「刀根山籠城事件」〜1977 野村克也監督 南海ホークス解任騒動

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今回は、1977(昭和52)年シーズン終盤に巻き起こった、南海ホークス 野村監督解任を巡る大騒動、「利根山籠城事件」を取り上げます。

 

 

1977(昭和52)年。南海ホークスのプレーイングマネージャー(選手兼監督)として8シーズン目を迎えた野村克也さんがシリーズ終盤、それも残り2試合という時期に突如として球団から解任され、大騒動に発展しました。

 

 

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なぜ、南海は野村監督を解任したのか?

 

野村さんは1969(昭和44)年から34歳の若さで選手兼監督となり、捕手、4番打者としても重責を担い続けた南海再興の立役者、大看板です。

 

 

解任の理由が成績不振ならば納得…なのですが、野村ホークスは1973(昭和48)年にリーグ優勝。1975年こそ5位に甘んじますが今期も前期2位、後期3位。そこまで責任を問われる成績ではありません。

 

ではなぜ南海球団は、野村監督を解任したのでしょう。

 

その理由は、「私生活」と「公私混同」。

 

この当時、野村さんは後の夫人となる沙知代さんと、俗にいう「愛人関係」にありました。

 

 

南海球団は「監督という立場を利用して自分の愛人を球場や監督室に出入りさせ、選手起用などにも口を出させていた」と糾弾したのです。

 

野球を取るか、オンナを取るか

 

解任発表の1週間程前。

野村克也さんは、後援会長である比叡山の高僧から呼び出しを受けます。

そこでこんなやり取りがあった、と後に野村さんが明かしています。

 

「野球を取るか、女を取るか、ここで決断せい」

「女を取ります」

「野球ができなくなってもいいんだな」

「仕事はいくらでもあるけれど、伊東沙知代という女は世界にひとりしかいませんから」

 

野村さんはこの一言で、自分がどうなるのか覚悟していました。

そして一切、球団との連絡を断ち、姿を見せず「雲隠れ」。

 

後援会長を通じて「最後通牒」を突きつけたものの、懐柔に失敗した球団側は遂に9月28日、シーズン残り2試合を残し「野村監督解任」を発表。

 

その間、野村さんは利根山(大阪府豊中市)にある自宅マンションに立て篭もっていました。

 

 

江夏豊と柏原純一

 

この「利根山籠城」で「オッサンをかくまっていたのはワシ」と語るのは、江夏豊さんです。

 

この時マンションに「籠城」したのは野村さんだけではなく、同じマンションに住む入団7年目の柏原純一さん、隣のマンションに住む移籍2年目の江夏豊さんの、いわゆる「野村派」が一緒でした。

 

 

江夏さんはこの前年、阪神タイガースとの大型トレードで江本孟紀、島野育夫ら南海の主力4選手と引き換えに獲得した大エース。

 

 

移籍後、思うように成績が残せない江夏豊さんに野村さんは、クローザーへの転向を勧めます。

 

当然、先発にこだわる江夏さんは固辞しますが、野村さんの「プロ野球に革命を起こそうや」の言葉に心を動かされて転向を決意。

 

6月からリリーフに転向した江夏さんはこの年19セーブを挙げ、最優秀救援投手に輝きました。

 

 

その江夏さんは、後年マスコミでこの騒動の「真相」をたびたび、語っています。

 

「野村解任に不満を持ったワシや柏原は、オッサンと運命を共にするつもりやった。当時住んでいた刀根山のマンションに籠って、外部とは一切連絡をとらずトコノン意地を張った。これが刀根山籠城事件よ」

 

「その籠城中にオッサンが記者会見したいと言い出して、ホテルの手配とか全部、ワシがセッティングしたんや」

 

鶴岡元老に吹っ飛ばされました

 

そして野村さんは10月5日、大阪ロイヤルホテルにて記者会見を開きます。

 

 

久々に姿を見せた当本人の発言に注目が集まる中、野村さんは開口一番「私は鶴岡元老に吹っ飛ばされました。スポーツの世界に政治があるとは思わなかった」と切り出し、自分が解任されたのは元監督で球団OBの大物、そして野村さんを見出した恩人である「鶴岡一人さんによる現場介入」だと主張。

 

 

そしてチーム・選手への口出し、および度重なる公私混同についても、「沙知代はコーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていない」と発言。球団が自身を解任した理由には正当性がないと主張しました。

 

 

この会見で黒幕と名指しされた鶴岡さんは唖然。退団後は「新しいカラーを打ち出そうとしている球団の邪魔をしては」との思いで南海との関与を意図的に避けていた鶴岡さんにとっては、全く寝耳に水の話だった、と言います。

 

その後、南海は野村さんに発言を撤回するよう訓告文を送付する事態に。

 

約2週間後の10月14日、野村さんは球団に対し「表現に行き過ぎがあった」と認め、南海球団も野村さんの謝罪を「誠意あるもの」と受け入れ、騒動は一応の決着がつく…かに思えましたが…

 

野村さんは10月13日付の「週刊文春」で「独占手記」として「今回の解任は鶴岡が自分に忠実な広瀬を監督にするために企てた陰謀」「沙知代が現場介入をしたという話は全くの事実無根、鶴岡氏によるデマ」と主張。

 

さらには1965年11月に蔭山氏が監督就任直後に急死した一件は「鶴岡氏が圧力をかけて自殺に追い込んだ」とまで語り、鶴岡氏だけでなく広瀬叔功夫妻、杉浦忠氏ら南海関係者を激しく批判。

 

これにより野村さんと鶴岡さんをはじめとする南海側の対立は、もはや修復不可能となってしまいました。

 

江夏豊、江本孟紀が語る「真相」

 

江夏さんは野村さんの監督解任の報を聞き、「あ、もう終わったな、と思ったよ。もうワシは野球を続けることはできないな、と背中がゾッとした」と語ります。

 

 

「オッサンが元老にハメられた、とまで言うんやから、2人の間には相当な因縁があったんやろう。何があったのかはわからないけどな。でも組織の人間としてやっちゃいけないことをやったワシらに、もう居場所はないやろうな、と。オッサンは敵が多かったからなあ」

 

「公私混同、私生活の問題と新聞では報じられとった。その結果、チームの和を乱した、と言われたけど、それは球団が仕込んだストーリーなんやろう。サッチーが球場に来てるのは分かっていたけど、監督室に入ったのは一度も見たことがない。報道を見るまではサッチーがそこまで球団の内部に入っているとは知らなかった。だから、たまたま一度か二度、そういうことがあったのを利用されてブスッと刺されたんやないんかな」と語っています。

 

 

一方、その江夏豊さんと引き換えに前年、阪神タイガースにトレードされた江本孟紀さんは、真逆の主張をしています。

 

 

「沙知代は大阪球場に電話をかけてきて、なんであんな選手を使ってるの!コーチを出しなさい!などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティングコーチを電話口に呼び出せとが言っていた」

 

「選手たちもえらいこと言うオバハンやな、公私混同でひっかきまわないでくれやとウンザリしていた」

 

遂に1975(昭和50)年のオフに選手会は緊急会合を開き、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランが尻込み。中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3選手が大阪のホテルで野村さんに直談判。

 

「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください」と話したところ、野村さんは神妙な面持ちで聞いていたと言います。

 

「やっぱり話の分かる人だな、と安心して引き上げたら、自分と西岡はトレードですよ」

 

幻の「巨人・野村克也」

 

実はこの1975(昭和50)年の騒動の裏で、野村さんには移籍話が持ち上がっていました。その候補はなんと、読売ジャイアンツ!

 

これは巨人フロントからの「選手兼ヘッドコーチ」要請がきっかけで、フロント間では既に合意に達し、南海ホークス後任監督には大沢啓二さんに非公式で打診されていました。

 

ところが土壇場で長嶋監督が野村獲得を承諾せず、交渉は決裂。

 

こうして「巨人・野村克也」は幻に終わり、野村さんは監督続行となっていたのです。

 

騒動後の3人と南海ホークス

 

野村さんは1977年11月、金田正一監督からの誘いで、ロッテへの移籍が決定。

 

残された江夏豊さんと柏原純一さんは、トレードを主張します。

 

そして江夏さんは、広島への金銭トレードが決定。この裏には、野村さんから古葉監督への口添えがあったそうです。

 

古葉さんは後に「野村さんから連絡があって『江夏がオレと一緒に辞めると言っている。獲る気があるなら、どうだ?絶対にやれると思う。あんたなら江夏とうまくやれると思うから』と言われたんですよ」と明かしています。

 

江夏さんは広島に移籍し、1979年、1980年と連続日本一の立役者に。近鉄バファローズとの日本シリーズでの「江夏の21球」は伝説です。

 

 

柏原さんは日本ハムとのトレードが成立しますが、野村さんと同じロッテへの移籍を訴え、「受け入れられない場合は任意引退も辞さない」と強硬に主張。しかし翌1978(昭和53)年1月、日本ハムへの移籍を受け入れました。

 

まだ25歳だった柏原さんは、日本ハムに移籍後に開花。一塁手として3度のベストナイン、4度のダイヤモンドグラブ賞にも輝きました。

 

 

そして野村克也さんはロッテ移籍後、翌1979(昭和54)年に西武に移籍。

そして1980(昭和55)年、26年間の現役生活にピリオドを打ち引退します。

 

 

「あそこで大阪を出て、関東にやってこんかったら今のオレはない。」

 

後にヤクルト、阪神、楽天監督を歴任して名将と呼ばれた野村さんは、後に繰り返し語っていました。

 

一方、この騒動で主力選手を放出した南海ホークスは観客動員も激減。翌年以降、長くBクラスで最下位争いをする低迷が続きます。

 

そして1988(昭和63)年。

球団創立50年を迎えた年の9月に、南海はダイエーへの球団売却を発表。

 

 

南海球団はその歴史に幕を下ろしました。

 

おかえり!ノムさん

 

2020年2月、野村克也さんは84歳で亡くなりました。

 

そして2020年11月、複合商業施設なんばパークス内の南海ホークスメモリアルギャラリーで野村さんのユニホームなどの遺品が展示される「おかえり!ノムさん 大阪球場に。」式典が行われました。

 

 

野村さんと南海はこの解任以降、大きな溝が生まれ、かつての本拠地・大阪球場跡地ギャラリーでは展示などが一切ありませんでした。

 

これを気にかけていたOBの江本孟紀さんが音頭をとり、息子の克則氏ら遺族も協力。実に44年ぶりに古巣・南海に「里帰り」したのです。

 

江本さんは「ほっとした。名将としての監督時代だけではなく、現役時代のすごさも知ってもらいたい」

 

野村さん自身も晩年は「ホークスはやっぱり他人とは思えないんですよ。24年間、南海ホークスにいましたから。余計に思うんですよ。最初に監督をやらせてもらったのも南海ホークスでしたからね。ホークスに背中を向けて寝られないというか、感謝しかないんで。そう思って今も生きていますけどね。ホークスのおかげですよ」と語っていました。

 

コメント

  1. 食べる前にノム より:

    私はノムさんは好きですが、この事件は知りませんでした。
    失礼ですがよくあるまとめ記事かなと思っていたらとんでもない。
    大変分かりやすい素晴らしい記事で感動しました。

  2. 緒方 知久 より:

    こんにちは。
    江夏江本の対談YouTubeをみて「刀根山籠城」の言葉を知りました、そしてこちらの記事を読ませて頂きました。

    当時小学生でファンクラブにも入ってたりしてはいましたが、45年以上たった今頃知りました、当時いかに子供には情報無いかって事ですね、パリーグの話だし。
    柏原さえ残っていてくれたら南海のその後の歴史は違ったんだろうと当時も思いましたね、左ばかりの強力打線で右がいない為にほんと苦労しましたから。

    本日書き込んだのは出だしの下記、監督になられったのは昭和で言うと44年ですよね、40年は鶴岡さんバリバリでしょ。

    野村さんは1965(昭和40)年から34歳の若さで捕手、4番打者、そして監督となり

    以上 です。

  3. 雪月花 より:

    私も5年くらい前に大阪に行った時に、なんばパークスへ足を運んでギャラリーを見ました。とても詳しい年表が展示されていて、話には聴いていたものの選手としても監督としても大功労者である野村氏の、”の”の字も書かれていない(野村氏が監督を務めていた期間だけ監督名が記されてなかったり…など)のを目の当たりにして驚いたことを思い出します。
    TERUさんが締めくくりに引用された野村氏の晩年の言葉を読んで何だかホッとしますし、コロナが落ち着いて大阪にも行けるようになったら、野村氏の功績の展示を観に行きたいです

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!当時の顛末を知ると絶縁状態になるのもやむなし、というくらいのこじれっぷりですけど、時はすべてを解決してくれる、と願いたいですね。

      ノムさんと鶴岡御大の関係ですが、こんな記事を見つけました。
      https://www.nikkansports.com/baseball/news/202101070000039.html

      いまごろ天国で、またケンカしてなきゃいいですね(笑)

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