「1985年のアイドル賞レース」〜芳本美代子、松本典子、本田美奈子

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1985(昭和60)年デビューのアイドルといえば南野陽子、中山美穂、斉藤由貴、浅香唯、井森美幸、森口博子、少年隊など、いまなお活躍するタレントが多くいます。

 

しかし、リアルタイム世代の記憶はちょっと違います。

 

芳本美代子、松本典子、そして本田美奈子

いわゆる「新人賞レース」を争った正統派アイドルは、彼女たちでした。

 

この85年は芸能界、音楽業界が変動する大きな節目で、いわゆる“アイドル新人賞レース“最後の年という印象があります。

 


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●多様化するアイドル界

 

少年隊、斉藤由貴はデビューから大ヒット曲をいくつも放ちながら、事務所の戦略で新人賞レースには参加せず。言ってみれば「別格」の存在でした。

 

南野陽子、浅香唯はデビューから数年経ってのブレイクです(斉藤由貴から続くミスマガジン →スケバン刑事シリーズ)。

 

さらに、この年のアイドル界は「おニャン子旋風」の真っ只中。

 

おニャン子クラブはこの85年7月に「セーラー服を脱がさないで」でデビューした新人アイドルグループ。

ですが、おニャン子は“フジテレビ専属“的な売り出し方で、TBSの超人気歌番組「ザベストテン」にすら出演しないなど鎖国的戦略を取り、賞レースには一切、参加しませんでした(この時の反省から後のAKBは、全方位型外交を取るんですが)。

 

とんねるずが「一気!」でレコードデビューしたのも前年1984(昭和59)年12月で、85年組です。

 

このようにアイドルの売り出し方や業界全体の仕組みが激変した結果、長く昭和の伝統だった「アイドルの音楽祭 新人賞レース」というもの自体が、形骸化してしまいました。

 

この前年、1984(昭和59)年の チェッカーズ 吉川晃司 の衝撃については前にも書きましたが、この年に賞レースに参加しないで売れた、独自路線の大物アイドルがいました。

 

菊池桃子です。

 

この1984年にアイドル界は激変が起こり、翌1985年にはもう、多様化路線が主流に。

 

70年代から長く続いた「アイドルはシングルレコードと歌番組で名前と顔を売り、新人賞レースに勝って生き残る」という様式が、完全に“時代遅れ“になってしまったのです。

 


●当時の音楽祭

 

昭和の時代はとにかくあちこちで、テレビ局主導の音楽祭(歌謡曲の賞レース)がありました。

 

主だったものだけでも

 

・メガロポリス歌謡祭(7月):テレビ東京

・日本テレビ音楽祭(8月):日本テレビ

・あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭(11月):テレビ朝日

・日本歌謡大賞(11月):※

・FNS歌謡祭(12月):フジテレビ

 

などがあり、中でも最高権威は最も歴史のある

 

・日本レコード大賞(12月)

 

です。

 

当時は大晦日の放送で、TBSレコ大会場からNHK紅白歌合戦へ直行する歌手が売れっ子、スター。このとき、「帝国劇場からNHKまでの信号がすべて青になる」と言われるほどの国民的行事だった時代です。

 

※日本歌謡大賞は、毎年フジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日・テレビ東京・ニッポン放送・文化放送、RFラジオ日本、エフエム東京が持ち回りで開催

 


●賞レースの行方

 

さて、正統派アイドル達による音楽祭賞レースはどうだったのか、というと。

 

スタートダッシュしたのは芳本美代子でした。

 

彼女は石川秀美の妹分として芸映プロ・テイチクレコードからデビュー。

以来、「白いバスケットシューズ」「プライベートレッスン」「雨のハイスクール」「アプリコットキッス」と松本隆作詞による、いわゆる“正統派聖子ちゃん路線“の良曲に恵まれ、“みっちょん”の愛称でメディア出演も多かったです。

 

▼「雨のハイスクール」(作詞:松本隆/作曲:財津和夫/編曲:大村雅朗)は名曲

 

続く二番手が松本典子。

 

ミスセブンティーン、CBSソニーからデビューした彼女はEPO作詞作曲の「春色のエアメール」、銀色夏生&暮田軽暮(ユーミン)コンビの「さよならと言われて」などの楽曲と、確かな歌唱力でレースに挑みました。

 

▼「さよならと言われて」(作詞:銀色夏生/作曲:暮田軽暮/編曲:松任谷正隆)

 

大人しく、どことなく地味なイメージで清楚系が好きなファンから支持されていました(その後、志村けん「だいじょうぶだぁ」で活躍し、ヤクルトの笘篠選手と結婚して引退)。

 

 

そして本命が本田美奈子

 

ボンド企画・東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。

 

そのルックスと歌唱力で当初から本命視されていましたが、売り出し路線が迷走し、ヒットに恵まれず。ファンをヤキモキさせました。

 

ようやく4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」がヒット(オリコン10位)したのは、賞レースも半ばあたりの10月。

この楽曲は超が付くヒットメーカー松本隆・筒美京平コンビで、背水の陣、事務所は冷や汗ものだった印象です。

▼「Temptation(誘惑)」(作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:大谷和夫)

もっとも有名な「1985年のマリリン」はこの次のシングルで、2年目の大ヒットでした。

 

 


レコ大新人賞受賞は・・・

 

これでようやく格好が付き、「本田美奈子がレコ大最優秀新人賞だ」という流れができたのですが…

ここで、思わぬ伏兵が登場します。

 

他の賞レースには一切、出場しなかった中山美穂です。

 

TBSドラマ「毎度お騒がせします」でデビューした彼女が、TBSのレコ大にだけ出る、ということは…

 

やはり、TBSの「輝く!日本レコード大賞」最優秀新人賞は中山美穂がかっさらっていきました。。。

 

ちなみにレコ大参加楽曲は

 

本田美奈子「Temptation~誘惑~」
芳本美代子「雨のハイスクール」
松本典子「さよならと言われて」
小林明子「恋におちて」
中山美穂「C」

 

小林明子の「恋に落ちて」もTBSドラマ「金曜日の妻たちへ」の主題歌。

 

こうしたわかりやすい「政治」「大人の事情」が絡んだことと、参加しないアイドルが増加しそもそもの意味合いが多様化と共に不明確になったことなどが重なり、音楽祭賞レースの権威は猛烈な勢いでダダ下がりしていきました。

 

そういう意味で、この1985年は節目と言える年だった気がするのです。

コメント

  1. ズンとねる より:

    この頃、個人的には、ジャニーズ勢が、気になってたんですよねー。グッバイから、少年隊までの、空白の2年。(厳密に言うと、85年の12月に、少年隊、楽曲デビュー、イーグルス、中村シゲさんがいますが。)まだ、トシちゃん、マッチ、シブがき隊は健在でしたが。ただ、85年といえば、男闘呼組、少年忍者、Jrには、ゲンジメンバーが控えてるんですよねー。もう無理ですが、この辺の細かい事、ジャニーさんに、一問一答して欲しかったです!多分、知らねーよ!覚えてねーよ!かな?

    • BlogOwner より:

      コメントありがとうございます。確かにこの時期のジャニーズは空白期間でしたね。やはりチェッカーズ&吉川晃司の破壊力が・・・。そういえば、ジャニーさんは語らない人でしたね。

  2. Hiroshi より:

    SWSを検索していて、偶然こちらのブログを知りました。プロレスに関する記事はもちろん、昔の特撮やアニメ、その他のTVの記事も楽しく読ませていただきました。中でもトムとジェリーの記事を読めたのがよかったです。
    私は1971年生まれです。
    これからも投稿を楽しみにしております。

    • BlogOwner より:

      ご訪問&コメント、ありがとうございます!どうやってたどり着いたか教えていただけるのはありがたいです。今後とも、お付き合いのほど宜しくお願いします!

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