UWFとは何だったのか?⑨追撃戦~新間寿氏 から見たUWF / 週ゴンvs週プロ代理戦争

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1983年夏、それまで月刊誌だった「プロレス」が週刊化を断行。記念すべき週刊プロレスの創刊号表紙は初代タイガーでした。

 

それから遅れること半年、1984年春に週刊化したゴングの表紙は馬場と猪木

見出しこそ「(BIの)年内揃って引退説を追う」ではありましたが、新興勢力派の週プロvs歴史と伝統の週ゴン、といった両誌の方向性が現れていると感じました。

▲週刊ゴング 1984年5月24日創刊号 / 週刊プロレス 1983年8月9日創刊号

 

 

そしてその週ゴン創刊当時、最大の話題はUWF、というより「新間寿氏」の去就でした。

今回は文字通り「UWFを創った男」である新間氏から見たUWF、を探ってみたいと思います。

 


 

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◆「アントンハイセル」とクーデター事件

 

後に「第一次」といわれるUWFは、「クーデターで新日を追われた新間寿氏が、アントニオ猪木の受け皿として用意した第3極団体」とされています。

 

すべて事の発端は、新日プロブームの最中、猪木が熱を上げ資金を投入し続けた「アントンハイセル」事業。

 

1980年、猪木は実兄の快守氏から燃料アルコール研究者なる人物を紹介され、ブラジルの国家的難題である「アルコール燃料リサイクル発電」についての投資を持ちかけられました。

 

当時のブラジルは、原油価格が高騰したオイルショックのトラウマもありガソリンの代わりにサトウキビから精製したアルコール燃料を作る「バイオマスエネルギー」に取り組んでいましたが、その際のサトウキビのカスが大きな公害問題となっていました。

 

猪木が紹介されたのは「サトウキビのカスを発酵させると家畜の餌にする」バイオ技術を持っているという科学者でした。

 

「これが開発できたら、世界のエネルギー問題と食料危機が解決できる」「第2の故郷ブラジルの国家プロジェクトを手がける」というスケールの大きさに魅了された猪木は出資を快諾、設立したのがバイオマス事業「アントンハイセル」です。

 

今のような環境問題に注目が集まるこの時代にそこに着眼し、世界のエネルギーと食料危機、貧困問題を解決する、という猪木のスケールは大したものなのですが、結果的にはその発酵実験は、ことごとく失敗の連続。

 

さらにはプラントを立ち上げていたブラジルをド級のインフレが襲い、事業化はもはや不可能になってしまいました。

 

猪木新日プロは興行やテレビ放送権料だけにとどまらず、選手や社員、その親類縁者まで巻き込んで自宅を担保に入れさせて新日プロの社債を購入させるなどの資金集めに奔走し、ハイセル事業に多額の資金をつぎ込み続けていました。一説ではその総額は37億円にも上ると言われています。

 

その資金集めの牽引役、汚れ役を担ったのが、猪木のマネージャーであり新日プロ営業本部長、「過激な仕掛人」の異名を持つ新間寿氏、その人でした。

 

新間寿氏は、当時のプロレスファンでその名を知らない人はいない有名人でした。

 

本人はプロレスラーではなく、あくまで背広組の団体フロントなのですが、猪木vsモハメドアリ戦、世界統一の野望・IWGP構想を始めとする一連の猪木の大一番を企画、運営から交渉までを一手に捌く猪木の辣腕マネージャーであり、また一方で新日プロの宣伝担当、スポークスマンとして「これはプロレスブームではない。猪木新日プロブームだ」とライバル団体の馬場全日プロをこき下ろしマスコミを煽り、さらにはリング上から試合前にファンに向けてマイクで舌鋒鋭い名調子で演説をぶつなど、ナチスドイツで言うところの宣伝相ゲッペルス的な名参謀、猪木の右腕以上の存在でした。

 

▲当時刊行された新間氏の書籍「リングの目撃者」。われわれ世代のバイブルです。

 

しかし、そんな豪腕ぶりに反発を抱く選手やフロントが、選手会長の藤波、当時人気絶頂の佐山タイガーと反体制派の長州力までを巻き込んでのクーデターを計画していました。

 

1983年6月、第1回IWGP決勝でホーガンのアックスボンバーで猪木が失神KO負け。

 

7月からの猪木負傷欠場の次期シリーズは、藤波、長州、そしてタイガーマスクらの活躍で連日盛況でした。(これでクーデター派は猪木なしでもやっていける、と自信を深めます)

 

そして1983年8月。

 

猪木社長、坂口副社長、新間氏のトップ3が海外マットへの外遊中に、山本小鉄と営業スタッフが中心となり、藤波辰巳以下、選手会を取り込んだクーデター派が決起。

 

結果として緊急取締役会で猪木、坂口はヒラ取締役に降格、新間氏は新日プロ追放、という決議がなされ、山本小鉄はテレ朝からの出向2名と共に代表取締役に就き、マッチメイク権は藤波を選手会長とする選手会に移譲とし、クーデターは一旦、成功を収めます。

 

しかしながらクーデター派も一枚岩ではなく、佐山タイガーはその一連に嫌気がさして引退を通告。もう一方の長州力も独立を目論み、藤波はあちこちに協力を約束して混乱を招くなど、その足並みはバラバラでした。

 

さらに「猪木抜きでの新日プロなどあり得ない!」とテレビ朝日の専務であり「テレ朝の天皇」の異名を持つ政財界の大物、三浦甲子二氏にクーデター派が一喝され、程なくして猪木と坂口は元の社長、副社長に復権を果たしました。

 

これが世に言う「新日プロクーデター事件」の、大まかなあらましです。

 

>「クーデター事件」についてさらに詳しくはコチラ

 

そんな最中、かねてからの一大プロレスブームに興味を示していたフジテレビがプロレス中継を画策、そのために新団体が設立される、という噂がずっと流れていました。

 


 

◆第3極団体「UWF」の設立

 

結果的にただ1人、詰め腹を切られるカタチで新日プロを放逐された新間氏が、自らの生き残りと新日プロへの怨念を込めて立ち上げた第3極団体、それがUWFでした。

 

新間氏は子飼いの前田日明を引き寄せ、さらにはニューヨークのWWFの首領、ビンス・マクマホン(いまのビンスのお父さん)やメキシコUWAのフローレンス会長などとのパイプを最大限に活用し、ニューヨークの檜舞台マジソンスクエアガーデン(MSG)で前田日明を新チャンピオンに仕立て上げます。

 

そのタイトルは「WWFインターナショナル選手権」とアナウンスされますが、そのベルトは新日プロで藤波と長州が争っているタイトルと同名です。さらには、その真新しいベルトには「WWF」ではなくデカデカと「UWF」と書かれていました。

 

WWF会長を勤めた新間氏の政治力のなせるワザですが、当時のファンからしてもこの前田の戴冠は?マークだらけのものでした。

 

新間氏はさらに、大将のアントニオ猪木を引き抜き、同じく日テレからの圧力で社長を降ろされ、現役引退を迫られるなど弱い立場に追い込まれていた宿敵のジャイアント馬場にも話をつけて、猪木と馬場の受け皿に、テレ朝と日テレに対抗してフジテレビで中継する第3極団体を作り、新日プロクーデター勢に目にもの見せてやる!という、壮大な計画を練ります。

 

(実際、初期UWFに外人レスラーをブッキングしたのは馬場派の筆頭格、テリー・ファンクとも言われています)

 

UWFオープニングシリーズのポスターは、中央にレスラーではなく新間寿氏が映り、「私は既に数十人のレスラーを確保した」とのキャッチコピーと共に、猪木、長州、タイガーマスク、さらにはホーガンやマードックなど、新日プロ選手がズラリと並んでいます。

 

そして新間氏は「私はプロレス界に万里の長城を築く!」と宣言。

 

よく考えると、どういう意味なのかいまひとつわかりませんが、なんだかわからないけどすごいのだ、スケールがデカいのだ、という事だけは伝わります(笑)。

 


◆UWF、ノーテレビでの船出

 

ところが…密約があったはずの猪木は前述の通り、新日プロ社長に復権。もはや移籍する必要はなくなっていました。

 

そして結局、UWFは前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田といった寄せ集めでの、さらにはフジテレビとの交渉も決裂し(スター選手が軒並み不参加なのでそりゃそうなります)、ノーTVでの船出を余儀なくされます。

 

▲左はサスケではなくマッハ隼人です

 

猪木もさすがに気の毒に思ったのか、新日プロから前田の師匠格の藤原と弟分の高田を応援参戦させました。(この時に「オレも後から行くから」と言った、言ってない、数千万円の支度金が猪木に支払われた、もらってない、という疑惑があります)

 

しかしながら当時の前田はまだまだ若手で、いきなり団体エースは荷が重過ぎましたし、当時ノーTVで(巨額の放送権料なしに)団体を運営するのは不可能とされた時代です。

 

「結局、猪木は参加しないのだ」と思い知った新間氏は、古巣新日への吸収合併を模索しますが、これに浦田社長を初めとするUWFフロント陣が「いまさら戻れるか」と猛反発します。

 

結局、UWFは「無限大記念日」での佐山タイガーとの合体による生き残りへ突き進み、同時に新間氏排除路線を鮮明にします。

 


週プロvs週ゴン

 

このタイミングで、週プロは「新日とUWFの業務提携(という名目の吸収合併)覚書」を掲載します。これは反新間派のUWFフロント某氏のリークといわれています。

 

対する週ゴンは、週刊化(=スキャンダル化)に反対して顧問の座にあった新間氏の盟友、竹内宏介氏ラインで「新間寿独占インタビュー」を掲載。

 

いきなり創刊号で新間氏の口を借りて、ライバル誌の週プロをバッシング、宣戦布告を行います。

 

▲全日本プロレス中継解説でもおなじみ、ゴング誌の竹内宏介さん

 

この新間さんのインタビューが、なかなか興味深いのです。

 

-いまあなたが怒っている対称は、例のUWFは新日本プロレスに吸収合併されて、UWFのレスラーたちは新日のリングに復帰し、UWFは一興業会社になる。これはテレビ朝日、新日プロ、新間寿の三者会談で合意に達したモノだという「週刊プロレス」5月8日号の報道でしょう。

 

新間氏「まさにその通り。個人的恨みがあるのか知らないが、あの雑誌はUWFの設立前からああだ、こうだとUWFに対して悪意に満ちた報道を続けてきた。それが今度は、とうとう吸収合併だ。冗談いうな!」

 

さらに新間氏は「ウチ(UWF)が新日を吸収合併する」と舌鋒激しく反論すると共に、「猪木が旗揚げ興業に花一つ送ってくれなかった」事に失望し、決別宣言。

 

…とまぁここまではある意味、予想通り、ですが、このインタビューで最も興味深いのは「新間氏が語る前田日明」の部分です。

 

-前田についてどんな展望をお持ちですか?

 

新間氏「こないだの藤原戦は実にいい試合でしたね。前田自身も言ってるように、四度、藤原に腕を折られる危機があった。これは観客にも記者にもわからない、格闘技者同士にだけわかる火花を散らす攻防なんですな。ただ、私は、前田がそういう傾向に、あんまり深入りするようだと、ブレーキをかけなくちゃいかんと思ってます。例えばテーズとゴッチを比較した場合、どちらも恐ろしい強さを持っていたが、レスラーとしては文句なくテーズが大成している。ゴッチは誰からも相手にされず、ハワイで街の雑役夫をやってたのを、猪木が救ったんですからねぇ。前田がそのゴッチ流の方にひかれていくとこれは危険だ。つまり宮本武蔵みたいな武芸者、リングの殺人者的なものになりたいのか、本当のプロレスラーになりたいのか。私は前田にテーズの道を行ってもらいたいんだ」

 

-前田の素質はすばらしいですね。

 

新間氏「これはいまさらながら猪木の眼力の確かさを感じてますね。190センチ75キロのヒョロヒョロした男を初めて見て『新間、これは大成するよ。すぐ採用だ』と言ったからね」

 


新間氏の逆襲

 

この期に及んでも、新間氏の口からは猪木への未練ともとれる発言が垣間見えます。

 

そして前田はゴッチではなくテーズを目指せ、というのも興味深いですね。(現実はまったくそうなりませんでしたが)

 

ところが…新間氏はその直後、84年5月に「プロレス界からの引退」を宣言します。

 

それを受け、週ゴン第3号の表紙は新間氏写真と共に「UWF空中分解!だが新間寿死なず」。

▲週刊ゴングVol.3 1984年06月07日号

 

プロレスラーではない背広組の単独での表紙登場は異例ですが、この辺りは確実に週プロへの対抗意識から来ていると思われます。

 

実はこの時、新間氏は引退の言葉とは裏腹に、逆転の機会を狙っていました。

 

そのプランとは、ハワイで前田、木村、剛、浜田をフリー宣言させ、UWF軍団として全日プロに参戦させる、というもの。

 

実際、この時ハワイにはカルガリーからR木村と剛が、メキシコからG浜田がハワイ入りして新間氏親子と合流し、週ゴンから記者も取材していたといいます。

 

新間氏はこの際、木村、剛、浜田に対して

 

「前田はニューヨークのスケジュールがあって来ていないけど、田中先生(正吾=当時の前田の後見人)とは話をして了解を取っているから。今のUWFはこの4人が抜ければ崩壊する。4人でUWFを名乗って全日本に殴りこむんだ。馬場さんもOKだから、俺に任せておけば大丈夫!

 

と語ったとされていますが、その場で同意したのはG浜田のみ。

 

木村と剛は帰国して浦田氏らフロント側の意向も確認してから決めたい、というのが本音でした。

 


フリー宣言

 

そこでその場は剛の発案で

「日本のゴタゴタを静観する意味で、一度すべてを白紙に戻すという意味でのフリーという形にしてもらえませんか。もちろん今後も木村さんをリーダーに4人で結束していきたいし、新間さんにも相談に乗っていただきたいので…」

という落としどころが図られます。

 

しかし。

 

新間氏はその場でもう1人の盟友、東京スポーツの櫻井康雄氏に電話を入れ、4選手のフリー宣言を報告。

▲ワールドプロレスリングの解説でおなじみ、東京スポーツの桜井康雄さん

 

さらに詳しい事情を知らないニューヨークの前田には電話で「全員、話がまとまったから、よろしく!」と事後承諾を取りつけ、

 

翌日には木村、剛、浜田のワイキキビーチでのトレーニング風景まで撮影させて、週ゴン第4号の表紙は「UWF選手ハワイで衝撃のフリー宣言!」の見出しで「事実」を作り上げてしましました。

 

この辺りの剛腕ブリは新間さんらしいですね。

 

 

しかし。

 

84年6月1日、九段のホテル・グランドパレスで前田、木村、剛の3選手が記者会見を開きます。

 

その内容は週ゴンでのフリー宣言を完全否定、「このUWFを存続させることが、俺たちの唯一の生きる道です!」というものでした。

 

席上、UWF 伊佐早敏男企画宣伝部長は「ハワイのフリー宣言は、新間さんサイドに立った悪意に満ちた捏造記事。フリー宣言の事実はありません!」とまで言い放ちます。

 

 

これにより新間氏vsUWFフロント陣の対立=週ゴンvs週プロ、という図式が鮮明となりました。

 

この会見での「フリー転向捏造記事」事件により、週刊化したばかりのゴングはダメージを被ります。

 

ザ・タイガーとしてUWFと合流した佐山は復帰の条件として「一部フロントの追放」を挙げ、これにより新間氏は正式にUWFから手を引かざるを得なくなりました。(追従する形で浜田も離脱)

 

さらには佐山の個人マネージャー、ショージ・コンチャ氏はアンチ新間氏の急先鋒という事もあり、週ゴンを取材拒否します。

 

翌7月にはG浜田が全日プロとメキシコUWAの業務提携を手土産に全日に登場しますので、新間氏の言う「馬場さんにはOKもらっている」はウソではなかったのだと思いますが、反新間派のUWFフロント陣がなんとかUWF存続を願い、前田らを説得した、ということでしょう。

 

新日入りからUWF行きまで、どこから見ても新間氏の秘蔵っ子的な前田はどのように新間氏と決別を決めたのか、そしてそれを知った新間氏の心境は?というのはものすごく興味深いですね。

 


佐山タイガーvs三沢タイガー

 

そして、「ザ・タイガーUWF参戦!!」を報じる週プロに対し、

週ゴンはその前日にメキシコから帰国した三沢の「二代目タイガー誕生」をスクープ。

 

今度は佐山タイガーUWF週プロvs二代目三沢タイガー全日週ゴン、という代理戦争に発展していきました。

 

が、鼻と眉毛の出たサイズのおかしな、どこからどうみても三沢なタイガーはイマイチ、あの寺内タケシのテーマアレンジを含め、私はまったくノレませんでしたし、やはり初代は偉大過ぎました。

 

実は私は月刊時代は圧倒的にゴング派だったのですが、週刊化を契機にスキャンダラスなUWF誕生のスクープ連発の週プロに対し、あくまでオーソドックスなグラビアと海外ニュース主体、大本営発表的な週ゴンでは、誌面のクオリティはともかく、圧倒的に「いい意味での軽さ、タイムリーさ、と誌面から伝わるエネルギー」が週プロに軍配で、さらにはこのUWFフロントと新間氏の確執を巡る路線のズレにより、すっかり週プロ派に染まっていった、という週刊化黎明期の昔話です。

 


新間氏と前田氏が語るUWF

 

ここ最近のUWF再検証ブームで、この雑誌で新間さんと前田が対談でこのころの話をしていました。

 

 

それによれば、

 

新間氏の新日からの退職金が2500万、これには猪木や坂口からの詫び代も含まれていた

新間氏はそれを元手にUWFを創った

旗揚げシリーズをなんとかしのいだものの、新間氏としては選手を新日に上がらせる、UWFのシリーズは新日とバッティングしない、といった話を新日プロと付けようとしていた、その話は浦田社長も了承していた

新間氏は新日との提携を置き土産に身を引き、UWFは浦田社長と息子、伊佐早氏らに任せたつもりだった

その後、結局、猪木が来ないことで揉めて、伊佐早氏が週プロにその覚書を流してさらに揉めた

そのうちに今度はビンス・マクマホン(シニア)がガンで倒れ、新間氏はプロレス界からの引退を決意して京王プラザホテルで記者会見を開く

その時、浦田社長に選手はなんと言ってるんだ、と聞くと「先輩(新間氏)に着いていくものは誰もいません」と言われた
俺の退職金使ってしまったくせに

前田はその頃、ニューヨーク遠征が組まれていて、新間さんに電話することも止められていて、まったく状況がわからなかった

そのまま新間氏と前田は会うことも話すこともなく、終わった

 

のだそうです。

 

あれ?ハワイでのフリー宣言の一件は?など、あくまで新間氏の記憶と語りによるものなのでそのまま受け取るワケにはいきませんが、新間氏と前田の別離の仕方はある意味予想通り、というか、そうだろうな、と思いますね。

 

会ってしまえば前田は新間氏を裏切れなくなったかもしれないですし、会えなかったから別れられたのでしょう。

 


 

以上が、もう1人の重要人物、文字通り「UWFを創った男」新間寿氏から見たUWFとは何か?になります。

 

もしあの時、猪木が新日プロを捨ててUWFに移籍していたら・・・フジテレビが中継開始、そこに佐山タイガーが合流して…といった歴史があったのかも、しれません。

 

この「新日プロクーデター事件」は当時はあまり表面化せず、長年、プロレスファンの間でも詳細は謎とされていました。かなり年月が経過し、さまざまな関係者が当時を語り始めていますが、それぞれがそれぞれの思惑で語るため、細かい点で矛盾点がまだまだありますが、どれが真相なのかはもはや藪の中です。

 


 

ちなみに…前述の雑誌での対談では前田はおなじみの「アリのところでプロボクサーにしてやると新間氏に新日に誘われたから新日プロに入門したんですよ」それに対して新間氏は「そんなの最初からウソで、プロレスラーで大成させるつもりだった」というおなじみのエピソードトークから始まり、そしてラストも、前田が猪木引退試合でアリの控え室に(猪木アリ戦で通訳を務めた)ケン田島さんを連れて逢いに行ったエピソードを新間さんに聞かせる場面で結ばれています。

 

新日関係者からは「アリのスケジュールが分刻みで会えません」と断られていたそうですが「だったら引退試合に行かない」と前田がゴネ、当日半ば強引にアリの控え室に押しかけ、「私はあなたの弟子にしてやる、と誘われてプロレスラーになったんだ」と説明する前田に対し、アリは「だから俺と戦いに来たんだろ」と返し、前田にファイティングポーズをしろ、と言い、アリも構えたと。

 

そうしたらアリは「いま、俺は10発のパンチを放ったが早くて見えなかっただろ」と言ってバックステージパスにサインしてくれて、前田は嬉しくてスキップして帰りましたよ、それを聞いた新間さんは「いいねぇ、最高だね」

 


 

後に政治家時代にも新間氏は猪木に請われスポーツ平和党の幹事長を務めるもまたまた猪木と大ゲンカして伝説の「アントニオ猪木のPKO(放送禁止)」会見をやったり、絶縁暴露本を出版したり・・・。このUWFを巡るゴタゴタ意外にも散々揉め続けては和解、また決裂、という関係性の猪木と新間氏ですが、なんだかんだでいまだに「アントニオ猪木は最高のレスラーだった」と言い続けています。(人間猪木寛至は最低、とのオチが付きますが)

 

一方の前田も、言ってみれば猪木に裏切られ、復帰後もクビにされ、散々恨んでいながらも、いまでも「他人がアントニオ猪木の悪口を言うのは許さない」と発言しています。(オレは息子みたいなもんだから悪口を言ってもいいの、と続きます)

 

この辺りの愛憎劇を含め、昭和の新日プロは知れば知るほど、面白いのです。

 


 

さらに余談ですが、私は新間さんと2回、お逢いしたことがあります。

 

1度目は、83年第1回IWGPで猪木失神KO負けした直後の夏休みに、福岡のデパート屋上で開催されたサイン会です(ちょうどクーデター事件の直前、という事になりますね)。

 

たしか「新日プログッズを1,000円以上お買い上げの方にアントニオ猪木が直筆サイン」という企画だったのですが、私の保持金はちょうど1,000円。

 

そして、そこで当時入手が困難で幻とされていた猪木の入場テーマ曲のホンモノ、「INOKI BOM-BA-YE!」のシングルEPを700円で購入してしまっていたのです。

 

私はダメ元で列に並び、猪木氏の隣にいる新間氏に「700円なんですけど、サインしてもらえないでしょうか」と頼んでみました。新間氏は「社長、このボクにもサインしてやってください」。猪木氏は無言で頷いて、そのEPジャケットにサインしてくれました。

 

2度目は、2000年代初頭です。雑誌編集とデザイナーの仕事をしている友人から頼まれ、「猪木-アリ戦完全版DVD化」の企画を手伝っていました。(猪木-アリ戦は権利問題が複雑との理由で長年、完全版がメディア化されていませんでした)その友人は当時、ターザン山本・週プロ元編集長とも親しく、そのラインで我々は新間さんと面会する機会を持ちました。

 

場所は水道橋の喫茶店ルノアール。新間さんは当時、何度目かの猪木との和解の末、新日プロの総合格闘技進出イベント(それもブラジルで開催)である「ジャングルファイト」をサポートしていた時期でした。

 

実際に対面した新間さんは実に迫力があり、我々の企画について「そういう話持ちかけてくるのが大勢いるんだよ」と笑いながら、いろいろな思い出話をしてくれました。元論冒頭、小学生の時に新間さんのお蔭で猪木さんにサインしてもらえた件について、お礼を伝えました。新間氏は「そう、そんなことがあったの!」と笑っていました。

 

結局そのプランは実現せず、後に「猪木-アリ戦」DVD完全版は2014年に「燃えろ! 新日本プロレス」というDVD付雑誌の企画で実現し、その友人も病で急逝してしまいましたが、いまとなってはよい思い出です。

 

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