マイトガイ「小林旭」伝説~①小林旭と石原裕次郎


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友人連中から「小林旭はいつ書くの」と言われて久しいのですが・・・

 

活躍した時代が1960年代と古すぎて、同世代で”アキラ”に思い入れのある方はほとんどいないでしょうし、主演映画も歌も膨大で、書き出したら収拾がつかなくなる予感しかなく、これまで避けて来ました(笑)。

 

しかしいつかは書こうと思っていましたので、勝手に満を持して書き始めてみようと思います。

 

第1回は、「映画スターとしてのアキラ~小林旭と石原裕次郎」についてです。

 


 

なぜに「小林旭」なのか

 

マスコミが取り上げる「昭和の大スター」というと決まって「石原裕次郎」と「美空ひばり」(たまに「勝新太郎」)ですが、私は「小林旭」派です。

 

メルセデスじゃなくてBMW、ロレックスじゃなくてオメガ。馬場じゃなくて猪木。
そして”タフガイ”裕次郎じゃなくて”マイトガイ”アキラ。

 

奇しくも、石原裕次郎さんの唯一のライバルであり、美空ひばりさんの生涯唯一のダンナでもあったお方です。

 

正真正銘の”昭和の大スター”でご存命なのはもはやこのお方くらいなのですが、過去も現在もいろいろありすぎて(笑)、歌番組くらいでしかお目にかかれません。

 

前述の通り、私の世代で「小林旭映画」を観てる人なんて皆無に近いと思いますが、私は一時期、かつての日活映画を観るためだけに「チャンネルNECO」に加入して、アキラ作品を150タイトル近く観て、ほぼすべてをDVDに焼きました(いつか再び観ることはあるのだろうか 笑)。

 

2004年には「芸能活動45周年リサイタル」(東京国際フォーラム)にも行きました。

”リサイタル”なんて言葉はアキラかジャイアンこと剛田武しか似合いません

 

何故にアキラなのか?―自分でもよくわかりませんが、なんだかやたらと気になる存在でした。

 

昔から、ギターを背負ってバイクに乗って、海辺で弾いてたりすると(←バカ)通りがかりの釣り人とか工事現場のオッチャンに「兄ちゃんコバヤシアキラみてぇだな」とからかわれたりして・・・。そして、実際にアキラ映画を観てみて、何故気になったのかがよくわかりました。

 

幼少期に「カッコイイな」と憧れた石ノ森ヒーロー、特に仮面ライダーV3の宮内洋さんの立ち回りが、小林旭さんソックリなのです。

 

考えてみれば石ノ森章太郎先生が描く悪と戦う孤独なヒーロー像も、キカイダーがギターを背負っているのも、元はといえば「小林旭」だったのです。(実は私はあまり観ていないのですが)「怪傑ズバット」なんてまんま、アキラのパロディです。

 

あまり言及されていない事実なのですが、いまに続くジャパニーズ ヒーローもの、の源流は「小林旭」なのです。

 

ついでといってはアレですが、同時代の石原裕次郎さん、急逝した赤木圭一郎さんの日活映画もかなりの数、観てみましたが、何かが違うんですね。ルックス、ファッション、アクションを含めて私が「カッコイイ」と思うのは、「アキラ」映画だけでした。

かつて赤坂の老舗キャバレーの店長から「お兄さん、赤木圭一郎みたいですね」とお世辞を言われたことがありましたが、私はアキラが好きなのです。*個人の感想です

 

とはいえ、小林旭さんが「大スター」だった時代は1960年代。私の生まれる10年前ですし、もはや60年前の「大昔」です。

 

1970年代(昭和45~55年)以降はイメージできますが、1960年代(昭和35~44年)の日本というのはなかなかイメージが湧きません。その時代のTVプログラムはモノクロのため再放送されませんでしたし、そもそも素材の現存すら危うい時代です。ある意味で戦中、戦前よりも謎です。

 

アキラ映画は、その時代の日本の風俗を知る点でも、非常に興味深かったのです。

 


 

日活と日本映画黄金時代

 

1950~60年代、年間の映画入場者数が毎年のように10億人を超え「日本映画の黄金時代」と呼ばれます。

東宝、松竹、大映、東映、日活の大手5社がそれぞれ年間に100タイトルを超える作品を封切りし、激しい興行戦争を繰り広げていた時代です。

 

中でも日活は「5社協定」で他社の映画俳優が使えないために新人のニューフェイスを数多く登用

石原慎太郎原作の映画『太陽の季節』(古川卓巳監督、1956年)の大ヒットを皮切りに若者向け青春映画、アクション映画を連発して一時代を築きました。

 

そこでの看板は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治による「日活ダイヤモンドライン」。

女優陣は中原早苗、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合による「日活パールライン」。

このほかにも宍戸錠、名和宏、長門裕之、二谷英明、岡田真澄、待田京介、川地民夫、葉山良二、笹森礼子、清水まゆみ、小高雄二、青山恭二、筑波久子ら人気俳優を抱えていました。

 

いま「大御所」と呼ばれる高橋英樹さん、中尾彬さん、渡哲也さん、藤竜也さんたちが「先輩」と呼ぶ世代です。

 


 

裕ちゃんとアキラの微妙な関係

 

小林旭さんは1938(昭和13)年生まれ。子役を経て第3期日活ニューフェイスに合格、1956(昭和31)年の映画「飢える魂」でデビュー

同年、「太陽の季節」の準主役でデビューした石原裕次郎さんは1934年(昭和9)年生まれですから、デビューは同期、年齢は裕次郎さんが上、芸歴は旭さんが上、という関係です。

 

これだけでもややこしいのですが、デビューから特別、破格の扱いを受けた石原裕次郎さんに比べ、小林旭さんのブレイクは1959(昭和34)年の「南国土佐を後にして」と、少し遅れを取りました。

2人の共演は1957(昭和32)年、川島雄三監督の名作「幕末太陽傳」、1958(昭和33)年の石原裕次郎主演「錆びたナイフ」くらいしかありませんが、いずれもアキラは端役でした。

 

その後、小林旭さんは一枚看板となり、「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」「暴れん坊シリーズ」「旋風児シリーズ」とヒット作を連発していきます。

そして1960、61(昭和35、6)年には興行成績、人気ともに石原裕次郎さんを超える活躍をみせます。主演作品の文字通り「すべて」が大ヒットし、自らが唄う主題歌のレコードも大ヒット。

 

 

しかしそれでも、それまで赤字続きだった日活をたった一人で黒字転換させた石原裕次郎さんの存在感は別格でした。

カレンダーの1月、お正月公開作品も常に裕次郎。
ギャラも制作費も別格、海外ロケも裕次郎だけ。

 

どんなに人気と売上の数字を示しても、「アキラは二番手」。
「最初からスターの裕次郎」と「大部屋出身で子飼いの旭」。

 

これは当時、誰が見てもそうでしたし、ご本人も納得するところだったようです。

これは大学野球より人気のなかった当時のプロ野球を一躍大人気スポーツに変えたミスター長嶋茂雄さんが、現役時代はどんな大記録を打ち立てても常に王貞治さんより上に見られていたことや、プロレスでいえばジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんの関係に非常に似ています。

ジャイアント馬場さんもことあるごとに「猪木をライバルと思ったことはない」と口にしていましたが、裕次郎さんもそうでした。

年齢差もあり「アキラはかわいい弟分」という感じで、よく一緒に飲みに行ったりしたそうですが、「常に運転主は自分だった」と小林旭さんは語っています。

 

人気が肉薄し、二枚看板になってからはスタッフも「裕次郎一家」と「渡り鳥一家」に分かれて旅行も海と山、宴会も鉢合わせにならないように気を使ったそうですが、当のお二人はバッタリ会えば「よぅ」と打ち解けて、一緒に遊んだのだとか。

 

この当時の有名なエピソードとして、

 

●両派に分かれて熱海で新年会。裕次郎組は海、旭組は山。予算が足りなくなると日活本社に電話すればアタッシュケースで現ナマが補給され遊び続けた

 

●2人がそれぞれものすごいクルマを買い、「どっちが速いか」という話になり、銀座の公道でレースすることに。警察官が交通整理して協力してくれて銀座中のホステスが応援に出てきた

 

●撮影の空き時間に裕次郎が突然「京都に行こう」と言いだしアキラ運転のクルマで京都へ。萬屋 錦之介や勝 新太郎らと合流して芸者総揚げで遊び、乗って行ったクルマを市中に乗り捨てて新幹線で帰京。クルマは翌日、映画会社の人が東京から取りに行った

 

などなど、今では考えられないような”伝説”がたくさんあります。
当時の「銀幕スタア」というのは、後の「テレビの人気者」とはスケールが違います。

 

山の手のボンボン、親分肌でソフトな人当たりの「裕ちゃん」はアクションもの、サラリーマンもの、文芸もの、などバラエティに富んだ単発作品で人気。

下町のアンちゃん、一匹狼で尖がりまくった「アキラ」はシリーズ物で獅子奮迅の活躍。

 

誰から見ても「トップスター」である石原裕次郎さんと、それに「負けてたまるか」と燃える小林旭さん。

 

この両雄の相乗効果が、日活黄金時代を築いたのでした。

つづきます!


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