「阪急上田監督の猛抗議」~1978.10.22 日本シリーズ第7戦、1時間19分の中断

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今回は初のプロ野球ネタ。私が最初に強烈に記憶している日本シリーズ、プロ野球史上に残る「阪急 上田監督 1時間19分の猛抗議」についてご紹介します。

 

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”黄金時代”の阪急ブレーブス

この年、1978(昭和53)年の阪急ブレーブスは、「黄金時代」を迎えていました。

 

「客の呼べない弱小球団」だった阪急を建て直したのが西本幸雄監督で、その後を継いだのが上田利治監督。”知将”の名にふさわしい、名監督でした。

投手の山田久志、足立充宏、山口高志、野手の加藤秀司、ロベルト マルカーノ、福本豊・・・名選手揃いでチーム力も抜群。1975(昭和50)年にパリーグ優勝、日本シリーズで広島を撃破して以来、3年連続日本一に。それも1976(昭和51)、1977(昭和52)年は長嶋巨人を破っての連覇ですから、当時の阪急ブレーブスはまさに”最強”でした。

そして1978(昭和53)年の日本シリーズは、球団創設以来のセリーグ初優勝を果たしたヤクルトスワローズとの対決。ヤクルトを率いるのは”管理野球”広岡達郎氏。

戦前の予想は「大舞台の経験に勝る、阪急の圧倒的有利」でした。しかし、勝負は意外な展開をみせ、3勝3敗の五分に。「日本一決定」は10月22日の第7戦までもつれ込みました。

 

”事件”は日本シリーズ第7戦

舞台は後楽園スタジアム。ヤクルトの本拠地、神宮球場が大学野球との兼ね合いで使用できず、代替えの舞台でした。

 

エース山田が前日のゲームで登板した阪急は、大ベテランの足立光宏投手が先発。見事な投球で強打のヤクルト打線を封じ込めれば、一方のヤクルトもエースの松岡弘投手が阪急打線を手玉に取り、0-0の緊迫した投手戦となります。

 

均衡が破れたのは5回裏。

 

ヤクルト2死2塁の場面で打者はヤクルト初優勝の立役者、ヒルトン。ヒルトンはなんとかバットに当てますが内野ゴロ。誰もが打ち取った・・・と思った瞬間、打球が大きくバウンドします。阪急の二塁手マルカーノが必死に飛びつき、1塁へ送球。際どいタイミングでしたが判定は「セーフ」。

 

この判定に激昂した一塁手の加藤秀司が塁審に猛抗議。するとその隙を見逃さないヤクルトは走者が一気に生還。試合は2-0となります。

 

そして迎えた6回裏に、事件が起こりました。

 

ヤクルトの攻撃、1アウトで打者は主砲 大杉勝男。カウント1-1からのシュートを捉えた大杉の打球は、どんどん伸びてレフトスタンドへ。ポールを大きく越える当たりでした。しばしの間の後、レフト線審の富沢宏哉審判が右手を大きく回し「ホームラン」と宣言。沸きに沸くヤクルトの応援席、大杉は飛び跳ねるようにダイヤモンドを回り始めます。

この判定にレフトを守る阪急の箕田浩二選手が猛抗議。そしてベンチから血相を変えて駆けつけたのが、上田監督でした。抗議は執拗に続き、ついには守りについていた阪急ナインに「ベンチに引き上げろ」という指示が下ります。

そしてここから、1時間以上に渡って試合が中断しました。

 

1時間19分の猛抗議

当時、私は8歳。野球にも興味が出てきた頃でしたし、当時の日本シリーズと言えば国民的行事でしたので、昼間の中継を観ていました。中継は日本テレビで、最初の頃こそ問題の場面を何度もリプレイし、試合経過を振り返り・・・としていましたがどうにも間が埋まりません。

延々、誰もいないグラウンドと、紙テープのぶら下がったレフトスタンドが映し出されていた光景を、おぼろげですが覚えています。「何をそんなに揉めてるんだろう」これは当時、中継を観ていたほとんどの人がそう思ったと思います。アナウンスもなく、ただひたすらに時間が過ぎていく・・・

 

それだけ、阪急ベンチはファールだという確信があったのでしょう。後に知られたところではレフトスタンドの観客も口々に「あれはファール」と口にしていたそうですし、ヤクルト側も打球の行方を見て一度はベンチに引き上げたくらいなのです。

 

なにせ日本シリーズ天下分け目の第7戦。トドメとも思える主砲の一打がホームランとファールでは、天と地ほどの差があります。審判団はこの阪急ベンチの頑なな姿勢に困惑。何度も協議して、没収試合も検討しますが、大舞台の決勝でさすがにその決断は下せません。この時、上田監督は試合再開の条件として「富沢審判の退場、線審交代」を突き付けますが、それを飲む訳にもいきません。

 

阪急サイドの球団代表、オーナー代理と、パリーグ会長の工藤氏が話し合いますがそれでも結論は出ず。とうとう、金子鋭コミッショナーが上田監督のもとに説得に出向きます。

「上田クン!私がこれだけ頭を下げてもダメか!」
金子コミッショナーの怒声がTV中継されるという異常事態。

 

それでも折れない上田監督に、業を煮やした金子氏は「コミッショナー裁定」での試合続行を宣言。

 

こうして1時間半の中断を挟み再開された試合ですが、阪急ナインの士気はもう、ダダ下がりでした。阪急先発の足立投手は膝に水がたまり投げられる状態になく、急遽、左腕の松本正志投手がマウンドへ。

 

そこへヤクルト5番のチャーリー マニエルがレフトスタンドへホームランで3-0。さらに8回裏には渦中の主砲大杉がまたしてもレフトスタンドに、今度は文句なしのホームラン。

 

試合はこのまま4-0でヤクルトが勝利して初の日本一に。

 

試合後、上田監督はこの騒動の責任をとって辞表を提出、阪急監督を辞任しました。

 

シリーズの流れを変えた第4戦

2017年、80歳でお亡くなりになった上田利治氏は、後のインタビューで「あのシリーズのポイントは、第4戦(10月18日西宮)」と語っています。

 

ここまで阪急2勝1敗。ここで勝てば日本一に王手です。試合は阪急の1点リードで9回表、ツーアウト。マウンドには先発の今井雄太郎投手がいました。ここでヤクルト代打の伊勢選手が内野安打を放ち、上田監督はマウンドへ向かいます。ブルペンでは山田久志の準備ができていました。

 

「もうバテバテで、100パーセント交代させようと思った。次のヒルトンはアンダースローの速い球は絶対に打てないという確信もあった。普通ならアンパイヤに交代を告げてから行くんですが、その年、僕は体調を崩して休養していた時期があった。しかも、その間に好投したのが雄ちゃんだった…」

 

上田監督がマウンドに着くと選手たちが「監督、雄ちゃんで行きましょう」と口を揃えます。上田監督も普段なら選手の声で迷うことはないのですが、シーズン中に休養していたた負い目もあり、非情になり切れなかったとのこと。その結果、続投となりました。

 

しかし。今井投手の2球目が中途半端な高さとなり、ヒルトンがレフトに決勝2ラン。阪急はそのまま敗れ、2勝2敗となりました。上田監督は「俺はなんてダメな監督なんだ」と自分を責めたと言います。

 

この時の決断のブレがシリーズの流れを変え、7戦目の長時間に渡る猛抗議につながりました。

 

もし、あの時、上田監督が投手交代を決断していたら、シリーズは第7戦までもつれることなく、阪急の日本一で終わっていたかもしれません。そして上田監督は辞任することなく、阪急ブレーブスの黄金時代は、さらに続いていたかもしれません。

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