藤波vs長州「かませ犬発言と名勝負数え歌」1982〜1984

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あまりにも有名な、82年の長州力「かませ犬」反乱事件

 

なぜ長州は「革命戦士」となったのか?

それ以前の長州はどんな選手だったのか?

いきなり牙を剥かれた藤波の反応は?

そしてそれは、当時どのように起きたのか…あのTV生中継を見ていた私がご紹介します。

 

 


 

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●1982年10月8日(金)

 

12歳の私は、いつものように「ワールドプロレスリング」を観ていました(この日はプロ野球中継がある予定でしたが、雨天中止で放送になったのだとか)。後楽園ホールからの生中継で、メインイベントは6人タッグマッチ。

 

アントニオ猪木、藤波辰巳、長州力 vs アブドーラ ザ ブッチャー、バッドニュース アレン、S D ジョーンズ

 

新日とブッチャー「黒い軍団」の、ごくありふれた試合…のハズでした。

 

ガイジン組が入場し、「炎のファイター 猪木ボンバイエ」に乗って、3人が入場して来ます。長州、藤波、猪木の順。

 

パンチパーマだった髪型がストレートの長髪になり、真っ黒に日焼けした長州は、かつてとは別人のようでした。ずんぐりむっくりした体型も、いくぶんスリムになっていました。

 

入場、試合開始前から、なにやら長州の様子が変です。リングアナウンサーのコールに対して、自分がなんで先なんだ、とクレームをつけているように見えます。藤波は「何言ってんだコイツ」という顔をしています。

 

試合開始。当然、格から言えば長州が先発…ところが、長州はそれを拒否しているようです。藤波と小競り合いが起こり、「もういい!」とばかりに藤波が先発しました。

 

試合中も、2人のタッチの度にギクシャクします。藤波も長州も、猪木にはタッチしますが、お互いのタッチは受けず、言い争いが起きます。

 

観客はなにが起こっているのかわからないまま、2人がなんらか揉めている、ということは察知していました。

 

猪木は、といえば怒るどころかその2人のいざこざを黙認しているような雰囲気です。

 

そしてついに、試合そっちのけで2人は取っ組み合いの喧嘩を始めてしまいます。

 

実況の古舘アナ、解説の山本小鉄さん、櫻井康夫さんらが「長州はメキシコでカネックを破りUWAヘビーのベルトを巻いて、藤波に対してこれまでとは違うんだぞ、という気持ちなんでしょう」と口を揃えます。

 

かわいそうなのはブッチャー達ガイジン組です。何が何だかわからない中、黙々と試合をこなします。

 

試合は混乱のさなか9分30秒、藤波がジョーンズを回転エビ固めでピンフォール、日本組の勝ちで決着。

 

長州はツカツカと藤波に歩み寄り、強烈なビンタ3連発からのボディスラム!さらにストンピングで藤波をリング下に蹴散らします。完全なる戦線布告です。

 

慌てて止めに入った新間寿 新日プロ営業本部長も吹っ飛ばし、興奮冷めやらない長州にレフェリーのミスター高橋が「何やってるんだ!」と詰め寄ります。

 

藤波も怒りの形相で応戦し、2人の喧嘩はいつまでも続き、大混乱のさなか、生放送は終了。

 

試合後の控え室、猪木は長州に怒りの鉄拳制裁。長州は「オレだってねぇ…」と言い返しますが、その後の言葉を飲み込みます。

 

 

プロレスファンは長州の別人のような思い切った行動に驚き、大きな話題となりました。

 


 

●藤波と長州

 

1971年入門、新日プロ旗揚げからの生え抜きの藤波は格闘技経験なしの叩き上げで自らチャンスを掴み、Jr.ヘビー級チャンピオンとして凱旋、大ドラゴンブームを巻き起こし、この時点で「ポスト猪木」の最右翼でした。

 

一方の長州はアマレスでミュンヘンオリンピックに出場、スカウトされて1974年に新日プロに入団。年齢は藤波より2歳年上です。その後、藤波より早く海外遠征のキップを掴みますが鳴かず飛ばずで、長く地味な中堅選手として停滞していました。

 

私自身、この時期の長州の試合を何度も観ていますが、面白くもなんともない、つまらない試合をする選手、パワーファイターという売り方でしたが坂口征二やストロング小林といった大型選手に比べると小型で、中途半端、地味な印象、負け役のイメージしかありません。

 

 

すでにヘビー級に転向してWWFインターナショナル ヘビー級チャンピオンである藤波との対戦成績は、この時点で藤波の6勝0敗。人気、実力、格としても大きな「差」がありました。

 


 

●「かませ犬」発言の意味

 

この10.8後楽園ホールの試合後の控え室で、長州は「俺は藤波のかませ犬じゃない」と発言した、と言われています。

 

ところが、これはどうやら事実ではなく、12月号のプロレス雑誌「ビッグ・レスラー」単独インタビューで長州が例えとして発言したものを、古舘アナがその後の両者の対決時に頻繁に紹介して広まった、というのが真相のようです。

 

「かませ犬」とは、闘犬において調教する犬に噛ませて自信を付けさせるためにあてがわれる弱い犬の事で、プロレスにおける「負け役」「引き立て役」の意味です。

 

「実力は俺の方が上なのに、アイツの下をやらされるのは納得いかない」という趣旨を端的に表現したコピーとして、「下克上」「革命戦士」などと共に、長州がプロレスファンの圧倒的な支持を集めるきっかけとなりました。

 

プロレスファンもプロレスは年功序列、格の世界である事は十分理解していました。そのタブーを打ち破る発言と行動を自ら、たった1人で起こした長州の勇気が「革命」なのです。

 

会社でも、クラスでも、部活でも、実力はあるのに人付き合いがヘタとか、もっと華のある同僚がいるせいでなんとなく損したり、埋もれている者はいます。長州の「オレはオマエのかませ犬じゃないぞ!」は、そういう人の代弁として共感が広がり、熱狂的なファンが続々と生まれていきました。

 

この事件以降、中堅どころで長くくすぶっていたのがウソのように、見た目にも長州力はカッコよくなり、輝き出しました。小学卒業間近の私にとって「人はその気になればいつでも変わることができる」という事を目の当たりにした、貴重な体験でした。

 

その一方で、私はそれを受けた藤波の勇気に感心していました。「あんなワガママ許していいんですか」と会社にクレームをつけてもいいのに、藤波は文句も言わず、「その気で来るなら受けてやる」と真っ向から立ち向かいました。喧嘩は売る方より受ける方がシンドイものです。

 

抗争当初は判官贔屓から長州への声援が圧倒的でしたが、徐々に藤波への声援も増えていきました。


 

●名勝負数え歌

 

後楽園ホールの開幕戦での「反乱」後、姿をくらましていた長州が姿を見せたのは3日後、大田区体育館大会でした。試合道具の入ったボストンバッグを一つだけ持って長州はマスコミの前に姿を見せますが、思いつめた表情で多くを語りません。

 

 

新間寿氏、新日プロ営業本部長は「後楽園であれだけ雄弁だった男が、今日はこれですから」と切り出します。長州の「反乱」とその後の欠場に対し、団体側は処分を下しますが、アントニオ猪木が「気持ちはわかる」としてその処分を保留していました。

 

坂口征二 新日プロ副社長が「それで、広島(10月22日)はどうするんだ。もう宣伝して切符も売ってしまっているんだぞ。」と訊ねると、長州は「やります。やりますよ。・・・藤波とは今まで何回かやっている。でも、今までのオレだと思っていたら、彼はびっくりしますよ

 

これを受けて、両者は1982年10月22日、広島県立体育館でシングル直接対決となります。

 

「両者興奮状態でタイトルマッチとして相応しくない」という理由でノンタイトルになった、そんな記憶があります。

 

この日の試合前のエピソード、当時のゴング増刊号に載っていたのですが、私の好きな話なのでご紹介します。

 

アントニオ猪木がリング上でトレーニングしていると長州力が現れた。長州が会場にやってきたのは、10日前の大田区体育館以来だ。

「すいません」長州はぽつりと猪木に言った。

 

「藤波と会ったか。顔だけでも合わせておけ」そういうと猪木は藤波辰巳のいる控室に向かった。

 

半分蛍光灯を消した部屋に藤波がいた。「恥ずかしくない試合をしろ」猪木が二人に言った。


ちらっと視線を交わした長州はドアを開けて出て行こうとした。その背中に藤波が言い放った。「おい、長州。この前言ったこと忘れるなよ」

 

…どうですかこのハードボイルド。

 

この試合、長州はさんざん、スタンハンセンにやられ続けて来たラリアートを放ち、後に「リキ ラリアート」と呼ばれる必殺技が誕生します。

 

ほかにも急角度の「ひねりを加えたバックドロップ」、デビュー時から得意としていた「サソリ固め」も強烈で、遠征前とは別人のような強烈なインパクトを残します。

 

しかし、感情むき出しで大荒れ、最後はパイプ椅子での殴り合いに。20分を超える熱闘は、ノーコンテスト、無効試合の裁定となりました。

 

 

第2戦は11月4日、蔵前国技館。

 

ここから、藤波の持つWWFインターナショナルヘビー級選手権試合となり、ギスギスした初戦とは違い、技と技の白熱の攻防となりました。場外で長州が藤波をフェンスの外に出してしまい、フェンスアウト反則で藤波の防衛。

 

第3戦は翌1983年4月3日、蔵前国技館。

 

この日、ついに長州が藤波を破り、ベルトを奪取します。

 

長州は試合前のインタビューで「昨夜は眠れなかった。この一戦に俺は命を懸けてもいい」、試合後のインタビューで「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」とそれぞれコメント。

 

長州は寡黙ですが、時折放つ言葉が実に味があって、その言葉には名コピーライター並みのチカラがあります。

 

この試合はこの年のプロレス大賞 ベストバウトを受賞しました。

 

第4戦は4月21日、蔵前国技館。

 

私がもっとも印象深いのは、この試合です。

 

新チャンピオン長州に、藤波が挑戦しますが、藤波は3日の試合で強烈なジャーマンスープレックスを放った際に、膝の靭帯と半月板を損傷。

 

それもかなりの重症で、普通なら欠場…なのですが、藤波は膝にガスを注入してなんとか動く状態にして激痛をこらえ、戦い抜きます。

 

長州は「根負け」するカタチで場外フェンスに藤波を逆さ吊りにし、リングアウト勝ちというカタチで武士の情けを見せました。

 

この後も両者は名試合を連発。感情むき出しのスピーディな攻防は現代の「ハイスパートレスリング」の原点ともいわれ、「スウィングする攻防」と評されました。

 

両者の対決はいつしか古舘アナにより「名勝負数え歌」と命名され、「掟破りの逆サソリ」などの名フレーズと共に、プロレスファンを熱狂させました。

 

長州が全日プロに移るまでの、1982~1984年の藤波vs長州のシングル12戦は4勝4敗4分けのまったくの互角

 

80年代中盤のプロレス、新日プロブームはタイガーマスク、藤波長州、そして猪木、という3本柱が築いた奇跡の時代でした。

 


 

●長州が語る「藤波辰巳」

 

「藤波さんに対する感情はジェラシーの塊。第一印象はスリムで小さいな、でした。でも、格闘技のバックボーンはないけど、身体能力はズバぬけていた。僕はアマレスやってましたから、選手の体を見ただけで、どれくらい動けるのかがわかるんですよ。とにかく、脚力がすごかった。スピードが周りより、一歩も二歩も速かったですね。あとにも先にも、僕が驚かされたのは、藤波さんとタイガーマスク(佐山聡)の2人だけですよ。

 

(藤波の凱旋帰国からのドラゴンブームについて)これは僕を焦らす一大事件でしたよ。僕は会社の期待に応えられないパッとしないレスラーでしたからね。3度にわたる海外遠征のチャンスも生かせなかった。藤波さんが一大旋風を巻き起こしていた時代にアメリカ遠征をしていた際には、まだ20代で若かったから、このまま帰国しないでアメリカで気楽にやってるほうがいいんじゃないかと思うことさえありましたね。向こうのプロレスのスタイルもわかってきたところだったし。試合後のビールもうまい。何より気楽なんですよ。向こうでは藤波さんと比較されることもなかったからね。

 

(この10.8以前の対戦成績は藤波の6戦全勝)自分自身はその結果に納得しているつもりだったけど、やっぱり納得しきれない部分もありました。だから、藤波さんとの戦いがここまで尾を引いているんだと思いますよ。プロだから魅せるという部分では納得しても、対戦成績をまったく気にしない、全敗でいいというのは違うんじゃないかと。まあ、負け続けたから、かみつきやすかったってこともあったのは事実だけどね。」

 


 

●藤波が語る「長州力」

 

「長州からすれば、アマレスで五輪出場の経験もあり、鳴り物入りで大学からプロレス入りしたわけですよ。もちろんプライドもある。ただ、ここがプロレスの難しいところで、実績にもかかわらず、なかなかファンの支持を得ることができないわけですよ。海外でタイトルを獲って帰ってきても、なかなか自分の色を出せないでいる。そうした中、互いに海外でヘビー級のベルトを獲って凱旋帰国し、タッグを組まされるのですが、僕に対するジェラシーとか、実力がありながらファンに認めてもらえない鬱憤みたいなものが積みに積み重なって、それが一気に爆発したのでしょうね。長州にとっては、一世一代の大勝負で、これで会社の上層部の反発を買い、もしかしたらクビになるかもしれない、でも、それでも構わないと覚悟の上でやったみたいです。ただ、最初リングの上で何が起きているのか、彼が何を訴えているかが、まったくわからなくて。マスコミや周囲の人には、すぐわかるようなことでも、当事者である自分はなかなかわからなくて、長州が僕をターゲットにしていることが、わかったのはしばらくたってからのことでした。

 

長州はアマレスでの経験が豊富なだけに、レスリングの基礎がしっかりしていて、どっしりと重いのです。なんで芽が出なかったのだろうかと思うぐらいの実力者ですよ。そこがプロレスのむずかしいところなのでしょうが、僕と対戦することで、彼の持っているいい面がどんどん出てくるようになったと思うのです。つぼみが開花したような感じで。」

 


 

「名勝負数え歌」対戦一覧

 

▼1982年

①10月22日広島県立体育館
△藤波(20分34秒、ノーコンテスト)長州△

 

②11月4日蔵前国技館
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○藤波(12分8秒、反則勝ち)長州×
※フェンスアウトで藤波の王座防衛

 

▼1983年

③4月3日蔵前国技館
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○長州(16分39秒、体固め)藤波×
※リキラリアートで長州王座奪取

 

④4月21日蔵前国技館
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○長州(12分8秒、リングアウト)藤波×
※藤波は4月3日の試合で負傷した膝が治らず、場外フェンスに逆さ吊りにされリングアウト負け。長州王座防衛。

 

⑤7月7日大阪府立体育会館
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○長州(16分29秒、反則勝ち)藤波×
※掟破りの逆サソリ初公開。ロープに逃げた長州を離さず藤波の反則負け。長州王座防衛。

 

⑥8月4日蔵前国技館
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○藤波(19分24秒、リングアウト)長州×
※場外での延髄斬り、バックドロップで藤波王座奪回。

 

⑦9月2日福岡国際センター
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
△藤波(12分51秒、両者リングアウト)長州△
※藤波王座防衛。

 

⑧9月21日大阪府立体育会館
△藤波(19分24秒、両者リングアウト)長州△

 

▼1984年

⑨2月3日札幌中島体育センター
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
▲藤波(試合不成立)長州▲
※藤原喜明乱入により試合不成立。

 

⑩6月10日静岡産業館
IWGP公式リーグ戦
○長州(14分42秒、リングアウト)藤波×

 

11.7月5日大阪府立体育会館
○藤波(9分46秒、反則勝ち)長州×
※エル・カネック戦を終えた藤波が2連戦。

 

12.7月20日札幌中島体育センター
WWF認定インターナショナルヘビー級選手権試合
○藤波(15分8秒、体固め)長州×
※乱入した猪木に気を取られた長州にバックドロップ。藤波王座防衛。

 

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