昭和特撮「古谷敏」〜ウルトラマンを創った男たち③

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金城哲夫さん、成田亨さん上原正三さんに続く「ウルトラマンを創った男たち」第3弾は、古谷敏さんをご紹介します。

 

古谷敏さんは、初代「ウルトラマン」のスーツアクターとして第1話から最終話まで、たった1人で「ウルトラマンの中の人」を務めたお方。

「単なるスーツアクターでしょ」と思うなかれ。

 

いまでこそ当たり前の、あの猫背のファイティングポーズも、スペシウム光線のポーズも、この方がいなければ生み出されていなかったことでしょう。

 

と、いうよりも、それまで誰も見たことがない「宇宙から来た巨大なスーパーヒーロー」像は、この方がいなかったら、まったく違うものになっていたかもしれないのです。

 

参考文献:「ウルトラマンになった男」古谷敏(2009(平成21)年/小学館)

 


 

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●古谷敏(ふるやとおる、愛称ビン)さん

 

古谷さんはもともと東宝の専属俳優。科特隊のイデ隊員役の二瓶正也さんと同期でした。

 

古谷さんは前作「ウルトラQ」(1966 昭和41)年の撮影時、ケムール人やラゴンの中の人として参加しています。

最初は堀端でマンモスフラワーを見物する野次馬、いわゆる“ガヤ“の1人として撮影に参加し、その時に長身痩躯なスタイルの良さが目立ち、制作スタッフに密かに目をつけられていたのでした。

 

その後、ケムール人やラゴンの中に入ってくれ、と頼まれますが、古谷さんは「顔出ししないなんて、役者の仕事じゃない」と頑なに固辞。しかし、どこからどう見ても長身の自分のサイズに合わせて作られたぬいぐるみで、他にやる人もいない、とスタッフの熱心な頼みに負け、イヤイヤ引き受けたのだとか。

 

この時の「ケムール人」の好演が、後の「ウルトラマン」役につながるのです。

 


 

●成田亨さんからの口説き

 

新番組「ウルトラマン」の制作が決まり、古谷さんに声がかかります。

声をかけたのは美術監督の成田亨さん。なんと成田さんは、ウルトラマンのデザインを“古谷さんありき“で考えていたのでした。

 

成田さんは「ウルトラマンはビンさんそのまんまなんだよ、他の人ではダメなんだ」と猛烈に口説きます。

 

成田さん曰く「ただ背が高いだけじゃなく、手の長さ、脚の長さ、頭の小ささ…全体のバランスがいい人はなかなかいない。それに中に入って演技ができないとダメなんだ」

 

そして、「隊員は主役じゃないんだよ。この映画はウルトラマンが主役なんだよ。それをやる、ビンさんが主役なんだ。僕と一緒にやろう。きっといいことがあるよ。お願いだから引き受けてください」

 

古谷さんは悩みますが、成田さんの熱意に負けて出演を承諾。この時に、2つの条件を付けたといいます。

 

1つは、中身が自分であることは伏せること。そしてもう1つは、当時、ぞんざいな扱いを受けがちな「ぬいぐるみ俳優」への、現場での待遇改善だったそうです。

 


 

●「ぬいぐるみ俳優」と「ウルトラマンとは何者なのか?」に悪戦苦闘

 

当時は「スーツアクター」という呼び名もなく「ぬいぐるみ俳優」と呼ばれていました。

 

素材も製法も手探りで作られたスーツとマスクは蒸し暑く、中はシンナーとゴムの異臭が充満。視界も劣悪で、おまけに撮影スタジオの照明や火薬で「暑い」を通り越して「熱く」なり、酸欠や熱中症になるのはザラの過酷な仕事

 

古谷さんは殺陣や擬闘の経験もなく、体重は日毎に激減。怪我や体調不良の絶えない悪戦苦闘の日々だった、と語っておられます。

 

ちなみに、ウルトラマンのマスクは古谷敏さんの顔型から生まれました。

それよりも大きな問題なのが「ウルトラマンとは何者なのか?」

 

「怪獣と戦う宇宙から来た巨大ヒーロー」の物語は、その撮影に臨むすべての人たちにとって初めてのことばかり、毎日が手探りの連続。

 

古谷さんは企画、脚本の金城哲夫さんを捕まえて、どうすればよいのか問いただします。金城さんは

「ウルトラマンは宇宙人なんだよ」
「ウルトラマンは人間じゃない」「ウルトラマンはロボットでもない」

そして、

「だから、人間の感情は出さないこと。人間的な動きはしないこと。これを頭に入れて、ウルトラマンを考えてみてください。参考にするモデルは何もないから、ビンちゃんが考えて古谷ウルトラマンを作ってください。監督と話しながら、ビンちゃんのやりやすいやり方でいいよ」

 

…どうですか、シビレますね(笑)

 

企画した金城さんとしても丸投げしたワケではなく、前例がなにもないので、指示のしようがないのです。

 


 

●ファイティングポーズとスペシウム光線

 

当時、ウルトラマンと怪獣の戦闘シーンは台本にも具体的なことは何も書かれておらず、専門の殺陣師もいません

そのため、戦闘シーンは監督や怪獣の着ぐるみに入る役者さんたちと都度、相談しながら撮影を進めたそうです。

 

つまり、ウルトラマンの立ち居振る舞いや戦い方などはすべて、古谷さんをはじめとした、現場での手作りなのです。

 

例えば、印象的なウルトラマンのファイティングポーズ。

 

ボクサーのような握り拳で胸を張った構えだと人間ぽくなるためNG。古谷さんは憧れのジェームス ディーンのナイフを構えたポーズを参考にしたそうです。拳は握らず、空手の手刀の構えです。

 

そして当時のスタジオの狭さから、長身の古谷さんがホリゾントがカメラに見切れないように低く、低く、と監督に指示され、あの独特の猫背のポーズになったのだそうです。成田さんや金城さんは「ヒップラインが艶かしい」と絶賛していたとか(笑)

もう一つ、かの有名なスペシウム光線の構え。

 

「武器を持たないウルトラマンは、手から出す光線で敵を倒す」としか決まっていませんでした。

現場で、監督やカメラマン、スタッフと試行錯誤した結果、あの十字で交差する構えになりました。

 

当時の特撮技術の制限から、光線を出す手を動かさないでくれ、と注文があり、安定性を意識したとのこと。

そして、カオとカラータイマーが隠れないように、右手をマスクのやや右前、左手が喉の下、胸の上で水平に、指先が反り気味にスッと構える。

 

古谷さんはこの構えをカッコ良くするため、1日300回は鏡の前で練習したそうです。

 

古谷さんはミニチュアの組まれたセットで釘を踏み抜いたり、突き指や打撲、傷だらけで連日、奮闘。その甲斐あって、ウルトラマンは放送中にどんどん洗練され、カッコよくなっていきました。

 

ちなみに「最も手強かった怪獣は?」という質問に対し「いつも手加減なしで本気で殴る、蹴るの殺陣をする、大ベテランの中島春雄さん(が入っている怪獣)」と回答しています。

 


 

●「ウルトラマンの中の人」公開

 

当初、古谷さんが要望した「中の人が自分だと公開しないでくれ」は、スタート時のテロップから名前が出ることで破られてしまいました。

 

しかしこれは約束無視というより、現場で黙々と辛い仕事をこなす古谷さんの頑張りを見たスタッフ達が「名前もなしじゃ、いくらなんでもかわいそうだ」と考えていたから、のだと思います。

 

実際、番組開始から4ヶ月目にはTV番組のインタビュー取材が入り、「ウルトラマン=古谷敏さん」が世間に公表されると、古谷敏さんは一躍有名人になりました。

 

 


 

●自問自答の日々

「ウルトラマン」は視聴率40%に達する超人気番組になり、日本中がブームに沸きたちます。

 

しかし、古谷さんは役者として顔を出して演技がしたい、アクションも得意ではない、これなら中身は誰でもいいのではないのか、と自問自答の日々を送り、体調不良もキツく、遂には降板を決意したそうです。

 

しかしそんな時、撮影所まで向かうバスの車中でたまたま4人の子供たちが夢中でウルトラマンの話をする姿を見て、続行を決意したエピソードを自叙伝で語っています。

 

後年、この話が有名になると古谷さんのサイン会、握手会には「あのときのバスの少年は僕です!」という人が何人も現われたのだとか(笑)でもこれ、まんざらウソでもないんですよね。日本中の子ども達は、古谷ウルトラマンに憧れていたのですから。

 

その後、制作スケジュールと予算が逼迫し「ウルトラマン」は人気絶頂の最中、3クール、39話で幕を下ろします。

 

テレビ局と円谷プロには全国から「ウルトラマンをやめないで」という投書と共に「ウルトラマンの中の人、古谷敏さんを出演させてください」という声が多く寄せられたそうです。

 


 

●アマギ隊員がピンチなんだよ!

 

成田亨さんは当然、次作の「ウルトラセブン」のスーツアクターにも古谷敏さんを希望しました。

しかし、体力的にも限界で、どうしても顔出しの役者として仕事がしたい古谷さんはこれを固辞。

 

結局、ウルトラセブンのスーツアクターには上西弘次さんが決まりました。上西さんは古谷さんほど身長が高くなく、どっしりとした体型のため、直立して拳をギュッと握って構えるファイティングポーズになりました。

古谷さんは周囲の応援もあり「ウルトラ警備隊のアマギ隊員」として、出演することに。

最終話、ダンがアンヌに正体を告げ、止めるアンヌを振り切る際のセリフ「アマギ隊員がピンチなんだよ!」が有名ですね。そりゃセブンもアマギ隊員がピンチなら、駆けつけないとならぬワケです(笑)。

 


 

●俳優業を引退、一時は消息不明に

 

古谷さんは「ウルトラセブン」を区切りに俳優業を引退。その後は全国の子ども達に怪獣ショーのアトラクションを提供する「ビン プロモーション」の代表として、円谷プロやアラシ隊員役の毒蝮三太夫さんらの応援を受け、活躍します。

 

中でも毒蝮三太夫さんは仲人もお願いするなど公私共に最もお世話になり、古谷さんにとって「師匠」とも呼べる存在なのだそう。

 

しかし、1991年(平成3年)、バブル経済後の不況を受け会社を解散。それに伴い負債を抱え、ビル清掃業などアルバイトを続けながら、自ら関係者との連絡を断ち、表舞台からは完全に姿を消しました。

 

そのため一時は「消息不明」「死亡説」まで囁かれましたが、2007(平成19)年、成田亨さんの展覧会会場に顔を出した事がきっかけで櫻井浩子さん、ひし美ゆり子さんら、かつての仲間たちと再会

 

この時、監督ら撮影仲間からは「ウルトラマンが光の国から還って来た」と歓待を受けたそうです。

 

そして2008(平成20)年、CS放送出演を皮切りに活動を再開。劇場映画「ギララの逆襲」(松竹)で俳優復帰。

 

2009(平成21)年には初の自叙伝「ウルトラマンになった男」(小学館)を出版。当時の苦労話を初告白しました。

 

そして2013(平成23)年には「ウルトラマン HD リマスタ Blu-ray 発売記念イベントに、ハヤタ隊員役の黒部進さんらと共に参加。

47年ぶりにウルトラマンのスーツを着て登場。あの頃とまったく変わらぬプロポーションでオールドファンを狂喜させました。

 

古谷さんは「ウルトラQで怪獣役、ウルトラマンでヒーロー役、ウルトラセブンで隊員役と、すべてを演じてきた。当時を知る役者は少ない。円谷英二監督たちのやってきたことを、語り継いでいくのが僕の役目」と語っておられます。

 

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