猪木 新日本プロレス 暴動の歴史 1984~87

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暴動…遠い異国の地で起きる事件のイメージですよね。かつて、日本でも安保闘争、学生運動など60年代までは珍しくありませんでしたが、70年代以降は(ごく一部の特殊な地域を除けば)、普通に暮らす一般大衆が(ニュースを含め)目の当たりにする事は、なかなかなくなりました。

 

しかし。

 

1980年代、新日本プロレスの興行ではこの暴動が多発して、プロレスファンにとってこの「暴動」はお馴染みのワード、光景でした(笑)。

 

と、いうことで今回は新日プロ事件シリーズ、「暴動の歴史」を振り返ります!

 

 

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◆暴動その1. 第2回IWGP優勝戦

 

記念すべき(?)新日プロ初の暴動事件は、1984年6月14日 蔵前国技館。この日は第2回IWGP優勝戦」ハルク・ホーガンvsアントニオ猪木が行われました。

 

 

衝撃の「猪木 舌出し失神事件」第1回IWGP優勝戦(1983.6.2)から1年。

 

アントニオ猪木がハルク・ホーガンに「猪木 血反吐を吐く復讐劇を展開するか、それともホーガン 勢いの二連覇達成なるか(古舘アナ)」と大注目のビッグマッチでした。

 

当然、プロレスファンは猪木のリベンジだけを期待。両者の入場から会場はマックスボルテージで、「ワールドプロレスリング」でのTV中継も、古舘アナの名調子が炸裂。大興奮の中、試合開始のゴングが鳴ります。

 

しかし。1年前は明らかに格下、言ってみれば猪木の弟子クラスだったハルク・ホーガンは、リングインした顔つきからして別人のようでした。

 

猪木から盗んだテクニックとインサイドワークに持ち前のパワーを加え、自信に満ち溢れた試合運びで、猪木の前に立ちはだかります。

 

 

それもそのハズ、ホーガンは猪木を破りIWGP王者となった半年後の1983年12月に、シニアの後を継いだWWFのオーナー・ビンス・マクマホンJr.に「WWF全米侵攻作戦」のエースとして白羽の矢を立てられ、翌1984年1月23日にはMSGでアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座を初戴冠

 

ハルクホーガン

 

以降、ホーガンは全米侵攻サーキットにおいて破竹の防衛ロードをひた走る、文字通り、ワールドクラスのスーパースターになっていました。

 

いくら恩義のある猪木 新日プロの興行とはいえ、全米一のプロレス団体の看板もあり、もはや、やすやすと猪木に負けられない立場なのです。

 

しかし一方の猪木も、アントンハイセル事業失敗からの社長解任クーデター、タイガーマスク引退と退団UWF旗揚げなどゴタゴタが続き、今度こそIWGPを制して復権を果たしたいところ。

 

猪木自身も、試合前に「この1年いろいろあったよ…この1年は10年ぐらいの長さに感じられる。いろいろあり過ぎた。今日は何としても負けられない。負けたら今度こそ詰め腹を切らされるよ。俺自身負けたくないしな。」と語っていました。

 

白熱した試合はもつれにもつれ、17分51秒、両者リングアウト、引き分けに終わります。

 

しかし納得いかない超満員の観衆は満場の「延長」コール。新日プロは猪木vsウィリーの異種格闘技戦やアンドレvsハンセンの伝説の田コロマッチなど、ここぞというときは観客の要請に応えた「延長戦」を行う、というのが恒例でした。

 

しかし、その延長戦もまた、2分13秒、両者リングアウトに終わります。

 

この試合、私は興行翌日のテレビ中継をリアルタイムで観ていましたが、とにかく猪木が1年前とは大違いの、自信に満ち溢れたホーガンをコントロールできず、この時点で「あれあれ、これどう決着するつもりなんだ」という雰囲気でした。

 

鳴り止まない「延長」コールの中、始まった異例の再延長戦

 

この試合、ホーガンは1年前の再現を狙いロープ際でアックスボンバー狙い、逆に猪木はエプロンで延髄斬りを見せてリベンジを狙うなど水際の攻防が続き、またもや両者もつれあってリング下へ。ホーガンは背後からアックスボンバー、猪木は鉄柱に額をぶつけるピンチを迎えます。

 

そしてここで大事件が起こります。

 

なんとなぜかセコンドにいたTシャツ姿の長州力が試合に介入。まずはホーガンが鉄柵へ振ろうとした猪木に対してリキラリアート。そして返す刀でホーガンにもラリアートを放ち、アックスボンバーと相打ちします。

 

この直後、完全決着、猪木の完璧なリベンジを期待していた観衆が暴発。

 

長州に対して飲み物が投げ込まれ蔵前国技館は一気に阿鼻叫喚の地獄絵図騒然となり、リングサイドのフェンス越しにセコンドの新日プロ若手レスラーと観客の局地的ないざこざが勃発します。

 

そしてこの混乱に乗じて、セコンドの坂口や星野らが猪木を強引にリングに上げ、挙げ句の果てに「3分11秒 猪木のリングアウト勝ち」というズンドコ裁定が下ります。

 

試合後、猪木は納得のいかないホーガンに対し「WWFと2本のベルトを懸けて再戦だ」などとアピールしますが、今夜の試合はこれでおしまいです。

 

ファンの怒りはレフェリーのミスター高橋と、長州に向けられました。優勝セレモニーが終わってからも観客は「金返せ!」コールを浴びせ、座布団や飲み物がリングに投げ込まれ続けます。

 

 

介入後、疾風の如く控え室へ消えた長州に対し「出て来い、出て来い、長州」コールが起きますが出てくるワケもなく、観衆の一部が垂れ幕を引き裂く、大時計を壊すなど暴徒化。

 

ついには蔵前警察署から警官が鎮圧に出動します。

 

警察官と警備員が説得し、何とか観客を会場の外に出すものの、尚も怒りが収まらない1,000名近い観客は国技館前で決起集会を開催。

 

「坂口は新日プロの責任者として謝罪せよ。混乱を招いた長州を処罰せよ」という署名入り要望書を新日プロ関係者に手渡した上で、午後11時半、ようやく解散となりました。

 

興行翌日のTV中継ではさすがにこの試合後の暴動の様子は一切触れられませんでしたが、プロレスマスコミで大きく取り上げられました。

 

 

◆暴動その2.闘魂LIVE Part.2 海賊男

 

2度目の暴動はその3年後。1987年3月26日に大阪城ホールで行われた INOKI 闘魂LIVE Part.2 アントニオ猪木vsマサ斉藤です。

 

この頃、長州力率いるジャパンプロレス勢の全日プロからのUターン間近で大いに盛り上がっていました。

 

長州の心の師、兄貴分のマサ斎藤は1984年、アメリカでケン・パテラが起こした警官との揉め事のとばっちりで屈強なポリスメンをブン殴って収監され刑務所暮らしを続けていましたがようやく釈放され、久々の猪木との一騎打ちでした。

 

試合はビッグマッチに相応しい、ベテランの両雄による攻防が続く中、唐突にリングサイドに「海賊男」が現れます。ホッケーマスクに海賊衣装、手には杖…と、この日は手錠を持参。

 

そしてなんと海賊男は、自分とマサ斎藤を手錠で繋いでしまいます。

唖然とする猪木とマサ、レフェリー、そして観客。

海賊男本人も首を傾げる始末。

 

結局、一度壊れてしまった試合は収拾できないまま、「25分31秒 マサ斎藤の反則負け」というグダグダな結末を迎えます。

 

この時も、観客の怒りは当初はもちろん正体不明の海賊男に対してでしたが、試合後の猪木のマイクアピールが観客に火をつけました。

 

「明日でも明後日でもいい、必ず決着をつけてやる」という猪木に対して観客からは「今やれ今!」と痛烈な野次が飛びます。

 

真っ当な勝負が見たいのに、訳の分からない余計なギミック、仕掛けをした挙句に滑りまくる、という最悪の展開に会場につめかけたファンの怒りが爆発。試合終了後も帰宅せず一部が暴徒化。リングへイスやゴミが投げられ、大荒れとなります。

 

結局、約3,000人の居残った観客が大阪府機動隊と警察により会場の外に誘導されたのは試合終了から2時間後、午後11時過ぎといわれます。

 

翌日のTV中継では、当然試合後の暴動の状況はスルーされましたが、ちなみにこの中継が、古舘伊知郎アナウンサーのレギュラー最終回でした。

 

 

◆暴動その3 たけしプロレス軍団

 

3度目の暴動はその年末。1987年12月27日 両国国技館で行われた イヤーエンドin国技館 です。

 

この日は当初、アントニオ猪木vs長州力の実に3年4ヶ月ぶりとなる一騎討ちをメインイベントに、セミでは藤波辰爾&木村健悟vsマサ斎藤&ビッグバン・ベイダーのタッグマッチが予定されていました。

 

この数ヶ月前から、ビートたけし率いるTPG(たけしプロレス軍団)と新日プロの抗争ストーリーが続いていました。

 

そしてこの日、年末の掉尾を飾るビッグイベントで、大将であるビートたけし本人が遂に、新日プロマットに登場、その刺客が日本マット初登場となるベイダーでした。

 

セミ前、たけし軍団とマサ、ベイダーを従えるカタチでビートたけしがリングに上がると、観客からはブーイングと「帰れ」コールが起こります。

 

これにはテレ朝、新日プロ、そしてたけし本人も予想外だったと思います。当時の新日、猪木ファンはかつてのストロングスタイル復活を願っており、当代きっての人気者であるビートたけしをしても「タレントがプロレスを愚弄するな」と拒絶反応を示したのです。

 

たけしはリング上でロングコートを着込んで微動だにせず、観客の反応に困ったような表情を浮かべていました。

 

代わりにマイクを持ったのはガダルカナル・タカとダンカン。代わる代わる、「猪木さん、出てきてください!ベイダーと戦ってください!」とアピールします。

そこへ猪木が登場、挑戦を受ける!というのが、猪木の描いたストーリーだったのです。

 

しかし、観客は長州と猪木の久々の一騎打ちを観に集まっています。当然の事ながら場内は殺気だったブーイングの嵐、イヤな予感が充満します。

 

 

ひと昔前の猪木ならばその空気を察知してストーリーを変えたかもしれませんが、この時期、猪木のベクトルはズレまくっていました。

 

TPGのトレーナー、マサ斎藤の「イノーキ、この男と戦え!俺がわざわざアメリカから連れてきた男だ。怖いかー!」のマイクアピールに対し猪木は案の定、「受けてやるかコノヤロウ!」と言い出します。

 

ここで発せられたのが「どうですかー!」の一言です(たけし軍団は後に「どうですかお客さん!」とネタにしましたが、正確には猪木は「お客さん」とは言ってません)。

 

 

「どうですか、と言われてもダメに決まってるだろ!」という満場の声を完璧に無視して、強引にメインイベントは猪木とベイダーのシングルマッチに変更されてしまいました。

 

こうなると立場がないのは長州力です。

 

師匠格であるマサ斎藤に説得され、渋々マサと組んで藤波木村との、なんの意味合いもないセミのタッグマッチへ組み込まれてしまいました。

 

藤波木村vsマサ長州の試合が開始されても、観客の怒りは収まりません。満場の「ヤメロ」コールが延々と続き、リング上に紙コップ、空き缶、弁当箱などありとあらゆるゴミが投げ込まれ続ける、という悲惨な状況の中、淡々と試合が進みます。

 

 

TV中継は興行翌日の放送でしたが、この試合の一部始終が放送されました。これまでのプロレスで観たことのない、観客が誰も望まない中で、ゴミだらけのリング上で、それも藤波や長州というスター選手が俯き加減で黙々と試合をしているのは、「シュール」としか言いようのない、異様な光景でした。

 

試合は盛り上がるワケもなく、6分30秒で長州が勝ちを収め、マイクを握ります。

 

怒りを通り越して情けなさからか泣きそうな表情で「みんな、納得いかなくても頼むから試合だけはやらせてくれ。モノは投げないでくれ!猪木は絶対オレがやる!倒すから!」と絶叫。どうみても被害者の長州に同情が集まります。

 

そこへガウン姿のアントニオ猪木が現れます。引き上げかけた長州を自ら呼び戻し、再度のカード変更で5分のインターバルの後、長州戦、ベイダー戦の2連戦とすると発表。

 

ここで観客は一旦、期待通りの猪木vs長州が行われる事で納得した空気になります。

 

しかし。

 

負傷欠場明けとなる長州に対し猪木はラフファイトで額を割り、わずか6分、ワンサイドの短時間決着(セコンドの馳の乱入による長州の反則負け)。猪木が省エネでベイダー戦へ進む選択をした事は明らかで、3年4ヶ月ぶりとなる待望の一騎打ちは超凡戦に終わってしまいました。

 

仕切り直しとなったメインイベント、アントニオ猪木vsビッグバン・ベイダー戦です。

 

ここで死力を振り絞った名勝負が展開されれば、あるいは状況が変わったかもしれません。

 

しかし、今度は自身が2試合目となる猪木は圧倒的なベイダーのパワーファイトの前になにもできず、3分足らずであっけなくピンフォール負け。そのままセコンドに肩を借りて姿を消してしまいました。

 

 

散々、勝手なカード変更の末の、短時間の凡戦の連続。

 

 

両国国技館を埋め尽くした観客は、退場を促すアナウンスにも従わず、さらにありとあらゆるゴミをリングに投げ入れ「金返せ!」「ふざけるな!」と怒号を上げて抗議。

 

遂には田中リングアナがリング上から「これ以上騒ぐともう両国国技館が使えなくなります。今日は勘弁してください」と土下座してファンへ号泣&謝罪

 

 

それでも沈静化しない会場に、遂に私服姿のアントニオ猪木が登場。謝罪もしくは長州との再戦を約束するかと思いきや…「皆さん、ありがとう!」とトンチンカンなマイクをやらかします。

 

 

これで観客の怒りは完全に頂点に達し、会場のあちこちで暴徒化します。

 

椅子を投げる、壁や升席のパイプを壊す、そして遂には天覧席のシートに火がつけられ…警察が出動する「事件」となりました。結局、この事態に相撲協会や両国警察、消防は激怒し、新日プロは300万円の賠償と、この後約1年2ヶ月間、両国国技館使用禁止とされてしまいました。

 

翌日の東京スポーツは一面にデカデカと「猪木が悪い」の大見出し。

 

 

もはや「アントニオ猪木の魔性とも言われた神通力が、遂に地に堕ちた」と感じざるを得ませんでした。

 


 

番外編

 

新日プロとして有名なのは前述した3大会での暴動事件ですが、実はそれ以外にも過去にいくつか、アントニオ猪木がらみで、似たような事態が起こっています。

 

◆東京プロレス「板橋事件」

 

1つ目はアントニオ猪木が豊登に引き抜かれて若きエースとして参加した東京プロレスの1968年11月26日、板橋区志村高校脇広場大会です。

 

旗揚げ間もない弱小団体である東プロは、この1ヶ月前に同じ会場で興行を打ち、4千人の観衆を集めて盛況に終わったのに味をしめて、短期間のうちに同会場での興行を打ちます。しかし、冬の寒い季節の野外、そしてたった1ヶ月しか間隔がないためまるで観客が集まらず、東プロ側は延々と待たせた挙句に突然、興行中止という暴挙に出ました。

 

それでも寒空の下で開催を待っていた観客はこの発表に激怒、リングを破壊して放火。警官隊が多数動員されて鎮圧されるという、世にいう「板橋事件」が起こりました。

 

 

この時、猪木ら選手は大会中止になった際に会場を離れており、団体側の杜撰な経営やギャラを巡って揉めており、いわば被害者的な存在でした。

 

◆幻の「広島事件」

 

そしてもう1つ、こちらは新日プロで、前述の初暴動から遡ること2年前。1982年3月26日の広島県立体育館、第5回MSGシリーズ大会で起こりました。

 

この日はTV生中継もあり7,500人の超満員(主催者発表)。メインイベントはアントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアントの公式戦です。

 

セミ前には人気爆発前夜のタイガーマスクがコロソ・コロセッティと対戦。そしてセミでは藤波vsキラー・カーンの公式戦が組まれていたのですが、藤波とカーンのライバル対決が白熱、なんと30分時間切れドローに終わります。

 

残されたTV生中継時間はあと僅か。そんな中、メインの猪木vsアンドレ戦がスタートしますが、試合開始前からアンドレが猪木に襲いかかり、いきなり珍しいジャイアント・バックドロップを炸裂!

 

 

そのまま両者はリング下へ移動、猪木はフェンスに逆さ吊りにされてリングアウト負け。試合時間はわずか1分41秒で猪木は膝を負傷してセコンドに背負われて退場しました。

 

これには広島のファンの怒りが爆発。「TV中継に間に合わせるために八百長やりやがった!」「金返せ!」と騒ぎ始め、リングにゴミが投げ込まれ、さらには観客がリングに上がり占拠!

 

 

警察が出動したかどうかは定かではありませんが、後の暴動のように器物が破壊されたり、火を放ったりとまでは至らず、マスコミに報じられる事もなかったため「幻の暴動事件」とされています。

 


 

次回、「なぜ猪木・新日プロでは暴動が起こったのか?〜観客心理の変化」へと続きます!

 

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