70-80年代「ザ・ドリフターズ」伝説〜①結成から「8時だョ!全員集合」へ

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60年代に一世を風靡した「ハナ肇とクレージーキャッツ」の跡を継ぎ、1970〜80年代に大活躍したのが「ザ・ドリフターズ」

「8時だョ!全員集合」ドリフ大爆笑!」などのTVショーで展開したコント、笑いは、現代の日本のお笑いの原典と言えます。

今回はドリフの、意外と知らない創成期からの歴史を紹介します!

 

参考文献「だめだこりゃ」いかりや長介著 新潮社 2003)

 


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●寄せ集めのメンバー

 

意外なことに、ドリフはいかりやさんが作ったグループではありません。他のロカビリーバンドでベースを担当していたいかりやさんに、ドリフの前リーダー、桜井輝夫さんから「面倒みてよ」と誘いがかかり、気がつくと3代目リーダーに。当時のバンドはメンバー交代、引き抜きが日常茶飯事で、いかりやさんも初期のメンバーはよくわからないのだそうです。

 

ところが、いかりや新リーダーの厳しい指導とお笑い路線に反発した小野ヤスシさんらメンバー4人が反旗を翻して脱退(ドンキーカルテットを結成)

 

残ったのはいかりやさんと加藤茶さんだけになり、慌てて他のバンドからかき集めたのが、荒井注さん、高木ブーさん、仲本工事さん。オーナーだった桜井輝夫さんの取り計らいで渡辺プロダクションへの所属も決まります。

 

こうして1965(昭和40)年頃、紆余曲折を経て我々の知ってる「ドリフ」になりました。1966(昭和41)年春には事務所の先輩、憧れのクレージーキャッツのリーダー、ハナ肇さんから各自、芸名をつけられました

 

髙木ブー/荒井注/いかりや長介/加藤茶/仲本工事

 


●リーダーいかりや長介さんの戦略

 

慌ててメンバーをかき集めたため、ミュージシャンとしての腕前は「三流」、背丈も長身のいかりやさんを除いて「全員チビ」(いずれもいかりやさん評)。しかし、これが後のコントグループとしてのドリフの武器になっていきました。

 

いかりやさんは憧れのクレージーキャッツのような音楽センス溢れるギャグを諦め、「権力者である自分と、抑圧されるその他メンバー」という構図で、徹底して「アクションで生の観客(ジャズ喫茶)を笑わせる」ことに注力。手本にしたのは、戦後映画館で見た「アボットとコステロ」だったそうです。

 

TVにはいまのメンバーになる前の1962(昭和37)年から出演し、いくつかのレギュラー番組も持っていました。

 


●映画

 

ドリフの主演映画は1967(昭和47)年から1975(昭和50)年の間に、全部で21タイトル公開されました。

松竹系「全員集合!!」シリーズ全16作

東宝系が「ドリフターズですよ!」シリーズ全5作

 

松竹系の中盤以降は「男はつらいよ」シリーズと併映で公開されました。

 


●「8時だョ!全員集合」の挑戦〜vsコント55号

 

ドリフといえば、なんといっても「8時だョ!全員集合」(1969 昭和44-1985 昭和60年)です。

土曜8時のバラエティにドリフを抜擢したのは、TBSプロデューサーの居作昌果さん。ドリフは「大正テレビ寄席」などで人気があり、既に映画主演も務めていましたが、なにせ当時、土曜8時の裏番組には巨人戦ナイター(日本テレビ)、そして人気絶頂で日の出の勢いの萩本欽一さん、坂上二郎さんのコント55号(フジテレビ)がいる激戦区。

 

居作さんは「コント55号の持ち味であるスピード感とアドリブ力に対抗するには、いかりやさんの追求する時間をかけて練りに練り上げた笑いしかない」と考え、ドリフ起用を提案。しかし、TBS社内でもドリフ所属のナベプロからも「それならクレージーキャッツの方が良い」という声が多数だったとか。

 

それでも居作さんは、当時すでにクレージーキャッツがグループとしての活動が少なくなっていたこともあり、ドリフ起用をゴリ押し。さらにドリフの良さを引き出すには、劇場やホールでの公開生放送しかない、と企画を練りました。

 

居作さんに話を持ちかけられたいかりやさんは当初「コント55号に勝てないのでは」弱気だったそうですが「月とスッポンでもスッポンが月に勝てる」と言われてやる気になった、と語っています。

 


●「8時だョ!全員集合」

 

1969(昭和44)年10月4日スタート。

当初は、視聴率14%とそこそこでしたが、「サインはV」「キイハンター」などTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させる戦略が大当たりして視聴率25%に急上昇。

 

その後もアドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、長時間のリハーサルでカバーし、「土曜8時戦争」と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって圧倒しました。

 


●荒井注さん脱退間際、第一次絶頂期

 

1971(昭和46)年には視聴率が50%を超える「お化け番組」になり、最高潮を迎えたのは荒井注さんが脱退を宣言し、新メンバー志村けんさんが加わった1973(昭和48)年頃

荒井注さんの脱退について、いかりやさんは「荒井の人生観はわからない。ドリフで成功してこれから儲かる、という時期に金じゃない、忙しいのはいやだ、と辞めてしまった。荒井は文学とか好きだし、価値観が違うとしか言いようがない」と語っています。

 

荒井さんは辞めると決めてからも「志村が一人前になるまでは」と半年間共演。その間のドリフは6人編成でした。

 

「ジャンボマックス」「ちょっとだけよ」「カトちゃんのお巡りさん」「加藤vsすわしんじのブルースリー」「荒井のディス・イズ・ア・ペン」などが大ブームを巻き起こしました。

     

 


●放送休止とクレージーキャッツ

 

あまり知られていない事実として、1971(昭和46)年3月27日〜10月2日間の「番組一旦終了」があります。

これはドリフが同年4月25日から半年間、日本テレビで「日曜日だョ!ドリフターズ!!」出演することになったためでした。

4月3日から9月25日の間、この穴を埋めたのがハナ肇とクレージーキャッツで、「8時だョ!出発進行」

ナベプロだからできる荒技ですね。

 


 

いま、Amazonプライムで「8時だョ!全員集合」のいくつかを観ることができます。年次アトランダムにCMを除くほぼノーカットで、オープニングやコント構成の移り変わりを知ることができます。

 

つづく②では、志村けんさん加入後の「8時だョ!全員集合」の第二次黄金期以降について、ご紹介します!

 

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