「田宮二郎」 〜1960-70年代のクールでニヒルな二枚目俳優


PR


「昭和の二枚目俳優」といえば、私的にはなんといってもこの方、田宮二郎さんです。

1978年末、主演の人気ドラマ最終回直前に自宅で猟銃自殺、という衝撃的過ぎる最期を遂げ(享年43歳)、それから40年以上経った今でもたびたび「自殺の真相は?」と話題になる、伝説の名優です。

 

そんな氏の生涯を描いた書籍として「田宮二郎、壮絶!―いざ帰りなん、映画黄金の刻へ」(升本喜年 著 清流出版 2007年刊行)がオススメです。

松竹映画やテレビのプロデューサーであった氏が描く田宮二郎氏の生涯とは…

そんな訳で、今回は「田宮二郎さん」をご紹介します。

 


 

私が最初に田宮二郎さんを知ったのは「クイズ タイムショック」(テレビ朝日)の司会者、としてでした。

いつも細身のスーツを着こなし、英国紳士のようにクールでダンディ。微笑みながらユーモアを交え軽妙に司会をこなすスタイルは、当時のテレビ界、というより現代でも稀有なキャラクターでした。

 


 

田宮二郎さんは1935(昭和10)年生まれ。

 

1969年「クイズ タイムショック」初代司会者としてテレビへ進出以降、1972(昭和47)年からTBS系ドラマ「知らない同志」で主演、その後「白い影」「白い滑走路」などの白いシリーズや、山田太一さん脚本の名作「高原へいらっしゃい」など立て続けにヒットを飛ばし、テレビ俳優として確固たる地位を築いていました。

 

1970年生まれの私は年齢的にギリギリ、テレビ俳優としての活躍を知っている世代、ということになります。

 


 

●「白い巨塔」

 

そして1977年冬、かねてから映像化を希望していた山崎豊子さん原作の医療ドラマであり田宮二郎さんの代表作、遺作でもある「白い巨塔」を企画。このドラマの放送中、最終回の直前に、衝撃の自殺を遂げたのでした。

この「白い巨塔」は1966年、大映所属時代にも本人主演で映画化されており(山本薩夫監督)、このテレビドラマはその続編、主人公の財前五郎が病死するまでの物語でした。

自殺から9日後の1978年1月6日に放送された最終回は視聴率31.4%となり、それまで12〜3%台で推移していた視聴率が倍になる程、世間の話題となりました。それはそうですよね。人気絶頂の二枚目俳優が自宅で猟銃自殺、その9日後にその俳優が壮絶な死を遂げるドラマが放送されたのですから…。

 

当時8歳だった私は当然、リアルタイムでは観ていませんが、後年、映画版とテレビドラマ版を観ました。出世のためなら手段を選ばぬ外科医 財前五郎を演じる田宮二郎さんは映画、ドラマ共にハマり役としか言いようがなく、ラストの病死シーンは、文字通り鬼気迫るものがあります。

 


 

●銀幕スター時代

 

それから遡ること20数年前。田宮二郎さんは1955年に映画会社「大映」に入社、1957年に銀幕デビュー。

祖父は住友財閥の大番頭という名家の生まれでしたが、父親は田宮さんの生後4日目にプールで事故死、10歳の時には母親を肺結核で失います。

 

親戚の家から苦学して学習院大学政経学部に入学、その在学中の20歳の時、スポーツニッポン社主催「ミスターニッポンコンテスト」で優勝したのがきっかけでの芸能界入りでした。

 

その後、当時の大映社長 永田雅一氏がオーナーを兼務している大毎オリオンズの強打者、田宮謙次郎にあやかった「田宮二郎」を芸名とするなど、会社の期待を集める新星でした。

 


 

●大映の看板役者へ

 

この時期の代表作が、これまた伝説の名優、勝新太郎さんとコンビを組み、弟分を演じた「悪名」シリーズです。(1961年〜1968年)

加えて犬シリーズ、黒シリーズなどにも主演、若尾文子さんとのコンビで大映の看板俳優として活躍します。

 

中でも1966(昭和41)年、「白い巨塔」(山本薩夫監督、山崎豊子原作、大映作品)で演じた財前五郎が高い評価を受け、「昭和のクールガイ」と呼ばれました。

 


 

●大映追放事件

 

1968年、田宮さんは所属会社の大映を追放、映画界から干される、という憂き目に遭います。原因は、出演作「不信のとき」の宣伝ポスターの序列を巡る、オーナー永田雅一氏との衝突でした。

ポスターの自分の名前が女優陣より下の4番目であることに不満を抱いた田宮さんは「自分が主役」と強く抗議。これが永田氏の逆鱗に触れ、田宮さんは大映の契約を残したまま解雇されただけでなく、当時の5社協定(松竹 東宝 大映 東映 新東宝が1953年に締結した専属監督および俳優の引き抜き防止協定、後に日活が加わる)を盾にした「田宮を使うな」という他社への呼びかけにより、全日本映画界から完全に干されてしまいました。

 

この時期、田宮さんは家族を養うために舞台俳優、司会者、歌手として活動。ナイトクラブ、キャバレー回りなどの地方巡業もしていたそうです。

 


 

●テレビ司会者として復活

 

そして1969(昭和44)年1月、NET(現 テレビ朝日)系列でスタートした「クイズタイムショック」の初代司会を務め、さらには東京12チャンネル(現 テレビ東京)の音楽番組「田宮二郎ショー」で一躍、お茶の間の人気者となります。(1975年には別枠でご紹介した「力道山十三回忌追善大試合」の司会も務めています)

 

同年には大映との契約期間が終わり、東映の千葉真一主演「日本暗殺秘録」で映画界へカムバックを果たしますが、当時の邦画界は斜陽化が進み、1971年には古巣、大映が倒産。

 

田宮さんは1972年以降、TBSドラマ「白いシリーズ」(山口百恵「赤いシリーズ」との二枚看板)、さらにはコミカルな「高原へいらっしゃい」など立て続けにヒットを飛ばし、結果的に映画界から干され、司会業でテレビに進出していたことが功を奏して同期の映画スターに先んじて「テレビ界の花形スター」としての座を獲得します。

 


 

●事業への野望

 

この時期から「日本のハワード・ヒューズになる」と公言して政財界とも積極的に関わりを持つようになり、ゴルフ場やマンションの経営を行いますがことごとく失敗。

さらに1977年、日英合作映画「イエロー・ドッグ」(松竹)の製作も手がけ俳優として海外進出も目論見ますが不入りに終わり、多額の借金を抱えてしまいます。

 

この頃から次第に精神を病み、同年3月には精神科医の斎藤茂太氏(あの斎藤茂吉さんのご子息で著名な精神科医です)から「躁鬱病」と診断されて治療を始めています。

 

そして12月。田宮さんは躁状態となり、入れ込んでいた「白い巨塔」そっちのけで怪しげな事業に熱中。連日マスコミにスキャンダルが数多く報じられ、さらに多額の債務を抱えてしまいます。


 

●「白い巨塔」撮影の裏側

 

1978年3月。「白い巨塔」がクランクインを迎えます。田宮さんは事業熱が収まらないままでしたが、妻をプロデューサーに据え、原作者の山崎豊子さんとの交渉からロケ用の病院の手配など情熱を持って取り組み、6月の初回放送は視聴率18.6%と好調なスタートを切ります。

 

しかし、プライベートは執拗な債権取り立てを受け、妻とも躁鬱病の治療や土地の権利書を巡り、争いが絶えない日々でした。

 

ロケ現場でも「マツダのエンジンは世界一だ。それをロールスロイスのボディにつけて世界に売り出す会社を作る」「実は自分が打ち上げた人工衛星が今地球を回っている」「皇太子殿下と直接2時間お話しした」などの荒唐無稽な話をしたり、傍若無人に怒鳴る、不遜な態度を見せる、などの奇行が目立ち、スタッフは火消しに追われていたといわれます。

 

リハーサル期間中には突然「トンガの国王から油田開発の協力を求められて国賓として招待されている」と周囲の反対を振り切って渡航、あわや撮影中止になりかけたりもしたそうです。

 

7月末、撮影が18話まで終了したところで田宮さんは1ヶ月の休暇を取りイギリスへ渡ります。

 

9月初旬、帰国した田宮さんは渡英前とは一転して鬱状態に。9月中旬、後半収録が始まった際には泣き崩れる、台詞が頭に入らないなど、深刻な状態が続きます。

 

この時期、9年に渡って司会を務めてきた「クイズタイムショック」を体調不良を理由に降板(2代目司会者は山口崇さん)しています。

 

そして11月中旬、撮影はいよいよクランクアップを迎えました。

 

ラストの財前五郎が癌に侵され死を迎えるシーンでは、田宮さんは自ら遺書をしたため台本に加えさせ、3日間絶食をして、さらに吹き替えを断り遺体役として自らストレッチャーにも乗りました。

 

そうして描かれた最終回、田宮さんは「うまく死ねた」と自賛したといいます。

 


 

●猟銃による衝撃の自殺

 

1978(昭和53)年12月28日午後1時頃。当時夫人と2人の子供を青山のマンションに別居させて一人で住んでいた港区元麻布の自邸で、自ら猟銃の引き金を足の指で引き、左胸を撃ち抜いて自殺しているところを、付け人に発見されました。

この「猟銃を使った自殺」はかつて、田宮さんも出演した映画「華麗なる一族」(1974年、山崎豊子原作、山本薩夫監督の東宝作品)で仲代達矢さんが演じた主人公、万俵鉄平が自殺したやり方と同じです。(田宮さんはこの役を演じたがっていて、「俺の方がうまく死ねる」と語っていたとか)

そのため、私は長い間「田宮さんも(鉄平と同じく)口に銃口を咥えて足の指で引き金を引いた」と思い込んでいましたが、田宮さんは左胸を撃ち抜いており、死に顔は綺麗なままだったそうです。やはり天下の二枚目として、顔に傷をつける死に方はしなかった、のでしょうか。

 


 

●田宮二郎さんはなぜ自殺したのか?

 

死後、その原因を巡って週刊誌、ワイドショーなどで「M資金詐欺に引っかかった」「愛人である山本陽子にマンションを与え囲っていた」その他、さまざまなスキャンダルと共に書き立てられました。

 

そして死後40年が経過した後にも、妻、息子、そして当時の付き人らが、「これが真相」とさまざまな理由が語られています。

事業を巡る多額の借金、主演ドラマの視聴率競争への疲弊、イギリスで受けた植毛外科手術の後遺症などなど…

 

「白いシリーズ」も後期は視聴率が伸び悩み、TBSの専属が終わって躁鬱病の治療のため長期休暇に入ろうとしていたそうなのですが、起死回生を狙ったのか新興のフジテレビで、ライフワークとも言える「白い巨塔」の制作に挑んでしまった事も、死期を早める結果となりました。

 


 

●「白い影」と遺書

 

私は今回、「白いシリーズ」の皮切りとなった1973年「白い影」の最終回を観ました。渡辺淳一さん原作、倉本聰さん脚色。田宮さん演じる外科医と山本陽子さん演じる看護婦のラブロマンスに、「安楽死とヒューマニズム」という重いテーマを絡めた作品です。

そしてこの作品で田宮さんは多発性骨髄腫を苦に支笏湖に身を投げて自殺する外科医の主人公を演じていました。

 

ラスト近く、山本陽子演じる遺された恋人に宛てた遺書の朗読シーンがありますが、自身の美学というか、生き様と死に様を綴ったかなりエグい内容です。

 

本当の遺書も妻、息子達、二児の家庭教師、2人の弁護士、田宮企画顧問、奈良岡朋子さん、鬼沢慶一さん宛の8通あったと言われていますので、発作的ではなく、相当の覚悟の上での自殺であるのは間違いないでしょう。

 

最後に、妻宛の遺書の内容を転載します。これを読むと、「自ら死を選ぶ」という行為に酔っているような印象を持ちます。

 

さまざまな要因で行き詰まってしまい、「いかに生きるか」ではなく「いかに死ぬか」に全思考が向かってしまったのは残念としか言いようがありません。

 

事業にハマり、精神的に病んでからのスキャンダルや、エキセントリックな一面ばかりが取り上げられますが、残された作品の中の田宮二郎さんはひたすらカッコよくて、いまでは死語となった「ニヒル」がこれだけ似合う役者はほかにいないですね。

それだけでいいじゃないか、と思ってしまう程のキャラクターです。

 

役者という仕事に真摯に向き合い、どんな時も全力を尽くして臨む、生真面目で情熱的な人、というのが真の姿だったように思います。


 

●妻幸子(元女優 藤由紀子)さんに宛てた遺書。

 

「…12月1日の夜、青山のマンションから、僕が麻布に戻る時、『ひとり置いていかないで!』と幸子はいった。涙をふき乍ら、そう云った幸子の顔はいままでに見せたこともないものだった。『もちろんさ!』と僕は答えた。しかし心の中を見透かされた僕は、あなたの左手をぎゅっと握ることしかできなかった。

もう自分でもとめることはできないところへ来てしまった。生きることって苦しいことだね。死を覚悟するのはとても怖いことだよ。

43歳まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上のしあわせはないと自分でも思う。田宮二郎という俳優が少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ。そうは思わないか?

病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい」

 


ID:1497


PR


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です