「クィーン」とは何か?〜 1971-1995 “傾奇者“フレディとクィーンが日本で愛される理由

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映画「ボヘミアン ラプソディ」の大ヒットで、何度目かの大ブームに沸くクィーン。

今回はクィーンが日本で愛される理由とブレイクの経緯、そして彼らの足跡について年表形式で、リリースしたアルバム、チャートをまとめてご紹介します。

 


 

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●クィーンと日本「ミュージック ライフ」

 

「クィーンがどこよりも早く日本でブレイクした」「日本での異常フィーバーにメンバー自身が驚いた」というのは、よく語られる有名なエピソードです。

 

当時、クィーンはどのようにブレイクしたのか。その背景には「ミュージック ライフ」という雑誌の存在がありました。

 

クイーンは、レッド ツェッペリンやディープ パープルには間に合わなかった世代の、新しいロック スターでした。当時の人気投票ではレッド ツェッペリン、ELP、Yes、ピンク フロイドらが常連。…なかなかのめんどくさいラインナップです(笑)。

 

「女子供にロックはわからん」という理論がまかり通ってた時代、クイーンはよくも悪くも「ミーハーを惹きつけるわかりやすい魅力」に溢れていました。

 


 

●ルックスと少女マンガ

 

当時の「ミュージックライフ」編集長 東郷かおる子さんは、その魅力を次のように語っておられます。

「クイーンが出てきて、それから一気にファン層が若くなったんですよね。それまではまあ大学生くらいかな、男の子で、ギターをちょっとかじってるみたいな層ね、そういう子が多かったんだけれども、クイーンみたいなバンドが出てきてから一切そういうのは関係なし。とにかく「キャー!」っていう、いわゆる……揶揄した言い方をすれば、ミーハーが多くなったわけですよね。女の子のファンが一気に増えて、それまで市場にロック少年しかいなかったのが、一気にロック少女が誕生しちゃったわけです」

 

「1974年のファースト アルバム、「Liar」だったと思うんですけど向こうのレコード会社からプロモーション フィルムがきたんですよ。今から思うとすごいチンケな、だけどそれ見てなんかすごい日本人の女の子にウケる要素っていうのか、少女マンガ的な感覚を感じたんですね。これはよく言うんだけど、クイーンが日本であれだけ最初にボワッと火が付いたのって、日本の少女マンガ文化がものすごく影響してると思うんですよ。これアメリカの人とかイギリスの人とか、ましてや男性に言ってもね、理解してくれないんだけど。今でこそ少女マンガってひとつのジャンルとして確立されてますけど、当時はまったく相手にもされてないわけね。デヴィッド ボウイとか、いまで言うとボーイズラブ系のね。そういうものに女の子が刺激されるわけですよね。幼いセクシャリティが(笑)。で、クイーンはそこにハマったわけですよものすごく」

 

「ロジャーのルックスなんかもすごい可愛かったし、少女マンガ文化にクイーンがピタッとハマっちゃったわけですよ。そう思って聴くと音楽もカッコいいし。で、マンガの中にフレディが出てきたり、ロジャーが出てきたり、そういうものが広くいき渡っていって、すごく違和感なく女の子達に受け入れられちゃったんですね。むしろ男性は違和感あったと思うんですよ、あのルックス。「あんなヒラヒラしたやつ着て!」とかね(笑)。ギターはかっこいいけど、俺はクイーンが好きだとは言い出せない何かがある、人前で言っちゃみっともないぞ、みたいな。そういう部分があったんだけど、女の子はそういうギターの技術的なうんぬんかんぬんは全然関係なくて、自分の感性にハマったわけですよ」

 

東郷かおる子さんは取材対象のモット ザ フープルそっちのけでクィーンに入れ込みます。

 

「ワーナー パイオニアにも電話かけて、「クイーン最高! あれをやらないでどうするんだ」って。それから半年くらいして人気投票でいきなり1位になっちゃって、去年までランクの中に名前もなくて、半年前は5位か6位だったのがいきなり1位になっちゃったっていうね。そのぐらいの勢いがあったんですよ」

 


 

●ギター バンドとしての魅力

 

とはいえ、クィーンは決して音楽性が低いアイドル バンドだったワケではありません。しかし、そのあまりにユニークな立ち位置が理解されず、当時はまたアメリカではヒットしておらず、本国のイギリスでも(チャートNo.1を獲得しても)批評家筋からはキワモノ、ツェッペリンのパクリ、的な評価でした。

 

そのため、「名前は言えませんけど、高名な先生から「かおる子、なんであんなバンドを『ミュージック ライフ』でフィーチャーするんだ!」って怒られましたから。「アメリカでTOP100にも入ってない、イギリスでもなんだかわかんないって言われてるようなバンドを、なんでそんなにやるんだ」と随分怒られました。まあ馬耳東風でしたけどね」だそうです。

 

そして、男性層から音楽面で支持が集まったのがセカンド アルバム『クイーンII』だった、とのこと。

「セカンドで一挙にギター少年が「これは傑作だ!」って騒いだわけですよ。あれは非常に、こうギターをフィーチャーしてるし、初期のクイーンの中では本当によくできたアルバムですよね」

 

そしてクィーン、キッス、エアロスミスが「ミュージック ライフ 御三家」となっていきました。

「昔から日本って“御三家”が好きじゃないですか、徳川の御三家から始まって(笑)。アイドルでも女性だと“三人娘”、男性のほうも“新御三家”とか言って。ロック界でもそれをね、『ミュージック ライフ』の中だけでいいからできないかなって考えたわけですよ。そこで出てきたのがキッスとクイーンとエアロスミスだったんですよね。上手い具合に三つのバンドの年齢層がほぼ同じで。キャリアもだいたい同じ、だけど音楽性は全然違う。見た目も……クイーンは王子様で、エアロは不良で、キッスはわけわかんない魔法使いみたいな感じで。もう最高だったわけですよ!で、無理やり“ML三大バンド”って出したら、それが後に “70年代三大バンド”になっちゃったんですよね。70年代に人気あったバンドを言え!ってなったら、この三つが出てくると思うんです多分」

 

当時の背景が非常によくわかります。思えば私が最初にクィーンを認識したのは、「マカロニほうれん荘」だった気がします(少女マンガではなく少年マンガですが、ノリはまんま、「ミュージック ライフ」でした)。

>’70 伝説のギャグマンガ「マカロニほうれん荘」はコチラ

 


 

●なんでもアリのサービス精神

 

そしてここからは私論ですが、クィーンの日本での人気はもう一つ、キャッチーでドラマティックなメロディ ラインと、ありとあらゆるものを詰め込んで楽しませる「傾奇者」「サービス精神」「幕の内弁当的」なところ、だと思います。

 

サザン オールスターズがいまなおロックバンドとして正当な評価を受けていないのと同様に、ロック、特に洋楽の世界ではコード進行や構成はシンプルなものが好まれ、ド派手なウケ狙いやギミックは“商業主義“として後ろ指をさされる傾向にあります。

 

クィーンはおそらくはフレディのルーツなども関係して、そんなことはお構いなしに至れりつくせりで“驚かせて愉しませるサービス精神的なモノ”が、日本のリスナーの琴線に触れる部分ではないか、というのが私のクィーンの見方なのです。

 


 

●映画「ボヘミアンラプソディ」に見る、わかりやすさとサービス精神

 

大ヒットした映画「ボヘミアン ラプソディー」、史実としては時系列と異なる点がいくつかあります。LIVE AID前の活動休止や解散の危機、というのもやや大げさですし、なによりフレディがHIV感染を知ったのはあのLIVEからかなり経ってからです。

 

しかしながら、映画としてあの構成はわかりやすく、初めて観る層にはあの方がドラマティックです。そしてこの映画の監修は、メンバーのブライアン メイとロジャー テイラー。要はそんなことわかった上で、ああしたのです。

 

この辺りの「わかりやすさ、サービス精神」が、やっぱりフレディのクィーンらしいよな、と思うのです。


 

●クィーン年表

 

1971(昭和46)年

ギタリスト ブライアン メイ、ドラムステ ロジャー テイラー、ベーシスト ジョー ディーコン、そしてボーカリスト フレディ マーキュリーの4人による「クィーン」がライヴ活動を開始。

 

1973(昭和48)年

イギリスの大手レコード会社 EMI と契約。ロイ トーマス ベイカー共同プロデューサーによる1stアルバム『戦慄の王女(QUEEN)』をリリース。

 

1974(昭和49)年

2ndアルバム『クイーン II(QUEEN II)』をリリース。

初の全米ツアーを敢行。ただし、モット ザ フープルの前座として、でした(さらにブライアンが肝炎を発症して途中帰国)。

 

11月、3rdアルバム『シアー ハート アタック(SHEER HEART ATTACK)』リリース。先行シングル「キラー クイーン」がヒットし全英チャート2位に。

 

1975(昭和50)年

ヘッドライナーとして北米ツアー敢行。成田空港にファンが殺到した初来日公演はこの時期です。日本8公演(7都市)。

11月、4thアルバム『オペラ座の夜(A NIGHT AT THE OPERA)』をリリース。先行シングル「ボヘミアン ラプソディ」に続きアルバムも初の全英1位を獲得。50週にわたりチャート インし大ヒット作となります。

 

1976(昭和51)年

再び全米21都市のツアー後、3月にわずか11ヶ月ぶりの再来日公演。日本11公演(6都市)。

年末に5thアルバム『華麗なるレース(A DAY AT THE RACES)』をリリース。「愛にすべてを」「タイ ユア マザー ダウン」「手をとりあって」などシングル ヒットを連発し、アルバム 全英1位を獲得、24週連続チャート イン。

その後、数ヶ月間のワールド ツアーを敢行。

 

1977(昭和52)年

アメリカ、カナダ、ヨーロッパ各地を巡り初夏にワールド ツアー終了。

10月、6thアルバム『世界に捧ぐ(NEWS OF THE WORLD)』リリース。「伝説のチャンピオン」「ウィ ウィル ロック ユー」「永遠の翼」といったシングルを立て続けにヒットさせ、さらに人気を確実なものとして、ワールドツアーを敢行。

 

1978(昭和53)年

年末に7thアルバム『ジャズ(JAZZ)』リリース。(プロデューサーはデビュー作以来のロイ トーマス ベイカー)「ファット ボトムド ガールズ」「バイシクル レース」「ドント ストップ ミー ナウ」などがシングル カット。

1979(昭和56)年

日本15公演(8都市)。

 

1980(昭和55)年

8thアルバム『ザ ゲーム(THE GAME)』リリース。「愛という名の欲望」「セイヴ ミー」「プレイ ザ ゲーム」「地獄へ道づれ」などがシングル カット。ディスコ サウンドの「地獄へ道づれ」は米英でNo.1となるクィーン最大のヒット シングルとなりました。

そして年末には映画サントラ『フラッシュ ゴードン(FLASH GORDON)』をリリース。

 

この時期から、これまで決して使用しなかったシンセサイザーをフィーチャーしたサウンド メイクに変貌を遂げます。

 

1981(昭和56)年

2月に1979年以来、約2年ぶり4度目の来日公演。5公演(東京のみ)。その後、初の南米ツアーでアルゼンチン、ブラジル、ベネズエラなどを廻ります。

 

秋、デヴィッド ボウイとの共演「アンダー プレッシャー」をリリース。クイーンにとってイギリスのシングル チャートでは1975年「ボヘミアン ラプソディ」以来2度目の1位を獲得します。

 

1982(昭和57)年

5月、同曲を収録した9th アルバム『ホット・スペース(HOT SPACE)』リリース。シンセ ベースの「ボディ ランゲージ」、ホーン セクションを導入した「ステイング パワー」、「ラス パラブラス デ アモール(愛の言葉)」などがシングル カットされヒットしますが、アルバムのセールスは奮わず。

日本6公演(5都市)。

クィーン流ダンス、ブラック ミュージックがファンや批評家の間で賛否両論、というより否定的な意見が多く、方向性が迷走。各自のソロ思考も高まり活動休止となりました。

 

1984(昭和59)年

活動を再開したクィーンはシングル「RADIO GA GA」、10th アルバム『ザ・ワークス(THE WORKS)』をリリース。原点回帰したクィーン サウンドが復活し、「ブレイク フリー(自由への旅立ち)」「永遠の誓い」などシングルもヒット。

2日間で30万人を動員したブラジル 「ロック イン リオ」フェス出演。

 

1985(昭和60)年

活動休止中に制作していたフレディのソロ アルバム『Mr.バッド ガイ』リリース。「ボーン トゥ ラヴ ユー」は日本ではノエビア CMソングでおなじみの楽曲です。

 

5度目の来日公演を含むワールド ツアーを大盛況で終了。日本6公演(3都市)。

7月、ウェンブリースタジアムの「LIVE AID」に出演。全世界に“クィーン完全復活”を印象付ける、全出演者中で最多6曲による「伝説の21分」を行います。

 

1986(昭和61)年

6月、11thアルバム『カインド オブ マジック(A KIND OF MAGIC)』リリース。アルバムとしては1980年の『ザ ゲーム』以来となる全英NO.1を獲得。

その後のヨーロッパ ツアーではのべ100万人を超える観客を動員します。

 

中でも7月11日と12日にウェンブリー スタジアムで行われたライブは2日間で15万人を動員。クイーン史上最大規模にして最高のパフォーマンスと賞賛されます。

 

しかし、この時期にはクィーン内部の対立が深刻化し、修復不能な状況だったと言われます。そのため、このツアーがクィーンとしてのラスト ツアーとなってしまいました。しかしその後も各自がソロを行いつつ、バンド活動も緩やかに継続されました。

 

1989(平成元)年

5月、12thアルバム『ザ ミラクル(THE MIRACLE)』リリース。「アイ ウォント イット オール」「ブレイクスルー」などをシングル カット。活動休止明けで全英1位を獲得しますが、ツアーは行いませんでした。

フレディは1987年4月の後半には感染を認識していたとされ、メンバーに告白したのはこの1989年ごろ、と言われています。

 

1991(平成3)年

13thアルバム『イニュエンドゥ(Innuendo)』リリース。

フレディ存命中という意味において、事実上のクィーン ラスト アルバム。全英チャートNo.1獲得。 「イニュエンドゥ」「ショウ マスト ゴー オン」など5曲がシングル カット。

そしてそのリリースから10ヶ月後。

1991年11月24日、フレディ マーキュリーがHIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎のため死去。45歳没。

5月「輝ける日々」のミュージック ビデオが、フレディが生前最後に出演した映像作品となりました。

 

1992(平成4)年

4月20日 クイーンのメンバーが中心となり、イギリス ロンドンのウェンブリー スタジアムで「フレディ マーキュリー追悼コンサート」開催。メタリカ、エクストリーム、U2、デフ レパード、ボブ ゲルドフ、ガンズ アンド ローゼス、ロバート プラント、ポール ヤング、デヴィッド ボウイ、アニー レノックス、イアン ハンター、マック ロンソン、ジョージ マイケル、エルトン ジョン、ライザ ミネリらが出演しました。

 

1995(平成6)年

11月、『メイド イン ヘヴン(MADE IN HEAVEN)』リリース。生前にレコーディングされていたフレディの唄声にメンバーが演奏を付け、フレディ逝去から4年を経て発表されたラスト アルバム。全世界で累計2,000万枚以上を売上、クィーン最大のセールスとなっています。

 

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