球界の寝業師「根本睦夫」~ダイエー王監督の誕生、常勝ホークスを創った男

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2020年の日本シリーズ、ソフトバンクホークスの強さが際立ちました。

 

地元福岡での発足当時の弱小ぶりを知る者としては、ホークスがこんなに強いチームになり、球界の盟主的存在になるなんて感慨深いものがあります。

 

今回は、現在の強さの確立に多大なる貢献をした“球界の寝業師“根本睦夫さんの大仕事、「ダイエーホークス王監督誕生」について振り返ります。

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“球界の寝業師“根本マジックとは?

 

根本 陸夫さんは1926年茨城県生まれ。選手、監督としては目立った成績を残せず在任期間も短かったものの、発足当時の西武ライオンズ、そして福岡移転後のダイエーホークスの土台を築いたお方です。

根本さんのドラフト会議やトレードでの辣腕ブリは、「根本マジック」と呼ばれます。

 

まだGMという肩書きのない時代、根本さんは事実上のGMとしてその敏腕を発揮し、球界の盟主である巨人に対し、ありとあらゆる手法で果敢な挑戦を続け、成果を残し続けました。

 

西武ライオンズ時代

 

田淵幸一と真弓明信の交換を中心とする、トレードを阪神との間で実行(阪神・小津正次郎社長との密室トレード)

 

松沼博久・雅之兄弟に2人合わせて1億2000万円を提示した巨人に対し、2人合わせて1億5000万円を提示、逆転で獲得に成功(この一件と江川事件の影響で、しばらくの間読売系列の新聞、雑誌から西武グループの広告が締め出され、また西武線各駅の売店で読売系列の新聞、雑誌を取り扱わないという親会社を巻き込んだ遺恨が勃発しました)

 

石毛宏典をはじめとする、社会人野球(主として西武グループのプリンスホテル)を駆使した囲い込み

 

巨人を始め4球団争奪戦となっていた秋山幸二を、九州産業大学への進学の噂を流させた上でドラフト外で獲得

 

伊東勤を熊本県立熊本工業高等学校定時制から埼玉県立所沢高等学校に転校させ、球団職員として採用し囲い込み、翌年ドラフト1位で指名

 

熊谷組への就職を発表していた工藤公康をドラフト下位で強行指名。説得の末に入団させる

 

清原和博をドラフト1位指名、獲得。(大学進学を希望する桑田真澄も外れ1位又は2位で指名し、“KKコンビ総獲り“のプランもありましたが巨人が桑田を単独1位指名したため阻止された)

 

台湾球界のエース、郭泰源を台湾で英雄とされる巨人監督の王貞治が直接獲得に動く前に契約を交わし獲得

 

ダイエーホークス時代

 

秋山幸二・佐々木誠を中心とする6人トレードを西武との間で実行

 

西武のエース投手工藤公康や、将来の西武監督候補として期待されていた石毛宏典をFAで獲得

 

プロ入り拒否宣言を行い、駒澤大学進学が内定していた城島健司を、ドラフト1位で指名、獲得

 

…などなど。

 

そんな根本さんの最大の大仕事が、「王貞治氏のダイエーホークス監督就任」でした。

 

ホークス・王監督の誕生

 

ソフトバンクの前身、ダイエーホークスが九州・福岡に本拠地を移したのは1989(平成元)年。現在の常勝チーム化の契機となったのは、1994(平成6)年オフの「王監督誕生」でした。

 

巨人一筋、それも不滅のホームラン世界記録を打ち立てた「世界の王」の巨人離れとパリーグでの監督就任は、衝撃的な出来事でした。

 

現在、ホークスの球団会長を務める王貞治氏は、当時「100人が100人反対した」と語っています。なにせその当時、ホークスは「17年連続Bクラス」と低迷中。1988(昭和63)年のシーズン限りで巨人軍の監督を解任されていた王さんに、根本さんが声をかけたのは1993(平成5)年の事でした。

 

「根本さんは自分が監督になった年から僕に声をかけてきてね。『根本さん、今年、自分が監督になったばかりじゃないですか』という話もして最初は断ったんだけど。今年から監督をやる人に『やってくれ』と言われても、冗談だと思うよね。最初は受ける気なかったですよ」

 

この時は王さんもユニホームへの未練はなかったが、それでも気持ちが揺れ動いてきたといいます。

「また次の年も『オレのあとをやってくれ』と言われてね。ちょうど(巨人の監督を辞めてから)5年くらい離れていたのかな。離れたときは二度とユニホームを着る気はなかったんだけど、だんだん日にちがたってくるとなんと言うのかな、あの“ときめき”というかね。感動とか。ずっと長い間、輪の中にいたから、それが当たり前になっていたものが、外れたら外れたで物足りないんだよね」

 

しかし、当時は現在よりもセリーグとパリーグの人気差は歴然としていた時代。それも「巨人の王」が、他球団のユニホームを着ることに強いアレルギー反応がありました。

「そこは僕はね。あまり考えるタイプじゃなくて。過ぎたことは全然気にしないタイプなんだよね。みんな僕の知り合いは100人が100人反対したけど。わざわざ福岡まで行くことないじゃないかと。でも僕は野球をやりたかった。今でも僕は福岡に来て良かったと思ってますよ」

 

王さんにはほかにもヤクルト、横浜、西武、日本ハムなど複数の球団が招聘に動いていたとされます。

「実際、声がかかったことはありましたよ。でも、そのときは自分自身も監督をやろうという思いはなかった。確かに、これが東京のチームだったら受けにくかったというのがあるかもしれない。パ リーグで東京から離れた九州だったということで、僕自身受けやすかったというのがあるよね。オファーを受けている中で、だんだん野球をやりたい気持ちが出てきた。2年目(1994年)はそういう話が来た中で真剣に考えた。僕もそういうことで『根本さんにそこまで言ってもらえるんだったら』と野球をやりたくなった。タイミング的にも良かった」

 

この時、根本さんは「巨人を家に例えれば、長嶋さんが長男で王さんは二男。通常、二男は家を継げないのでは」と王さんを説得し、監督就任を承諾させたと言われています。

王ホークス苦闘の日々

 

こうして1994(平成6)年に誕生した「王ホークス」。本拠地は老朽化していた平和台球場から前年に完成した福岡ドームに移り、前年、チームは4位ながら貯金9と躍進。新たなチームとしての体制は整ったかにみえました。

 

ところが就任1年目の1995(平成7)年は、西武ライオンズから工藤公康、石毛宏典が加入するなど期待は大きかったものの、故障者続出などにより借金18の5位に終わります。

 

翌1996(平成8)年5月には、開幕から最下位をひた走るチームに対しダイエーファンから王さんや球団代表である瀬戸山氏を強烈に批判する横断幕が掲げられ、敗戦後に球場から出てきたナインの乗ったバスに、「お前らプロか!」と言う罵声を皮切りに次々と生卵がぶつけられる「生卵事件」が発生。

 

常勝、人気球団で育った王さんにとって、負け続けた挙句にファンから罵声を浴びるというのは、想像以上に耐え難い屈辱だったと思いますが、王さんはその批判に対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けました。

 

1997(平成9)年は4位、1998(平成10)年はオリックスと同率ながら、21年ぶりのAクラスとなる3位に。

 

そして1999(平成10)年の開幕前、球団社長だった根本さんの「お前達、何を構えてるんだ。この人は、今では『世界の王』と言われているが、昔はラーメン屋の倅だったんだ。お前達と何も変わりゃしない。そう思ってやりなさい」との言葉で王さんとコーチ、選手達の溝が埋まった、と言われます。王さんも「選手というのは想像以上に俺の顔色をうかがっている。だから俺もあまり難しい顔をせず、選手が失敗を恐れず、のびのびできるようにしないと」と選手に歩み寄る発言をするようになりました。

 

そして遂に、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し監督として初の日本一に(両リーグ優勝監督は三原、水原、広岡、野村に次いで5人目)。

 

しかし根本さんはこの年の4月30日、急性心筋梗塞のため72歳で死去。悲願の初優勝に立ち会うことはできませんでした。同年のシーズンではベンチに遺影が掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる、根本さんの遺影を天に掲げました。

 

「たぶん、ダイエーの本社筋ではね、僕を『代えろ』っていう話がものすごくあったようだけど、根本さんが頑張ってくれたんだと思う。時間はかかっちゃったけど、よく我慢してもらったと思うよ」

「勝てなかったときというのは、勝てない原因が分かる。それを埋めていくというか改善していく。負けたらどうしようかと。僕は(ダイエーオーナーの)中内さんが勝てないのに5年も根気よく使ってくれた。だから中内さんには感謝してますよ。(ソフトバンクオーナーの)孫さんにもだけどね」

 

日本シリーズでのON対決が実現

 

そして2000(平成12)年、ダイエーホークス王監督と読売巨人軍長嶋監督の「ON日本シリーズ」が実現しました。

根本氏は、王さんを福岡に呼んだ時から、このONによる日本一決戦を想定していたといいます。

「このままでいくと野球はサッカーに負ける。巻き返すためにはON対決しかないんだ」

 

王さんは根本さんを偲び、こう語っています。

「おそらく、根本さんがいなかったら、まず、ダイエーホークスで終わっていたかもしらんね。ソフトバンクホークスになるまでつながっていないと思う。もちろんホークスだけじゃない。野球界全体に影響を与えた、という意味では忘れ得ぬ人だし、惜しい人を失ったと、今でも思う」

 

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