「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)~伝説のTV音楽プログラム③

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「ザ・ベストテン」と並ぶ、我々世代の音楽番組といえば・・・

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「夜のヒットスタジオ」

1968年11月4日〜1990年10月3日
毎週水曜日 21:00~22:55(DELUXE時代)
フジテレビ系

フジテレビの黄金時代を支え、なんと22年間も続いた長寿番組です。


 

アイドル、演歌勢はもちろん、普段テレビに出演しないニューミュージック、ロック系アーティストや、俳優、海外アーティストやフュージョンバンドなども多数出演。

後に暴露本で話題となる故・ダン池田とニューブリードなどの生バンドによる「生演奏」、そしてほかの歌番組と違い当時のTVでは珍しい「フルコーラスでの演奏」で、しっかり楽曲を聴かせる、華やかな番組でしたね。

司会者は芳村真理さんをメインに、男性司会者は前田武彦さん、三波伸介さん、井上順さん、古舘伊知郎さん

後期は古舘伊知郎さんと柴俊夫さんの男性コンビ、そして加賀まりこさんが務めました。

 


 

◆バラエティ色が強い歌謡バラエティ時代(1968〜1976)

 

●「泣きのヒットスタジオ事件」

スタート直後の視聴率は芳しくなかったそうですが、1969年「ご対面」「コンピューター恋人選び」コーナーでいしだあゆみ中村晃子らの女性歌手が号泣してそのまま歌うハプニングが続出、「泣きのヒットスタジオ事件」として話題を呼び、視聴率が急上昇。1969年3月17日の放送で最高視聴率42.2%を記録。当時、高視聴率番組が少なかったフジテレビの救世主的なカンバン番組になりました。

 

●マエタケ降板「バンザイ事件」

1973年9月、人気司会者の前田武彦さんが参院選挙の共産党候補を応援、当選祝いに番組中に「バンザイ」した事で「反共」を掲げていた鹿内信隆フジサンケイグループ議長の逆鱗に触れ、司会を降板させられる事件が勃発。売れっ子だったマエタケ氏はTVから干される事になりました。いろんな意味で、時代を感じさせるエピソードです。

続く2代目男性司会者は三波伸介さん。この時代は人気歌手によるコントなどを取り込んだ「歌謡バラエティ」的な番組だったのだそうです。


◆総合音楽番組時代(1976 – 1985)

3代目司会者にグループサウンズ出身の井上順さんが登場。私は「ヒットスタジオ」といえばこの「真理さん、順ちゃん」コンビの印象が強いです。

1977年 五輪真弓(10月)、中島みゆき・アリス(12月)
1979年 浜田省吾(8月)
1980年 吉田拓郎・YMO(6月)、井上陽水(12月)
1983年 長渕剛(5月)

などなど、これまで「テレビは出ない」フォーク、ニューミュージック系のアーティストが続々登場。

また、松坂慶子、小林旭、松田優作、三浦友和、竹下景子、舘ひろし、田中裕子、水谷豊など多くの人気俳優歌手も出演。

 

1980年代にはフランク・シナトラ、シーナ・イーストン、フリオ・イグレシアス、ポリス、オリビア・ニュートンジョン、ジョン・デンバー、U2、。エルトン・ジョン、ジャネット・ジャクソン、ポール・マッカートニー、ボン・ジョヴィ、ホイットニー・ヒューストン、シーラ・E、バリー・マニロウ、デュラン・デュランなどの海外大物アーティストや、

 

戸川純、シーナ&ザ・ロケッツ、VOW WOW、LOUDNESS、THE MODS、大沢誉志幸などなど、

 

「ほかのTVでは見られないアーティストが唯一出演する音楽番組」として、特異な立ち位置を確立していました。

 


 

◆「DELUXE」時代(1985年〜1989年)

 

1985年9月25日、井上順が降板し、代わってテレ朝から独立直後の古舘伊知郎さんが4代目に起用され、放送時間も拡大して「DELUXE」となります。

古舘さん司会の初回は、アントニオ猪木と千代の富士が応援に駆けつけたのを覚えています。

 

またリニューアル直後に「世界のフランク・シナトラ」とティナ・ターナーを同時にTV生出演させたのは、海外の音楽業界でも「信じられないブッキング」として、大きな話題となったそうです。(ちなみにこの回の制作費は5,000万円だったとか…)

この時期には久保田利伸、レッド・ウォーリアーズ、BOØWY、THE BLUE HEARTS、米米CLUB、尾崎豊らが出演。大反響を呼びました。

1988年2月の第1000回放送「芳村真理サヨナラ特番」で芳村真理が降板。

第1回放送ゲストの島倉千代子・布施明を筆頭に、総勢300名以上の歴代出演歌手と、歴代男性司会者が出演。日本のレギュラー音楽番組歴代2位となる36.0%の高視聴率を記録しました。

 


◆分割縮小、そして終焉(1989年〜1990年)

1988年、芳村さん後任に俳優の柴俊夫さんが登場。古舘・柴の男性司会コンビは謎でしたが、当時アメリカで流行していた女性コンビ司会を意識したものだったそうです。

しかし1989年の春以降、深刻な視聴率低迷に悩まされ、同年9月末をもって「DELUXE」は打切りとなり、柴も番組を降板。

同年10月からは番組をジャンルにより4分割化、総合番組としての「夜ヒット」は1時間番組の「SUPER」として、実質上の番組規模の縮小が図られます。

1989年10月からスタートした「夜のヒットスタジオ SUPER」は司会に引き続き古舘伊知郎さん、そして加賀まりこさんを迎えますが、視聴率は低迷、さらに定番企画を次々とやめていき迷走。加賀まりこさんの暴走も番組構成の混乱に拍車をかけます。

そして遂に1990年8月、同番組の打ち切りが正式決定。同10月、3時間枠での特別番組『ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ』をもって、足掛け22年、放送回数1131回の歴史に幕を降ろしました。


◆オープニングメドレー

番組のオープニング、人気歌手が次の歌手の楽曲をワンフレーズずつ歌って紹介してつないでいくメドレーが人気でした。

 

◆凝った演出

畳の上でドスを片手に歌い、「ハーケンクロイツの腕章」が問題となった沢田研二さんの「サムライ」、ドレスにエーゲ海を合成したジュディ・オングさんの「魅せられて」、世良公則とツイストの「あんたのバラード」、山口百恵さんの「絶体絶命」などでの歌舞伎との融合など、生放送の限界に挑戦する凝った演出が見どころでした。

基本的に1スタジオから放送されるため大きなセットが組めなかった代わりに凝ったカメラワーク、大量のスモークや照明などの多彩な演出による評判が高く、「オケ」と「セット」のベストテン、「カメラ」と「演出」の夜ヒットと呼ばれたそうです。


◆戦場と呼ばれた舞台裏

大きなスタジオ内で生放送中に次々とセットチェンジする必要から、リハーサルは毎回10時間以上、怒号と暴力の渦巻く現場で当時「フジテレビ局内で一番制作現場が厳しい番組」として恐れられていたそうです。若手時代の一世風靡セピアの面々は指示に従わなかったためプロデューサーに全員がビンタされた、という逸話も残っています。

 

◆人気歌手同士によるジョイント企画

・森昌子・山口百恵・桜田淳子と岩崎宏美
・キャンディーズとピンクレディー
・小室等と矢野顕子
・ダラ・セダカと喜多郎
・萩原健一と柳ジョージ・井上堯之
・アン・ルイスと竹内まりや
・岩崎宏美と布施明
・杏里と河合奈保子
・西城秀樹とバリー・マニロウ
・吉田拓郎とTHE ALFEE
・田原俊彦と久保田利伸、AMAZONS
・中森明菜と玉置浩二、井上陽水

・大江千里と渡辺美里、TM NETWORK
・宇崎竜童と内田裕也、うじきつよし
・THE ALFEEとHOUND DOG

などの「夢の共演」が実現。乱入ものとしては
・アン・ルイスと吉川晃司
が有名ですね。

 

◆サヨナラ企画

山口百恵さん、南沙織さん、石野真子さん、高田みづえさんなど、結婚のため引退する女性歌手が最後に出演するのも「ヒットスタジオ」でした。

 

◆トリは紅白並みのステイタス

オープニングメドレーや、本番でのトリを務める事は、当時の芸能界では人気実力が認められた最高のステイタスだったとか。生放送だけに大御所たちの序列が垣間見えるシーンも多く見られました。

 


 

◆数字で見るヒットスタジオ

●放送期間22年間
●放送回数 1131回
●紹介楽曲 約13,000曲
●出演アーティスト 約1,000組

●歌手別出演回数ランキング
1位 222回 五木ひろし
2位 204回 森進一
3位 190回 西城秀樹
4位 177回 布施明
5位 176回 郷ひろみ
6位 158回 田原俊彦
7位 153回 沢田研二
8位 146回 小柳ルミ子
9位 126回 近藤真彦
10位 124回 野口五郎
11位 116回 八代亜紀
12位 112回 和田アキ子
13位 104回 岩崎宏美
14位 103回 前川清
15位  87回 松田聖子
15位  87回 河合奈保子
17位  86回 中森明菜
18位  83回 山口百恵
19位  74回 細川たかし
19位  74回 桜田淳子

こちらは演歌界の大御所、五木・森コンビがワン・ツー。なにせ22年間ですので活動期間の長さも関係しますね。

TV&音楽業界、フジテレビ栄光の時代の番組でした。

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