追悼「ダイナマイト キッド」〜1958-2018 爆弾小僧、初代タイガーマスク最高のライバル

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ID:3305

ダイナマイト キッド Dynamite Kid
本名:Thomas Billington
1958年12月5日 – 2018年12月5日

“爆弾小僧”ダイナマイト キッドは、初代タイガーマスクの”最高のライバル”でした。

 

ブラックタイガーやメキシコ ルチャリブレの覆面レスラー、小林邦昭など数多くのレスラーと名勝負を繰り広げた初代タイガーマスクですが、”キッドとの試合は特別”、というのが、リアルタイム世代の私の感想です。

 

小さなカラダで限界まで鍛え上げた筋肉美、研ぎ澄まされたフル スロットルのテクニックとパワー、そしてなにより激し過ぎる闘争心と、自爆覚悟ノーガードで落下してくるダイビング ヘッドバット。

 

その姿は、まさしく「全身是鋭利な刃物」©️古舘伊知郎アナ。

 

激し過ぎる全盛期と、やがて来る怪我と薬物の後遺症で車椅子生活を余儀なくされた、光と陰のコントラスト。

その刹那的な美しさで、忘れられない名レスラーです。


 

■デビューから国際プロレス初来日、藤波辰巳との対決

 

ダイナマイト キッドは1975(昭和50)年、17歳でイギリス マットでプロレスラー デビュー。デビュー前は「蛇の穴」と呼ばれる伝説の名門ビリー ライレー ジムでシュート レスリングを学んだといわれます。

 

1978(昭和53)年にカナダ カルガリーのスタンピード レスリングに渡り、初来日は1979(昭和54)年、国際プロレスでした。カナダで獲得した英連邦ジュニアヘビー級チャンピオンとして寺西勇、阿修羅原らと激闘を繰り広げ、

同年8月の新日本プロレス カナダ遠征において、当時WWFジュニアヘビー級チャンピオンだった藤波辰巳と初対決、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」で放送されて一気に注目を集めます。

 

藤波とは1980年2月にも日本でタイトルマッチを戦っています。
https://njpwworld.com/p/s_series_00029_1_1

 


 

■タイガーマスクとの抗争

 

1981(昭和56)年4月23日 蔵前国技館。初代タイガーマスクのデビュー戦の相手が、キッドでした。

実力も未知数で、悪ふざけの余興か?と冷ややかな目で見られていたタイガーマスクが、衝撃的なデビュー戦から黄金伝説を築いたのは、デビュー戦の相手が実力者のキッドだったから、とも言えます。

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なんとこの時が正真正銘の初対決だったそうなのですが、2人は奇跡的なシンクロをみせ、結果としてタイガーマスクが見てくれだけじゃないストロング スタイルの継承者であり、新時代のジュニアヘビーの盟主足り得る実力者なのだ、とうるさ方のファンもが納得せざるを得なくなったのは、相手がキッドだったから、なのです。

 

その後もキッドは事あるごとにタイガーと抗争を繰り広げ、1982(昭和57)年8月30日にはニューヨーク MSG(マディソン スクエア ガーデン)でも対決。

 

アメリカマット初登場のタイガーマスクは、はたして大男でマッチョマンによる大味な肉弾戦が大好きなニューヨーカーに理解されるのか?と懸念されていました。

 

しかし、試合中盤から徐々に観客がザワつき始め、キッドのフル スロットルのカミソリ ファイトとタイガーの華麗な四次元殺法が炸裂するとスタンディング オベーションに。

 

このタイガーマスクのセカンド デビュー戦ともいえる試合の大成功もまた、相手がキッドだったから、とも言えるのです。

 

タイガーマスクとの戦績は1勝5敗1引き分け。勝ちはフェンスアウトによる反則勝ちのみ。しかしツームストーン パイルドライバーでタイガーマスクを頸椎挫傷による欠場に追い込むなど、2人の戦いは常にギリギリの攻防でした。

 

初代タイガーマスク電撃引退の後は後継のザ コブラとも抗争し、1984(昭和59)年1月に開催されたWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦では、従兄弟のデイビーボーイ スミスを交えた三つ巴決勝戦を制してチャンピオンに輝きました。

 

ちなみに・・・このころのキッドのスキンヘッドに憧れた私は、中学3年で部活を引退した友人らが揃って長髪にする中、その流れに逆らって敢えてスキンヘッドにしたことがあります。そんな理由を知らない周囲からは「何か悪いことでもしたのか?」と疑われましたが(笑)。

 


 

■全日本プロレス、WWFへ

 

1984(昭和59)年11月、新日本プロレス「第4回MSGタッグリーグ」に出場するために来日したものの、そのままデイビーボーイ スミスと共に全日本プロレスへ電撃移籍、「世界最強タッグリーグ」へ出場。これは当時、新日プロと全日プロだけではなくアメリカマットのNWAとWWFも巻き込んだ大騒動へ発展しました。

1985(昭和60)年からはWWFに本格参戦し、スミスとの「ブリティッシュ ブルドッグス」で活躍。1986(昭和61)年4月にはレッスルマニア2 ロサンゼルス大会に出場しWWF世界タッグ王座を奪取しました。

 

1986(昭和61)年12月、カナダでの試合中に椎間板を負傷。WWF移籍後は明らかに筋肉増強剤を使用したオーバーウェイトで、無理がたたって体調不良は誰の目にも明らかでした。

 

1988(昭和64)年末にWWFを離脱、1989(平成元)年からは全日本プロレスへ復帰。1月のキッド スミスvsジョーとディーンのマレンコ兄弟戦は、名勝負として語り継がれています。

 


 

■引退、復帰、そして…

 

1991(平成3)年12月、突然の引退表明。世界最強タッグ決定リーグ戦最終日、日本武道館大会の入場前に「ダイナマイト キッド選手はこの試合を持ちまして現役引退となります」というアナウンスが流れ、騒然となりました。

 

これは体調の不良がどうにもならないキッドの決意の引退でしたが、1993(平成5)年7月に復帰。

 

1996(平成6)年10月にはみちのくプロレスの両国国技館大会に来日してドス カラス、小林邦昭とタッグを組み、初代タイガーマスク、ミル マスカラス、ザ グレート サスケ組と対戦。

かつての肉体美は見る影もなく面痩せ細り、更なる体調悪化が歴然としていました。

 

その後は長く消息が不明でしたが2013(平成25)年、ドキュメンタリー映画 “Dynamite Kid – A Matter of Pride” 試写会で公の場へ久々に姿を見せ、雑誌「Gスピリット VOL.28」でインタビュー取材を受けました。

  

そして2016(平成28)年10月5日にNHK BSプレミアムで放送された「アナザーストーリーズ 運命の分岐点 初代タイガーマスク特集」にも登場。ステロイドを始めとする多種の薬物や椎間板の怪我、さらには脳卒中の後遺症で寝たきりとなり、施設で暮らすキッドをビデオ レターで励ます初代タイガーマスク、佐山聡氏の交流が涙を誘いました。

 

これが結果としてキッド最期の姿となりました。2018(平成30)年12月5日、キッドは60歳の誕生日に亡くなりました。

 


 

初代タイガーマスクが新日本プロレスのクーデター騒動の最中、プロレス引退を決意した際に、2人だけで秘密のスパーリングを行ったことが後に明らかになるなど、タイガーマスクとダイナマイト キッドは双方にとって特別な存在、“永遠のライバル”でした。

 

プロレスラーの栄光と孤独、光と陰を体現したカミソリ ファイター、ダイナマイト キッド。ご冥福をお祈りします。

 

 

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