昭和プロ野球「黒い霧」事件〜1969-1971 日本プロ野球史の闇、八百長疑獄

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70年代のプロ野球を語る上で、避けては通れないのが「黒い霧」事件です。

1970(昭和45)年生まれの私にとって、この事件は地元の西鉄ライオンズ発祥とは言え、謎だらけ。調べれば調べる程、その複雑さと根深さ、後味の悪さから嫌な感じしかしない事件なのですが…できるだけ簡潔にまとめてみようと思います。

 

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●「黒い霧」事件とは

 

プロ野球界で1969(昭和44)年に起きた「八百長」を巡る選手追放事件。

 

1971(昭和46)年までに8球団19選手の関与が発覚。スポーツ議連の国会議員による政界介入や警察上層部直々による捜査を招いた結果、池永正明投手(西鉄)や小川健太郎投手(元東映→中日)などエース級選手が球界を去り、オートレース界の19名を含めて多数の逮捕者を出しました。

 

元々この「黒い霧」は松本清張氏によるノンフィクション「日本の黒い霧」から生まれた“政財界スキャンダル“用語でした。

 

●「野武士集団」西鉄ライオンズ

 

福岡生まれの私の幼い頃の「ライオンズ」は、太平洋クラブ→クラウンライター時代。

 

西武以降のライオンズファンには信じられないでしょうが、当時のライオンズは弱小も弱小、毎年最下位が定位置で、ダブルプレーしたら「珍しい」と拍手されるほどの惨状でした。

 

ホームの福岡 平和台球場は常に閑古鳥、焼酎片手の観客の罵声と怒声の飛び交う場末のイメージ。たまに来る巨人戦だけが満員になるあり様で、いくら「昔の西鉄は強かった」と言われても、とても信じられませんでした。

 

1950(昭和20)年、西鉄クリッパーズとして福岡で誕生した西鉄ライオンズは、かつては稲尾和久、中西太、大下弘、豊田泰光、仰木彬らの名選手を擁し「野武士集団」と呼ばれ、1957(昭和32)年には巨人との日本シリーズで負けなしの4勝1引き分けで勝利。2年連続2度目の日本一を達成した強豪チーム。

しかし60年代に入るとパリーグ盟主の座は南海ホークスに移り、球団は低迷。

 

この「黒い霧」事件が発覚した1969(昭和44)年は中西太監督が退き、稲尾和久氏が監督に就任した時期でした。

 

●「八百長」発覚

 

今では信じられませんがこの1969(昭和44)年当時、プロ野球界では暴力団がからむ賭博のために選手がわざと試合に負けるプレーをする「八百長」が蔓延していたと言われます。

 

中でも常態化していた西鉄ライオンズに所属するカール ボレス外野手が、報知新聞記者に「ウチのチームにわざとエラーする選手がいる」と告白。

 

これがきっかけで報知新聞と読売新聞が動き出し、八百長の証拠を掴み始めます。

 

その後、西鉄球団は永易将之投手を「暴力団の依頼を受け、公式戦で敗退行為(わざとチームが負けるように投げる)行為があった」として解雇。

 

国広球団社長は会見で「八百長をやっていたという確証を突き止めたわけではないが、素人の私の目から見ても永易は先発すると妙に打たれてKOされる。勝つという意欲が見られず、負けた後、派手な遊びをしていたなど八百長を演じているのではないかと思える節があり、本人を呼んで問いただすと本人は否定も肯定もせず、ただ震えているだけだった。この態度から永易は野球トバクに手を染めていると確信した」と発言。

 

同年11月28日、コミッショナー委員会は永易投手に対し、プロ野球界初となる「永久追放」処分を下します。

西鉄ライオンズの国広球団社長、中西太監督が辞任し、永易投手はその後、忽然と姿を消しました。

 

この頃、読売、報知に加えて創刊間もない週刊ポスト(小学館)などの週刊誌も野球賭博を追及する記事を掲載し始め、世間の注目はますます高まります。

 

●永易投手の「暴露」

 

翌1970(昭和45)年3月、国会の場でこの件が取り上げられ「永易投手は暴力団関係者に軟禁されているのではないか」との議論から警察庁刑事局長が捜索を約束するなど、遂に政界の介入を受ける「事件」へと発展しました。

 

3月末には週刊ポスト、内外タイムスなどが永易氏との接触に成功し、次々と新事実の「告白」記事を掲載。

 

そして4月1日、永易氏のインタビューがフジテレビの深夜番組「テレビナイトショー」で放送され、永易氏は「自分が演じた八百長は3試合でそのうち1試合のみが成功、この試合で自分以外に八百長に関わった選手がいる」と明言。

 

4月10日、永易氏が衆議院第二議員会館第一会議室にて記者会見。他の関係者、関わった選手の実名と金額、さらには西鉄球団から口止め料を貰って隠遁していたことなどを次々と暴露。

記者会見後には東京 銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ、その後パ・リーグ事務局へ赴き、いずれも八百長について証言しました。

 

西鉄球団は同日午前に会見で実名の挙がった池永正明、与田順欣、益田昭雄、村上公康、船田和英、基満男の6選手から事情聴取。

 

西鉄球団は「6名全員が永易の発言を否定しシロである」加えて「逃走資金についてもそのような事実はない」と発表。マスコミから「手ぬるい」と猛バッシングを受けます。

 

 

●オートレース界へ飛び火

 

一方、この件を捜査していた東京地検特捜部は永易氏およびその家族から事情聴取を行い、4月23日、オートレース八百長事件に関わっていたとして、小型自動車競走法違反の疑いで田中勉(西鉄ライオンズ→中日ドラゴンズ)、高山勉(元大洋ホエールズ)両元プロ野球選手と、永易氏に八百長をもちかけたとして名前の挙がっていた胴元の暴力団員の逮捕を発表。

 

さらに翌月には当時中日のエースであった小川健太郎投手、阪神タイガースの葛城隆雄選手がオートレースでの八百長行為で逮捕され、疑いのある選手として東映フライヤーズの田中調、森安敏明 両選手の名前が挙がります。

 

遂に現役選手の逮捕にまで発展した球界の「黒い霧」に対し、世間の風当たりはますます厳しくなります。

 

その後、朝日新聞はロッテオリオンズ、東映フライヤーズ、近鉄バッファローズなどの球団もこの事件への関連(八百長を誘われた、強要されて従った)などと報道。

 

事態はさらに泥沼化していきました。

 

●処分

 

5月25日、永易氏に告発された西鉄ライオンズの6人の処分が確定。
・池永正明、与田順欣、益田昭雄の3選手は「永久失格」
・村上公康、船田和英の2選手は「1年間の野球活動禁止」
・基満男選手は「厳重注意」

 

オートレース八百長絡みでは
7月30日
・小川健太郎(中日)、森安敏明(東映) 両選手に「永久失格」
・田中調(東映)選手に「厳重注意」
9月8日
・桑田武(ヤクルト)選手に「3か月の有期失格」

その後も処分は続き、1970(昭和45)年に
11月30日
・江夏豊(阪神)選手が「野球賭博疑惑のある暴力団と交流があった」として「戒告」

 

1971(昭和46)年に
1月11日
・三浦清弘(南海)選手が「敗戦行為の勧誘を受け報告を怠った」として「戒告」
1月29日
・坂井勝二(大洋)選手が「暴力団と交流」で「出場停止、減給」
2月15日
・成田文男(ロッテ)選手が「野球賭博疑惑のある暴力団と交流があった」として「1か月の出場停止」

 

そのほか、
・「オートレース八百長に参加」した高山勲(大洋)、田中勉(中日)
・「敗戦行為を勧誘」した佐藤公博(南海)
各氏は既に引退していたためコミッショナー委員会からの処分はありませんでしたが、事実上の「永久追放」となりました。

 

この後も多数の選手が八百長に関わっている事が判明しましたが、八百長をしていた、あるいは誘いを受けた数があまりにも多く(田中勉氏によれば70人以上いたとも証言)、「全員処分すればプロ野球存続に関わる」として、これ以上の処分はありませんでした。

 

またオートレース界からも当時の大井オートレース場のエースだった戸田茂司など現役選手19名が逮捕される事態となり、大井オートレース場はこれを引き金に1973(昭和48)年、閉鎖に追い込まれました。

 

●結末

 

この事件で、エースとなりつつあった池永投手を始め主力選手から多数の「永久追放」を出した西鉄ライオンズは1970(昭和45)年から3年連続最下位となった上、観客動員も激減して球団経営が完全に行き詰まり1972(昭和47)年シーズン終了後、ゴルフ場開発会社 太平洋クラブへ身売りされる事となりました。

1978(昭和53)年には引退し、事実上の永久追放処分を受けていた元中日の高山勲氏が自殺(当時の報道では「鬱病」)。

 

逮捕者の数、関係した選手共にこれまでに類を見ない大事件は、特にパ リーグの不人気に拍車をかけ「 日本プロ野球史上、最悪の暗黒の歴史」となりましたが…

 

現在では、この事件が深く暴力団が根付いていたプロ野球界の浄化につながった、と見る声もあります。

 

 

●失われた名誉と回復

 

オートレース界では逮捕され、多大な影響を受けた選手として廣瀬登喜夫氏がいます。「オートの神様」と謳われた現役最強時に事件に巻き込まれ、1975年に冤罪だったと無罪判決が下り、無事に現役復帰を果たしましたが貴重なキャリアが失われました。

 

もう1人、この事件で必ず名前が挙がるのが西鉄ライオンズの池永正明投手です。

池永投手は入団してから、

1965(昭和40)年 20勝10敗
1966(昭和41)年 15勝14敗
1967(昭和42)年 23勝14敗(最多勝)
1968(昭和43)年 23勝13敗
1969(昭和44)年 18勝11敗

と素晴らしい活躍。将来200、いや300勝投手として期待され、同期入団した尾崎将司(後のジャンボ尾崎、春のセンバツ優勝投手)が「コイツには勝てない」とプロゴルファーへの転向を決意するほどの“逸材“でした。

 

池永氏は当時「絶対に八百長などしていない。先輩である田中選手から『預かってくれ』と言われた金を押入れにしまっていただけ」と説明していましたが、主力投手であり、1969年シーズンに序盤でKOされた試合があったことなどから永久追放に。金銭受理した其選手は厳重注意なのに同罪の池永氏への処分だけが重く、「見せしめ」とも言われていました。

 

その後、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された『灰色有罪』の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題に当たる」と長く有志の支援者による復権運動が繰り返され、2005年4月25日、永久追放処分が解除され、池永氏は野球界への復権を果たしました。

 

●「黒い霧」と東尾修投手

 

逆にこの事件が「自分にとっての最大のチャンス、ターニングポイント」と語るのが、当時西鉄ライオンズ入団直後だった東尾修投手です。

 

東尾投手は和歌山 箕島高校からドラフト1位で入団した18歳。ニ軍でもメッタ打ちされプロとしての自信を失い、野手転向を考えていました。

 

しかし、事件の余波で球団の主力選手がごっそりいなくなったことで負けても負けても一軍でフル回転することに。

 

結果として、太平洋クラブ〜クラウンライター〜西武に至るまで“ライオンズのエース”としてチームを支え続けることになりました(西鉄から西武までずっとチームに所属していた投手は東尾氏だけ)。

 

生涯通算251勝247敗23セーブ。「200勝するより先に200敗した」珍しい記録の持ち主なのです。

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