 

それまでどことなく距離のあった両者はこの夜、プロレスに対する考え方で一致して意気投合。NETの専務である三浦甲子二氏からも「お前たちの面倒は見る、一緒にやれ」と後押しを受けます。

 

 

この時の合併プランは、新日本プロレスは発展的解消、日本プロレスの選手は独立して、新団体「新・日本プロレス」を設立して双方の選手が合流。社長は猪木、副社長が坂口、そして日本プロレス社長の芳の里が会長に就くというもの。

 

グレート小鹿ら日本プロレス選手会の賛同も取り付けました。そして1973(昭和48)年2月8日、京王プラザホテルで合併記者会見が開かれました。

 

 

ところが記者会見から2週間で、この計画は水泡に帰します。

 

海外遠征から帰国した大木金太郎が、「猪木と坂口との合体は聞いていない。合体話は猪木が日プロを乗っ取りを企んだことを認めることになる」と猛反対。一度は合併に承諾した選手会やフロント勢も、この意見に賛同してしまいます。

 

結局、坂口は猪木とNETとの約束を果たすため、子飼いの若手選手3人と共に新日本プロレス入りを決意。相次いでタイトルを失っていきます。

 

3月2日にはジョニー・バレンタインに敗れ、UN王座からも陥落。無冠となった坂口は、3月8日佐野市民体育館の最終戦をもって日本プロレスを退団することとなりました。

 

坂口が離脱、日本プロレス崩壊

 

NETでの「日本プロレス中継」の最終回は、同年3月30日(金)。放送カードは「坂口&大木vsクラップ&ファルス」とUNヘビー級選手権「バレンタインvs高千穂」。3月8日、佐野市民体育館からの録画中継でした。

 

坂口はセミファイナルのタッグマッチに2対1で勝利、坂口一派の離脱に不満を抱く日プロ側の不穏な空気の渦巻く会場から”脱出”して、世田谷区上野毛の新日本プロレス道場に向かい、小沢正志(キラーカーン)、木村聖裔(木村健悟)、大城勤を預けました。

 

メインイベントでは高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)が、ジョニー・バレンタインを破り、UN王座を戴冠します。

 

こうしてNETは日本プロレスとの放送契約を解除、新たに新日本プロレスと放送契約を結び、この翌週の4月6日(金)から、「新日本プロレス中継」がスタートすることになりました。

 

TV中継と猪木、馬場、そして坂口まで失った日本プロレスはこの後、選手会主催にて「アイアンクロー・シリーズ」全6戦を開催するものの4月20日、埼玉県吉井町体育館での興行を最後に、力道山以来長く続いた伝統と栄光の歴史に、幕を下ろしました。

 

新日本プロレスで猪木・坂口「黄金タッグ」復活!

 

1973(昭和48)年4月開幕の「ビッグファイトシリーズ」で、アントニオ猪木と坂口征二がドッキング。NET金曜夜8時のプロレス番組「ワールドプロレスリング」が、4月6日から新日本プロレスの中継番組としてリニューアル・スタートを切りました。

 

 

生中継のこの日、スポットライトで浮かび上がったリングに猪木、坂口が登場してがっちり握手。実況の舟橋慶一アナは「日本の夜明け、プロレスの夜明けであります!」と絶叫しました。

 

 

今シリーズのハイライトは4月20日、蔵前国技館からの生中継。アントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビがジャン・ウィルキンス、マヌエル・ソトと対決し、ストレート勝ち。決勝は坂口がウィルキンスをアルゼンチン・バックブリーカーで仕留めました。

 

相変わらず外人レスラーのブッキングに苦戦する新日本プロレスは、次シリーズから“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンが登場。

 

自前でスターレスラーを育成していくことになります。

 

 

猪木・坂口vsテーズ・ゴッチ「世界最強タッグ戦」

 

「坂口の加入」と「黄金タッグ復活」を世間にアピールすべく、新日本プロレスとNETは大勝負を仕掛けます。それが、1973(昭和48)年10月14日、蔵前国技館での「世界最強タッグ戦」です。

 

 

”鉄人”ルー・テーズと”神様”カール・ゴッチがタッグ結成し、猪木・坂口の黄金コンビと対戦するというこのドリームマッチは、東京スポーツ新聞社の櫻井康夫さん発案でした。試合前に国歌斉唱、そして90分3本勝負という舞台設定が、特別格調高い雰囲気を演出しました。

 

この試合で1本目はテーズが坂口を、2本目は坂口がテーズをそれぞれ押さえ、3本目は猪木がゴッチからフォールを奪い、黄金コンビが勝利を収めています。

 

>この試合について詳しくはこちら

 

坂口のシングル戴冠:世界ヘビー級/北米ヘビー級王座

 

アントニオ猪木に次ぐ新日本プロレスNo.2となった坂口征二は、2つのシングルベルトを腰に巻いています。

 

1つ目は、1976(昭和51)年10月30日、南アフリカで戴冠した「EWU世界スーパーヘビー級王座」。

 

 

2つ目は、1979(昭和54)年1月26日、岡山で戴冠した「NWF北米ヘビー級王座」。

 

しかし、当時の新日本プロレスは、なんといっても1973(昭和48)年にNWF世界ヘビー級(当時)王者となったアントニオ猪木の「一枚看板」。

 

坂口のこれらシングル王座の防衛戦は、非常に印象の薄いものでした。ちなみに北米ヘビー級王座はNWF版とWWF版があってややこしく、その出自と経緯が、マニアの研究対象になっています。

 

坂口の代名詞、北米タッグ王座

 

新日本プロレスでの坂口征二の代名詞的なタイトルが、この「北米タッグ」です。

 

1974(昭和49)年、アントニオ猪木&坂口征二組が初戴冠。

 

以降、1976(昭和51)年 坂口征二&ストロング小林組

 

1979(昭和54)年からは坂口征二&長州力組

 

が、数多くの防衛戦を続けました。

 

その後、1981(昭和56)年、IWGP提唱に伴い、坂口のシングル&タッグ王座はアントニオ猪木のNWFヘビー級王座と共に返上、封印されました。

 

 

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坂口征二と大木金太郎の遺恨対決

 

坂口征二は新日本プロレスで因縁の相手、大木金太郎と壮絶な喧嘩マッチを繰り広げました。

 

 

坂口の合併計画をぶっ潰した張本人、大木は日本プロレス崩壊後、全日本プロレスに参戦するもジャイアント馬場の冷遇に遭い、離脱。その後は母国・韓国で活動していましたが馬場・猪木に挑戦状を叩きつけ、日本マット復帰を狙います。

 

馬場、猪木ともに「大木の売名行為には乗らない」と無視しますが、大木は1974(昭和49)年8月、新日本プロレス 闘魂シリーズ開幕戦に乗り込み、実力行使に出ます。

 

そして1974(昭和49)年10月10日、アントニオ猪木vs大木金太郎戦が実現。試合後に両者は涙の抱擁で「和解」を果たしますが、坂口との遺恨は残ったままでした。

 

坂口はその後の猪木らの韓国遠征にも帯同せず、両者は「顔も見たくない」冷戦状態に。

 

しかし1975(昭和50)年、大木がワールドリーグ戦に参戦することになり、遂に「因縁の一騎打ち」が実現します。

 

初戦は4月25日、福山大会。両者は感情むき出しで延々と殴り合い、14分41秒ノーコンテンスト裁定。

 

 

 

5月9日に高松で再戦が組まれるも、またも両者は場外で大乱闘。坂口がパイプ椅子で大木の頭を強烈にブチ抜き、錯乱状態となった大木のリングアウト負け。敗れた大木は自らの頭を鉄柱に何度も打ち付け、「わからない、何もわからない!」と絶叫。

 

 

なおも抗争は続きます。予選リーグを終えて2位に猪木、坂口、大木、小林の4人が並び、1位のキラー・カール・クラップとの対戦者決定トーナメントが行われることになりました。大木は坂口との決着戦を懇願し、5月16日、日大講堂で3度目の一騎打ちが決定しました。この時もまったく試合にならず、延々と殴り合いが続き、場外へもつれこんでの大乱闘で、またもノーコンテスト。

 

結局、両者は和解することもなく、抗争はこの1シリーズ、3試合のみに終わります。

 

「そんなこともあったね…。あの時は何で俺が大木さん相手に試合なんかしなきゃいけないんだって思ったよね。だけど会社の人に『お願いします』と言われてさ。それで『やるけど、どんな試合になるかわからんぞ』と脅かしてね。(試合が始まると)案の定、みんなびっくりしてたけどね。だけど、そういうのも面白いよね、お互いの感情をぶつけ合って、後で周りの人から評価されましたから。大木さんが2006年に亡くなる、しばらく前にはわだかまりはなくなっていました。まぁ時が過ぎればある程度そうなりますよ、何事も」

 

坂口征二の格闘技戦

 

「元柔道日本一」の坂口は、格闘技戦にはもってこいの実力者・・・なのですが、数えるほどしか行っていません。

 

格闘技世界一決定戦 坂口征二vsバッファロー・アレン・コージ

1977(昭和52)年10月25日、日本武道館で行われた2大格闘技戦。アントニオ猪木vsチャック・ウェップナー(プロボクシング)、坂口征二vsバッファロー・アレン・コージ(モントリオール五輪柔道銅メダリスト/後のバッドニュース・アレン)と柔道ジャケットマッチを敢行(5R2分7秒、送り襟締めで坂口が勝利)。

 

 

MSGで柔道ジャケットマッチ 坂口征二vsウィリエム・ルスカ

1978年3月20日、坂口はニューヨークのMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)に初登場。WWWFジュニアヘビー級選手権 藤波辰巳vsジプシー・ロドリゲスと並んで坂口は、ウィリエム・ルスカとの柔道ジャケットマッチを行いました(坂口の反則勝ち)。

 

 

 

ちなみにこの中継でアンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデス、ミル・マスカラス対ケン・パテラ、ミスター・フジ、プロフェッサー・タナカが流され、NETワールドプロレスリングにマスカラスが登場したレア回となりました。

 

格闘技オリンピック 坂口征二vsザ・モンスターマン

1978年4月4日、米国フィラデルフィアで開催された「格闘技オリンピック」。新日本プロレスはTOP3がそろい踏みで、アントニオ猪木vsザ・ランバージャック(全米プロ空手)、坂口征二vsザ・モンスターマン(同じく全米プロ空手で前年8月に猪木と対戦)、ストロング小林vsバッファロー・アレン(柔道ジャケットマッチ)を行いました(坂口はモンスターマンの打撃速射砲を浴び、4R 0分35秒 KO負け)。

 

 

地元での格闘技世界一決定戦 坂口征二vsザ・ランバージャック

1978(昭和53)年6月7日、福岡スポーツセンターで行われた2大格闘技戦。アントニオ猪木vsモンスターマンの再戦と、坂口征二vsザ・ランバージャックの「プロレスvs全米プロ空手」です。4月に米国でモンスターマンに苦杯を喫した坂口は、ヘッドロックでスタミナを奪ってからパイルドライバー、トップロープからのニードロップと畳みかけ、3R2分2秒、KO勝利。見事、地元での格闘技戦を白星で飾りました。この試合は映画「格闘技世界一 四角いジャングル」に収録されています。

 

 

京都での最後の格闘技戦 坂口征二vsウィリエム・ルスカ

1979年12月13日、京都府体育館で行われたアントニオ猪木vsキム・クロケード戦と共に行われた、ルスカとの柔道ジャケットマッチ。結果は4分5R引き分けに終わり、坂口はこの一戦を最後に異種格闘技シリーズから「撤退」しました。

 

 

本来、独壇場のハズの異種格闘技戦ですが、結果的に坂口の格闘技戦はどれも「凡戦」に終わりました。本来なら、ルスカとの対戦はもっと盛り上がってもよかったハズ・・・

 

しかし猪木の手前、自分が前に出るワケにもいかない、とのジレンマがあり、さらには柔道の強豪同士であるが故に、プロレスのリングで「格闘技戦として」戦う難しさもあったでしょう(本人も「どうしても技を受けるクセが抜けない」とも語っていました)。

 

もっとも、そもそもプロレスのシロウトである格闘家との異種格闘技戦で「面白い試合」をするというのは難易度が高く、“プロレスの天才”アントニオ猪木にしかできない芸当なのです。

 

「ルスカが『レスラーになりたいって』って、ある人を介してきたことがあったの。それを坂口さんに相談した。坂口さんも柔道日本一だから、僕が一番最初に考えたのは、坂口さんの顔をたてて、柔道ジャケットマッチとか。二本目は裸になってレスラーとしてやって、三本目はコイントスかなんかやって、柔道衣着るか、裸でやるか、そういう方法もあるなって。そうしたら、『新間さん、柔道と柔道でやっても面白くないんじゃないか。猪木さんがやったほうがよいですよ』って。坂口さんはそういう言い方だった。それで考えたのが、『プロレス対柔道』。坂口さんが一歩退いてくれたから、猪木vsルスカ戦ができて、名勝負が生まれたんです。」(新間寿氏:談)

 

8・26夢のオールスター戦 坂口征二vsロッキー羽田

 

東京スポーツ主催、新日本プロレス・全日本プロレス・国際プロレスの3団体が初めて同じリング上に揃い踏みした「8.26プロレス夢のオールスター戦」。1979(昭和54)年8月26日、日本武道館で行なわれました。

 

 

メインはBI砲が復活、ジャイアント馬場&アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン。

 

セミファイナルは、ラッシャー木村vsストロング小林のシングルマッチ。

 

ジャンボ鶴田、藤波辰巳、ミル・マスカラスの夢のアイドルトリオvsタイガー戸口、高千穂明久、マサ斎藤の6人タッグと、夢のカードが並びます。

 

この中で当初は坂口征二vsグレート草津(国際プロレス)が予定されましたが、草津が拒否。この日唯一の新日本プロレス対全日本プロレスの対抗戦として、坂口征二vsロッキー羽田となりました。

 

 

共に190Cmを超える大型同士、羽田は天龍がブレイクする前の当時、馬場・鶴田に次ぐ「第三の男」として期待の新鋭でしたが、坂口からすれば明らかに格下。羽田も気迫溢れるファイトで食い下がりますが、ジャンピング・ニー・アタックからのアトミック・ドロップで6分34秒、坂口の貫禄勝ちとなりました。

 

坂口征二vsロッキー羽田
坂口征二vsロッキー羽田 1979年8月26日 日本武道館 画質最悪です

 

 

次回③は、新日本プロレス・後編です!

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