1985-88 長州・新日プロへUターン〜ジャパンプロレスとは何だったのか?②

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新日本プロレスを「大量離脱」した長州力ら、維新軍が結成したジャパンプロレス。

 

japanprowrestling

 

後編②では、「幻の独立計画」の野望内紛、そして長州力の新日本プロレスUターンから崩壊までの経緯を解説します!

 

>①はこちら

 

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「オレたちの時代だ」~マシン合流が生んだ軋轢

 

1985(昭和60)年8月5日。ジャパンプロレスは自主興行「サマー・ドリーム・フェスティバル」大阪城ホール大会を開催。

 

ジャパンプロレス

 

当初予定されていたジャンボ鶴田戦が鶴田の負傷欠場で谷津戦となった長州は、試合後に
「もう目標は達成された。今日限り、維新軍団を解散します!もう馬場、猪木の時代じゃないぞ!鶴田、藤波、天龍、そして若いオレたちの時代だ!」とマイクアピール。

 

俺たちの時代だ 長州

 

そこに私服姿のスーパー・ストロング・マシン(平田淳二)が現われ、両者はガッチリ握手を交わします。

 

長州マシン

 

マシンらカルガリー・ハリケーンズもまた、大塚氏の新日本プロレス憎しの「引き抜き」であり、そして全日本プロレスとは関係なく、ジャパン独立のための一手でした。

 

しかしジャイアント馬場の了解をとらず進めたことで、それまで円満だった両者の関係が揺らぐ一因となります。

 

馬場はこの時、NWA総会出席のため渡米中。自主興行は認めていたものの、あくまで全日本プロレスの一員であるハズのジャパンプロが、自分の留守中にだまし討ちのような勝手な振る舞いをすることが、「筋を通す」ことを重んじる性格上、どうにも信じられず、許せません。

 

さらに間が悪いことに、馬場はこのタイミングで新日本プロレスの坂口征二と会い、両団体の「仁義なき引き抜き合戦」の手打ちを画策していました。

 

新日本プロレスはすでに報復として越中詩郎、ケンドー・ナガサキを獲得しており、続いて同じく海外で活動中のザ・グレート・カブキ、プリンス・トンガらも引き抜こうとしていました。

 

これ以上の争いは両団体にとってメリットがない(選手のギャラが高騰するだけ)と考えた両巨頭は、水面下で停戦に向け交渉中だったのです。

 

馬場坂口

 

そこに来て、ジャパンのカルガリー勢の引き抜き。事前に知らされていなかった馬場はジャパンプロレスの「独断専行」に激怒し、一気に不信感と警戒感を強めます。

 

水面下でのTBS中継・独立&UWFとのプレ・オールスター戦計画

 

ジャパンプロレスはスポンサーの竹田氏の資金援助を得て、世田谷に総工費3億円、3階建ての道場付きの自社ビルが完成。

 

ジャパンプロレス本社

 

ミスター・ヒトのガイジンルートを確保、ハリケーンズの外部ユニットも子会社化し、来るべき時期に全日本プロレスからの独立を画策していました。

 

団体運営の最大のポイントであるTV局についても、TBSでのレギュラー放送プランがありました。

 

1985(昭和60)年9月には、芸能事務所とレギュラー放送における企画制作契約を締結。テスト放送として12月5日に日曜19時半から90分の「ザ・スペシャル」枠で「長州力特番」を放送。

 

 

その後の計画では大晦日、紅白の裏番組として「格闘技大戦争」特番をぶつけ、翌86年3月に特番、4月からレギュラー放送開始…の絵図が完成していました(この時の大晦日特番の隠し玉としてミスター・ヒトを通じて確保されていたのが、後に長州力と異種格闘技戦を行ったパワーリフティング1982年世界大会優勝、トム・マギーです)。

 

長州異種格闘技戦

 

勢いに乗る大塚氏は、9月10日に記者会見を開き「ジャパンプロレスの自主興行は来年100試合開催を目指す。そうなれば全日本プロレスとは別々に興行することになる」と事実上、全日本プロレスからの独立を宣言。さらに「11月12日、ジャパンプロレス主催で両国国技館大会を開催する。プレ・オールスター戦を計画している。」とブチ上げます。

 

このプレ・オールスター戦は、ハリケーンズと、同じ第三極団体である(第1次)UWFの参加を見込んだものでした。

 

長州も「ウチのマットに来たい者は拒まない。馬場さん、猪木さんがいなくたって若い世代でオールスター戦ができるんじゃないか?近々、やりたい場所にやりたい人間が集まるよ」と発言。

 

実際にジャパンとUWF、そしてハリケーンズは、2月に小林邦昭と新倉史祐がUWF後楽園大会に、ジャパンプロレス大阪城ホール大会を藤原喜明と高田延彦が互いに視察、9月にはハリケーンズがUWFの興行に現れる、といったマスコミ向けの「絵作り」が、さかんに行われていました。

 

長州の言う「オレたちの時代」とは、ジャパンとUWFが連合軍を組んで馬場・猪木支配とは別の、若い世代が中心のマットを作ることにあったのです。

 

相次ぐトラブル・BIが手を組みジャパン独立計画は幻に

 

しかし。ここから思わぬ事態が連鎖し、ジャパンプロレスの「独立計画」は幻と消えます。

 

スポンサーを獲得して経営が軌道に乗ると思われていたUWFでしたが、そのスポンサーとは悪徳商法で知られる「豊田商事」の関連会社。1985(昭和60)年6月18日に「永野会長刺殺事件」が起きたことでその闇が一気に噴出し、関連会社も含めて破綻。当然、UWFへの出資話は消滅しました。

 

さらには9月2日に団体の運営を巡って佐山聡と前田日明が衝突。結果的に12月、UWFは古巣である新日本プロレスへのUターンが決定しました。

 

ジャパンとしてもこの動きを察知し、9月26日には長州が「今年はプレ・オールスター戦はできないな。選手が集まらないから中止だよ。いける感触はあったんだけどな。オレはUWFから2人は参加してくると確信していたんだけどな・・・」とコメント。

 

この裏側には、UWFと全日本プロレスとの交渉がありました。しかし、既に団体内が日本人レスラーで飽和状態の全日本プロレスはUWF全員を受け入れる余力はなく、馬場からの「前田と高田の2人なら」という条件を蹴り、UWFは新日本プロレスへのUターンを選んだのです。

 

そしてトドメが、TBS のTV放送消滅。

 

TBSは上層部に過去の国際プロレス中継打ち切り時のトラウマからプロレス業界に嫌悪感を持つ人が多く、決定権を持つ役員が入院するという不運も重なり、承認が得られませんでした。

 

こうしてUWFとのプレ・オールスター戦、TV中継が消えたジャパンプロレスは、再び全日本プロレスとの関係を強化するしか生き残る道がなくなりました。

 

これに対し全日本プロレス側も、

 

・ゴールデンタイム昇格に伴い、日本テレビからの放送権料を10から15%に引き上げる

・両国国技館など東京の大会場を合同興行にする

・後楽園ホールは年間興行数に半分の主催権を与える

・札幌中島体育センターは年1回、愛知県体育館と大阪府立体育会館は年2回の主催権を与える

 

といった提携強化案を提示。ジャパンプロレス側もこれを了承します。

 

しかしこれには付随条項として、

 

・ジャパンプロレスの所属選手は(ジャパンプロレスが存続する限り)全日本プロレス所属選手として契約を結ぶ

・ジャパンプロレスの自主興行シリーズは年内をもって終了、全日本プロレスはその対価として4,000万円をジャパンプロレスに支払う

 

とありました。

 

これによりジャパンプロ所属選手は事実上、全日プロ所属となり、独立への道は完全に絶たれたのです。

 

さらにジャイアント馬場はこの頃、アントニオ猪木、坂口征二らとハワイ他で頻繁に会談。双方の弁護士立ち合いのもとで「引き抜き防止協定」を結びました。

 

12月15日、力道山23回忌法要が東京の池上本願寺で行われ、馬場と猪木がガッチリ握手。

 

馬場と猪木

 

この影響でハリケーンズは一時、完全に「干されて」しまい、新日本プロレスとの契約が切れる3月末まで、全日本マットには上がることができませんでした。

 

ジャパン独立のための一手であるハリケーンズでしたが、馬場を怒らせてしまい、猪木・坂口と手を組んで「ジャパン封じ込め」に動くきっかけとなってしまいました。

 

長州はこうなることを最も恐れ、ハリケーンズ引き抜きには反対していたと言います。猪木を敵に回す覚悟で戦う大塚氏と、猪木だけは敵に回したくない長州の足並みは、この頃から既に乱れていたのです。

 

ジャパンプロレス内部の不協和音と長州の「限界」

 

後に大塚氏はジャパンプロレス最大の誤算として「自主興行に人が入らない。全日本プロレスとの対抗戦は満員なのに、ジャパン単独になると不思議なくらいチケットが売れなかった。」と語っています。

 

マット上の戦いにおいても、長州力はジャイアント馬場との対戦を避け、2番手のジャンボ鶴田からは「同格じゃない」扱いを受け、3番手の天龍源一郎と互角の勝負を繰り広げていました。

 

それでも長州は看板タイトルのPWFを巻き、鶴田・天龍の鶴龍コンビと長州・谷津のインタータッグ戦は名勝負となりましたが・・・それ以外は全日本特有の「サイズ」と「テンポ」の違いに飲み込まれ、どんどん自身のよさが失われていく感覚だっただろうと思います。

 

長州PWF

 

それは長州だけでなく他の新日出身者も同様で、全日レスラー達からは「あいつらはプロレレスがわかっていない」、馬場御大からも「軍鶏のケンカ」と揶揄され、一方のジャパン勢からは「あんなチンタラした試合に付き合ってられるか」というイデオロギーの衝突が、ずっと続いていました。

 

そして1986(昭和61)年頃から、今度はカネの動きを巡って団体内に不協和音が起こり始めます。時まさにバブル絶頂期。自社ビルの地価が一気に値上がりしたことがきっかけでした。

 

そもそもこの本社ビルの土地と建物はスポンサーの竹田氏の持ち物で、ジャパンが将来的な自社保有を目指して月々200万円、家賃兼ローンとして払っていました。

 

竹田氏は設立資金、選手の契約金、新日本プロレスおよびテレビ朝日への違約金などをすべて立替えてもらっており、大塚氏としては当然の支払いだったのですが、長州らは「どうして自社ビルなのにこんなに支払うのか」と文句を言う始末。長州らは新日時代よりも高いギャラおよび役員報酬も受け取り、所属選手も増えて経費はかさむ一方で、団体運営は厳しさを増していました。

 

この選手とフロントの不協和音に乗じて、専務である加藤一良氏と長州の「蜜月ぶり」が更に色濃くなります。

 

加藤氏はジャパンプロ誕生前に、長州力の芸能活動やグッズ販売を手掛ける「リキプロダクション」を仕切っていた人物。加藤氏はジャパンプロレスの専務でありながら新本社ビルではなく恵比寿にある旧リキプロ事務所に留め置かれたことに不満を募らせ、ライバルである大塚氏と対立色を強めていきます。

 

全日残留か、新日Uターンか

 

1986(昭和61)年10月。「INOKI闘魂LIVE Part1」両国大会のリング上で、代理人を通じて猪木へ長州力から花束が贈られ、騒然となります。

 

この時期、試合後のコメントなどで長州から新日プロについてのものが増え、復帰のウワサが立っていました。

 

そしてこの年末、ケン・パテラの警官への暴行事件の巻き添えを食らって米国の刑務所に収監されていたマサ斎藤が出所。収監中に「またリングで戦おう」という励ましの手紙をくれたアントニオ猪木に感激したマサは、猪木戦を熱望します。

 

1987(昭和62)年1月、長州は日テレ「全日本プロレス中継」試合後の勝利者インタビューで唐突に藤波の名前を口にします。「まあ、ジャパンがこの世界で生きていくためには…ジャンボや天龍なり、藤波なりを、みんなで倒さなきゃならないから…まあ、一生懸命、頑張ります。」

 

すると今度はテレ朝「ワールドプロレスリング」で藤波がそれに呼応「まぁ長州選手がそういう口火を切ってTVを通じてね、そういう風に自分の名前が出て、改めて今日僕はここで反対に長州選手にね、よし! やろう!っちゅう事で。また長州選手だけでなく、天龍、鶴田選手とか、またそれに関わってくるこれからの選手もね。そういう今まで一つの団体だけだったのがそういう団体の枠を取り払って、やっぱりプロレス界のためにね、やっぱりまたファンの夢をこれから応えなきゃいけないからね。…やります!」と宣言。

 

当時はTV中継でライバル団体の選手の名前を出すだけで大事件。同時に、この反応から長州と新日本プロレスとの間になんらかの「密約」があるのでは?となって当然です。

 

すかさず週刊ゴングは鶴田、藤波、長州、天龍ニューリーダー4人の頭文字をとって「鶴藤長天」キャンペーンを張り、「今こそ団体の垣根を超えた交流を!」と盛り上げます。

 

鶴藤長天

 

そして3月に大阪で開催される「INOKI闘魂LIVE Part2」猪木の対戦相手にマサ斎藤が正式決定。馬場、大塚氏は「あくまでも本人の意思を尊重した1試合のみの特例措置」として、渋々認めるカタチでした。

 

長州は2月3日からの全日プロ「エキサイトシリーズ」の欠場を発表。手首の負傷がその理由でしたが、「ガングリオン(悪性結節腫)」という聞きなれない病名と共に、「新日復帰を目論んだ仮病では?」との憶測を呼びましたが、実際は、「新日本プロレスと全日本プロレスを天秤にかけて」の雲隠れだったと後に長州本人が認めています。

 

長州力

 

この頃、長州は加藤氏と共に新日本プロレスの倍賞鉄夫氏と連絡を取り合い、猪木の言葉として「長州と谷津が戻ってくるなら1億円出してもいい」との確約をもらっていました。長州は「もうジャパンは棄てて、選手だけで新日に戻ろう」と谷津を説得しますが、谷津は永源の説得を受けて全日本に残留することを決意しており、返答を保留。

 

全日側としても馬場が長州、谷津と鶴田、天龍の4人に対して「これからはお前達4人が全日本を支えて欲しい」と、大塚氏と離れて全日本との直接契約を打診。それとは別に、日本テレビも馬場には知らせず松根社長を動かし、「長州を日本テレビ契約選手として全日本プロレスに派遣」という形で引き留めようとする動きまでありました。

 

その後、長州は馬場と会い、3月27日から開幕する「チャンピオンカーニバル」への出場を約束。4月2日にはジャパン主催の大阪興行もあり、欠場は許されません。

 

しかし、長州は復帰の会見で「3月いっぱいで全日本プロレスとの提携を解消、ジャパンプロレスは完全独立」と発表します。

 

この時点での長州の考えは、「ジャパンは独立しても新日本と全日本と選手個別のシリーズ契約で出場、バーターでジャパンの主催興行に新日本と全日本の選手に参戦してもらう」というものでした。しかしこのプランに、谷津と永源が猛反発。谷津らは「長州の考えは単なる口実で、新日本に戻りたいだけだろう」と長州を糾弾。

 

馬場としても「ジャパンが全日本と契約を更新しない場合は6か月前に申し出をしなければならない契約であり、引き抜き防止協定でジャパンの選手は全日本所属。全日本がジャパンとの契約を破棄しない限り、新日本のリングには上がれない」と主張し、そのプランを却下します。馬場からすると「ペナルティを払い、ちゃんとした形で出て行けるならどうぞ。でも、そんなことできないだろう」と考えていました。

 

孤立を深める長州は、「マサ斎藤の代理人」としてINOKI闘魂LIVE前夜祭レセプション会場に姿を見せ、猪木、藤波とガッチリ握手。

 

 

そして翌3月26日、大阪城ホールでの猪木vsマサ斎藤戦の観客席に現れた長州、小林邦昭らは、セコンドに馳を送り込み、試合後にフェンスを挟んで藤波ら新日プロ勢と一触即発

 

 

新日プロ復帰を「既成事実」として、満天下のファンに示します。

 

これを見て怒ったのが馬場からの信頼を得て選手たちに残留を説得して回っていた、永源でした。この騒ぎに馬場も自らジャパン本社に駆けつけ、長州だけでなく斎藤も全日本プロレスに出場させる代わりに、独立を撤回しろと迫ります。

 

しかし翌28日、開幕戦当日に長州が斎藤、小林、寺西、保永、笹崎、健介、タイガー服部、カルガリーハリケーンズのマシン、ヒロ斎藤らと共に本社に篭城し、試合出場をボイコット。

 

ここで全日本に出場したら新日本とのラインが消滅すると考えた長州は竹田氏、大塚氏の説得にも応じず、結局開幕戦に出場したのは谷津、永源、栗栖の3人だけでした。

 

これを受けてその2日後の1988(昭和63)年3月30日。ジャパンプロレスは記者会見を開き、竹田会長と大塚直樹副会長が「長州力の追放」を宣言

 

そしてその席上、大塚氏は1月の川崎大会終了後に長州と共に新日プロ本社を訪れ、待ち受けていた猪木から「ウチに戻って来い」と誘われていた、という事実を明らかにしました。

 

新日プロUターンの余波

 

「追放」された長州をはじめ、マサ斎藤、小林邦昭、保永昇男、スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤らが新日プロにUターン。デビュー前の馳浩、佐々木健介も追従しました。

 

しかし、長州は事前に提示されていた1億円ではなく、1,000万円しか受け取ることができませんでした。その理由はおそらく違約金が差し引かれたことと、もう一つは「追放」され、他に行き場もない長州が足元を見られたのでは?と言われています。ちなみに長州は追放会見の1か月後にこの1,000万円を全額、竹田氏に「返金」しに来たと大塚氏は明かしています。

 

一方、谷津嘉章、寺西勇、永源遥、栗栖正伸、仲野信市、高野俊二は全日プロに残留

 

中でも谷津は鶴田と「五輪コンビ」を結成するなど、重用されます。馬場からすると「全員に出て行かれると猪木と同じに思われるのでイヤだが、大型でレスリングもできる谷津が残れば、あとは要らん」が本音だったでしょう。

 

永源は馬場からタニマチや裏社会の顔の広さを買われ、すっかり「全日本プロレスの人」に。この後も長く営業、プロモーターとして活躍します。

 

アニマル浜口はジャパンに参加する際に「次にトラブルを起こした場合は引退する」と決意を固めており、8月の新日本プロレスで引退式を行い、引退しました(後に新日本プロレスで復帰)。

 

WWFに参戦していたキラー・カーンはジャパン分裂をアメリカで知ると、長州、そして日本マット界に失望し、ビンス・マクマホンやハルク・ホーガンらの引き止めを振り切り、引退しました。

 

大塚直樹氏が語る長州‐猪木のエピソード

 

後に大塚氏は、長州と猪木の密会時のエピソードを明らかにしています。2人の関係性がわかる、個人的に好きなエピソードなのでご紹介します。(週プロスペシャル「猪木毒本―いま、なぜイノキなのか?」より)

 

長州大塚

 

あの1月の10日だか11日。川崎の試合が終わったときに、僕、新日本の事務所に長州と二人で行ってるんです。まだ全日本に上がっているときに。

 

それというのは新日プロの後輩が僕のところにずっと通って来ていて、『大塚さん何とか助けて下さいよ』って言うから、『じゃあもうここで、1本にまとまる方向で考えるか』みたいなね。

 

『じゃあ、とりあえず1回会わなきゃしょうがないな』『来てくれますか』『いいよ。俺1人で行ってもしょうがないから長州連れてくか』『えっ、連れて来てくれますか』『大丈夫だよ』。

 

で、確か11日だと思ったんですけど、全日本の川崎の試合があって、その後に、長州に『今日あいてるか?』『あ、いいすよ、あいてますよ』『だったら1~2時間、俺に付き合ってくれるか』『わかりました』って。

 

試合が終わってシャワー浴びて僕の車に乗った途端に、長州が言ったんです。『大塚さん、青山(新日プロのこと)行くんでしょ』って。

 

すごいですよ。俺ゾクッとしましたもん。ホント僕、どこに行くのかなんにも言わなかったですからね。本人もいろんなこと考えたんじゃないですか。

 

車に乗って走り出したらすぐでしたから。『おい、なんだお前のその勘すごいなぁ』『えっホントですか?』って、自分で言った後、聞き直してるの(笑)。『ホント、ホント』って。

 

そしたら長州が『まさか(猪木さんが)待ってるわけじゃないでしょうね』『そのまさかだよ。ナンバー2もいるよ』っていったら『えっ!』って驚いて、何したと思います? 光りモノ…時計外して、指輪外して、ブレスレット外した。これホントなんです。言ったと同時に外した。

 

それで『終わるまで、これを持ってて下さい』って。『わかった、わかった、ポケット入れとく』って預かった(笑)。もう師弟関係ですね。あれはすごかったですね。ホント全部外して。着いたのは夜の10時半ぐらいです。

もう猪木さんは頭から『おい長州。そのまま戻って来てくれ!』ですよ。『いま、お前の力が要るんだ!』って(笑)。すごいですよ。それで肩抱かれて腕とか掴まれて。もう心をキャッチされちゃったですよね、長州は。

 

坂口さんも『大塚君、よく来てくれたね』みたいな話で(笑)。猪木さんは冷静で『何しろ営業が弱いんで、助けてくれないか』みたいな話になって。『やっぱりそうなっちゃいましたか』『うん。駄目だよ。どうしようもねぇんだよ。いつすべるかわかんないような状態だよ』みたいな話してね」

 

猪木長州

 

ジャパンプロレス崩壊

 

その後、1月17日には福岡の全日空ホテルで、坂口・藤波と大塚・長州・永源が極秘に面会。

 

大塚氏としては、ジャパンプロレスと新日本プロレスとの「国交回復」が目的で、ジャイアント馬場にも話を通した上で、あくまでも当初の目的である「1枚のチケットですべての団体が見られる」を実現しようとしていました。

 

しかし、大塚氏が猪木との面会に長州を連れて行ったことで、風向きが変わりました。新日本プロレス社内には大塚氏の復帰に反対する勢力も存在しており、新日本プロレスの狙いは「ジャパンではなく、長州力の一本釣り」に。猪木からは「長州、谷津、マサ、小林、服部だけでいい。あとは要らない」と言われていました。

 

この長州らの「出戻り」によって、ジャパンプロレスは活動開始から2年半で崩壊。正式には1988(昭和63)年1月21日をもって、全日本プロレスとの契約解除となりました。

 

ジャパンプロレス

 

大塚氏と長州が描いた「オレたちの時代」は実現せず、結局、新日本プロレスと全日本プロレスの2団体が生き残りました。

 

大塚氏は「ジャパンは選手を引き抜きだなんだと攻めていくときはよかったけど、いざそこからどう仕上げてかという段階で、馬場さんや猪木さんを融合させるだけの説得力もなかったと語っています。

 

大塚直樹氏が語るクーデター、長州力、猪木と馬場

 

2009年、大塚氏のインタビューが東京スポーツに掲載されました。「大塚氏から見たクーデタークーデター事件や長州、猪木、馬場について」が非常にわかりやすいので、ご紹介します。

 

大塚直樹

 

●クーデター、ジャパンプロレスについて

「今ではジャパンプロレスを興したことを悔やんでいる。現在のプロレス多団体時代を誘発してしまったのでは、と。若気の至りだった。クーデターで猪木さん、坂口さんを裏切ってしまった。ここにきて、当時の猪木さんの言葉が理解できる。私が何もしなければ、何か違うやり方で臨んでいれば…ここまでプロレスが落ち込んでしまうことはなかった。「一枚のチケットで全団体が見られる」ことを目指して事を起こしたが、失敗だった。「一つにできる」と思っていた。まずグッズから始めようと当時の4団体、新日本、全日本、ジャパン、全日本女子と契約書を交わし、統一グッズ制作の手はずは整っていた。でも本格着手する前にジャパンプロの内部がおかしくなって、それどころではなくなってしまった。」

 

●長州力について

「向こう気の強さや迫力のあるアピールなど、プロレスラーとしては素晴らしかった。人間としても基本的には親切で素直。聞く耳も持っていた。でも自分の気持ちにストレートで、常に楽な方に身を置きたがった。『社長』という価値感がわからなかった。馬場さんや猪木さんのように、経営者として苦労する道を選ぶことができない人間だった。私は馬場さんや猪木さんにも一時期、とことん信頼してもらった。でも長州選手とは、最後までそういう関係を築けなかった。」

 

●ジャイアント馬場について

「懐が深くて頭が良くて礼節をわきまえていらっしゃった。ただ、答えを出していただくまでに時間がかかった。交渉事でもジャブの応酬ばかりで、本格的な打ち合いにはならない。その内、葉巻をくゆらせながら「次回でいいじゃないか」となる。」

 

 

 

 

●アントニオ猪木 について

「設立メンバーとして加わった新日プロでは、猪木さんとともに「プロレス市民権」のために頑張りました。ファンや営業先から「プロレスは八百長じゃないの?」と、聞かれた時の答えを猪木さんは用意してくれました。自分の力が10で相手の力が1だとする。実力的には1分以内で決着をつけられるが、それじゃあプロではない。1の力を6、7にまで引き出してやる。そして自分は8の力で仕留める。「レスラーは頭を使え」ということでしょう。猪木さんの言葉は、プロレスだけでなく人生そのものにも通用するものが多かった。白い目で見られがちだったプロレスを、メジャーにしようと一生懸命だった。「野球や大相撲に負けるか」と、猪木さんも我々フロントも熱かった。熱心なファンも大勢いた。何百試合も観戦してくれている人もいて、表彰したりもした。猪木さんを核にして、みんな燃えてました。数年前に京都駅で偶然、出くわしたことがある。遠くから見つけてくれて大声で「大塚!」と手を振ってくれた。向こうは急いでいるはずなのに、10分以上話し込んだ。大きくて影響力のある人ですよ。翌日、数人の関係者から「猪木さんと会ったのか?」と電話がかかってきた。やはり飛び抜けた存在です。」

 

恩讐の彼方に

 

大塚直樹氏は、現在はプロレスとは無関係のお仕事をされていますが、2018年1月のアントニオ猪木古希パーティに参加。そしてこのパーティの幹事はなんと、新間寿さん。挨拶した前田日明氏は、猪木のことを「社長」と呼びました。

 

 

いろいろ確執、衝突がありまくった猪木・新日プロですが、今となっては恩讐を超えているところもまた、不思議なところです。

 

大激震の84年当時、「次に離脱するのは藤波だ。そして藤波が離脱したら新日プロはおしまいだ」と言われた藤波辰巳は結局、動きませんでした。そんな藤波について、伽織夫人は

「猪木さんって主人にとって凄い人なんだな、って身近に感じたのは、大阪のテレビ番組の仕事でご一緒した時です。主人がメインエベンターになってからですよ。なのに主人は初めて猪木さんからサインをもらったんですよ。20年もそばにいてですよ。その時の嬉しそうな顔はハッキリ覚えています。とにかく彼は、猪木さんが好きなんですね。昭和59年頃でしたか大量離脱の時、「猪木さんがかわいそうだ。マンションを処分してもいいかな」と言い出したくらいですから。私はこと猪木さんの件に関しては、何も言いませんでした。」

 

そして、自らも団体の分裂や崩壊など、波乱のプロレスラー人生を送った前田日明氏は、新日本プロレスについて、こう語っています。

 

「あの新日にいた期間だけが、いつまでも楽しい修学旅行だもん。夢のような修学旅行だったよ。」

 

 

 

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