「マカロニほうれん荘」とは?~1977 鮮烈な衝撃と壮絶な最期

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今回は70年代伝説のギャグマンガ、少年チャンピオンに連載された鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」とは何だったのか?その鮮烈な魅力と、壮絶な最期をご紹介します!

 

私の小学生高学年〜中、高校生である80年代はまさに『少年ジャンプ黄金時代』。

しかし、私は7歳上の兄貴の影響でそれより少し前、70年代の「トイレット博士」「ドーベルマン刑事」「リングにかけろ」「サーキットの狼」「東大一直線」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(連載当初)あたりに一番ハマり、その後は正直、ジャンプのマンガをそれほど面白いと思えませんでした。←かなりの変わり者

(なので鳥山明先生は「ドラゴンボール」より連載当初の「Dr.スランプ」、「キン肉マン」は超人プロレスマンガになる前の「ウルトラマンの出来損ないの弟時代」の印象が強いのです)

 


 

そんな私が当時、もっとも面白い!と感じたのが、70年代後半に突如現れ頂点を極めた、と思えば墜落して姿を消した伝説のマンガ家による伝説のギャグマンガ、

「マカロニほうれん荘」鴨川つばめ ー 少年チャンピオン連載、1977~1979年、単行本全9巻、秋田書店

です!

 

当時の「少年チャンピオン」は
「ドカベン」(水島新司)
「らんぽう」(内崎まさとし)
「750ライダー」(石井いさみ)
「ブラック・ジャック」(手塚治虫)
「がきデカ」(山上たつひこ)
「レース鳩0777アラシ」(飯森広一)
「東京レスキュー」(牛次郎×筒井昌章)
「花のよたろう」(ジョージ秋山)
「ゆうひが丘の総理大臣」(望月あきら)
「月とスッポン」(柳沢きみお)
「ロン先生の虫眼鏡」(光瀬龍×加藤唯史)
「しまっていこうぜ!」(吉森みき男)
「エコエコアザラク」(古賀新一)

などなど、独特かつ多彩な連載作品を誇り、1977年1月には200万部を達成。
この後1年近い僅かな時期ではありますが少年ジャンプを抑え、公称250万部を超える週刊少年誌の文字通り「チャンピオン」だった(!)まさに黄金時代でした。

 

そんな中、福岡県大牟田市出身、バロン吉元先生のアシスタントを経て少年ジャンプ新人賞受賞経験を持つ鴨川つばめ氏が1977年にスタートさせたのが、「マカロニほうれん荘」です。

 


 

この作品、高校を舞台にした学園モノ…といってよいのかわかりませんが、

メインキャストは、

「沖田そうじ」16歳

クラスメイトかつ同じアパート「マカロニほうれん荘」の同居人である

「膝方歳三(ひざかたとしぞう)」25歳

「金藤日陽(きんどうにちよう)」40歳

 

高校学年モノで25歳と40歳という設定からしてオカシイのですが、落第を繰り返している同級生なのです。

 

この作品の面白さを活字で説明するのはムダな気がしますが、スピード感、筆致、元ネタなど詰め込まれた情報量が凄まじく、これまで見たことのないスタイル、まさに「スラップスティックの四次元殺法」という衝撃でした。

 

 


 

リアリティとファンタジー、劇画調とギャグタッチが見たことのないスピードで入れ替わりながら繰り広げられる世界観は、歌謡曲全盛のマンガ界にロック、パンクが登場したような衝撃であり、当時のチャンピオンの伝説の編集長、壁村氏以外全員連載に反対した、とも言われています。

 

特筆すべきは作画のセンス。扉絵は毎回アート作品でした。

 

そしてクルマや飛行機、戦車や軍艦などミリタリーを含めた乗り物のディテールもすさまじい画力でした。

同時期にジャンプ誌「すすめ!パイレーツ」でデビューした江口寿史氏とも触発し合い、会ったこともないのに互いにライバル視していたそうですし、どう見ても後年の鳥山明氏なども影響を受けたのではないかと思います。

 


 

そしてもう一つは「パロディ」という手法を取り入れた先進性でしょう。

第二次世界大戦、ナチスドイツとムッソリーニの話があるかと思えば、

学園紛争、ゴジラやウルトラマン、仮面ライダーなどの特撮、KISS、JAPAN、レッドツェッペリン、エアロスミス、矢沢永吉なんかが登場したり、文学作品や他のマンガ、つげ義春氏の「ねじ式」まで登場します。

 

幼少の私はなんのパロディかもわからないままに魅了され、「あぁこれが元ネタか」と後々、理解しました。(ミュージライフや音楽専科あたりをネタ元にしてたようです)

 


 

そしてサブキャストで登場する女子は揃って女子高生、女子大生ブームを先取りした洗練されたファッションに身を包んだ美少女達が画面に華を添えました。

 

コスプレやサブカルという概念もない時代に、そして泥臭かったギャグマンガというジャンルに、ポップでオシャレでカッコよく、そして少年誌なのにしっかりエロくて、実はラブコメ的な要素もあり、そしてそれがよりによって秋田書店の少年チャンピオンで、という点でも他に類を見ないエポックメイキング的な作品なワケですね。

 


●壮絶な最期

 

なにがすごいかといえばコレを若干20歳の若手作家が描いていた、という事実です。
この「マカロニほうれん荘」は爆発的大ヒット作となり、少年チャンピオンの発行部数を伸ばす原動力となりました。

 

単行本も売れまくり、鴨川つばめ先生は若き気鋭の天才作家として週刊連載を5本抱える人気作家、一時は日本ギャグマンガ界の頂点に君臨します。

 

しかし。

 

アシスタントを使わず、量産する巨匠マンガ家達を忌み嫌う、一切の妥協を許さない孤高のスタイルは長続きしませんでした。
睡眠も食事もとらず理想を追求するがあまりに徐々に精神が崩壊していきます。

 

後半は徐々に作風に変化が見られ、作者の苦悩がそのまま現れた「ガロ」のような話もたくさんあります。

 

当時の秋田書店、というより週刊マンガ誌の編集方針は「若手の原稿料はとにかく安く」。
そのため大ヒット中も経済的には困窮し、冬は暖房もなく「手があかぎれで腫れあがり、ミッキーマウスのようだった」そうです。

 

そして毎週毎週、「渾身の至高のギャグマンガ」を描き続けていくプレッシャーに心身とも疲れ果て、幾度となく「連載を終了させて欲しい」と編集サイドに打診しますが、聞き入れてもらえません。

鴨川先生は追い詰められた結果、マジックでペン入れ入稿するなどして抵抗し、渋々連載終了が認められ、「マカロニほうれん荘」は1979年に連載が終了、単行本は9巻で完結となりました。

 


 

▼当時を語る数少ない本人のコメント

「当時いちばん忙しい時は、週刊誌が月5本に増刊が月2、3本。その他に掲載誌の表紙も描いてた。だけど自分は酒井さんの最後の弟子だと思ってたから、どんなにキツくても手が抜けないんです。編集者は「アシスタント入れろ」っていうんだけど、僕にとってそれは手抜きなんです。コマの隅々にまで作者の主張がないと読者は共感できないですよ。だからほとんど全部一人で描いてました。」

3日徹夜なんてのはザラで、5日間ブツ通しで仕事したこともありましたね。市販の眠気覚ましのアンプルが手放せなかった。心腹がドーンとなる強い薬を大箱で買って、一日十本以上飲んでました。「マカロニ~」を描いてた時は、この作品と心中してもいいっていう気持ちでしたから。 」

「そんな生活ですからアウトプットばかりでインプットするヒマがない。だから「マカロニはうれん荘」には僕が20歳になるまでの10年間に得たものすべてを注ぎ込んだんです。それを3年間で使い果たした。連載が終わった時は、もうカラッポです。」

出典:週刊SPA! 1992年08月12/19合併号

 


 

その後、何度かのカムバックもかつての輝きは取り戻せず、徐々に執筆活動が減り、やがて一切の交流を断ち消息不明に。「鴨川つばめ」の名は伝説となりました。

 

1996年、大泉実成氏がQuick Japan誌で連載した『消えたマンガ家』シリーズでロングインタビューに応じ、同誌Vol.8でも『消えたマンガ家』の番外編として小山田圭吾氏との対談が収録されています。

 

当時、自ら大好きだったマンガを放棄した自責の念に苛まれ、机に向かおうとしただけで嘔吐したり、あらゆる宗教本を読み漁ったり、皿洗いやソー○ランド従業員などをこなして食いつないでいた、といった壮絶な日々を明かしました。しかしこれ以降「過去のことは振り返りたくない」としてマスコミ取材には一切応じておらず、作品のアニメ化や単行本未掲載作品の出版化などの依頼も全て断っているそうです。

 

本人曰く「ギャグ漫画家の才能は、神様が一生の中で、たった1本だけくれた鰹節のようなもの」

 


 

たった数年の活躍ながら彗星のように登場して消えたにも関わらず、ある世代の人達には鮮烈すぎる記憶を残した、という点で、鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」佐山サトル「初代タイガーマスク」とカブります。

 

そのスタイルがあまりに異次元過ぎて誰もが真似しようとしたが真似できなかった、という点においても。

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