「ジュリー 沢田研二」伝説〜シングル ヒストリー① 1971-1977

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今回は日本歌謡界の黄金時代を牽引したスーパースター、“ジュリー”沢田研二さんのシングル ヒストリー 1971-1985をご紹介。

ソロデビュー前の記述だけで盛りだくさんになり過ぎ(笑)、前/後編に分けてお送りします。

私は世代的に1960年代後半、グループサウンズ全盛期に「ザ・タイガース」のメインボーカルとして活躍された時代には間に合いませんでしたが、70年代〜80年代初頭にかけての怒涛の快進撃ぶりは、リアルタイムで体感しました。

 

「夜のヒットスタジオ」から「8時だよ全員集合!」まで、あの頃のテレビと芸能界は百花繚乱、文字通りの黄金時代でしたね。

 

「ジュリー」こと沢田 研二さんは、1948年6月25日生まれですから2018年で御年70歳。

ニックネーム“ジュリー”の由来は、「女優 ジュリー アンドリュースのファンだから」なのだそうです。

 


 

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■GS時代 1967-1971 (19-23歳)

 

ザ・タイガースのデビューは1967年2月5日。京都で内田裕也氏に見出され上京。渡辺プロダクションに所属します。

オリジナル メンバーは沢田研二さん(ボーカル/タンバリン)、岸部修三(現 一徳)さん(ベース/コーラス)、加橋かつみさん(ギター/ボーカル/コーラス)、森本太郎さん(ギター/コーラス)、瞳みのるさん(ドラムス)の5人。

68年の加橋さん脱退後、岸部シローさん(ギター/タンバリン/コーラス)が加入しました。

「シーサイド バウンド」「モナリザの微笑」「君だけに愛を」など、主にすぎやまこういちさん作曲によるヒット曲を連発してザ・スパイダースらと共にグループサウンズ (GS) ブームの頂点に君臨。

 

1968年3月10日「花の首飾り新曲発表会」が日本人初となる日本武道館コンサート、1968年8月12日 後楽園球場「真夏の夜の祭典」が日本初のスタジアム コンサートと言われています。

1969年3月1日、アメリカで最も権威ある音楽雑誌「ローリングストーン (Rolling Stone)」で日本人最初で最後の表紙に(隣にいるのは岸部シローさん!)。

1970年4月26日には日本万国博覧会EXPOホール 水上ステージにて「ザ タイガース ショー」が開催されました。

 

方向性を巡るメンバー間の衝突もあり1971年1月24日、日本武道館「ザ タイガース ビューティフル コンサート」で事実上の解散となります。

しかしながら。ザ タイガース最大のヒット曲はジュリーではなく加橋かつみさんがリードボーカルをとる「花の首飾り」(68万枚、7週連続オリコン1位)。これはジュリーにとって悔しく、後の大活躍の原動力にもつながったそうです。

 


 

■幻のビッグ プロジェクト PYG期 1971(23歳)

 

GSブームが終焉した1971年、元テンプターズの萩原健一さん(ショーケン)と大口広司さん、元スパイダースの井上堯之さんと大野克夫さん、それにタイガースの岸部修三(現 岸部一徳)さんと沢田研二さんが結成したニュー ロック バンドPYG(ニューロックとはブルースロック、ハードロックを指す当時の呼称です)。

歌謡曲ではない本格派の音楽性を志向しますが超メジャーな渡辺プロダクションがマネジメントを行ったことからロックファンの反発を買い、また、「ジュリーとショーケンの2大アイドル スターによるツインボーカル」がファン同士の衝突を生み、さらに1972年 ショーケンが「太陽にほえろ」で俳優としての評価が高まり多忙になったためショーケン不在時は「沢田研二と井上堯之バンド」として活動するように。これが後のスタイルの源流となります(井上堯之バンドの代表作「太陽にほえろ!メインテーマ」やサウンドトラックも「PYG」名義でレコーディングされています)。

 

その後、バンドとしては1枚のオリジナル アルバムと5枚のシングルで自然消滅しますが正式に解散はしておらず、ジュリー、ショーケン共に当初は「あくまでもPYGのソロ活動(本籍地はPYG)」という意識だったようです。

 


 

■ソロデビュー 黎明期1971-1973(23-25歳)

 

1971.11.01 君をのせて 10.3万
1972.03.10 許されない愛 35.3万
1972.06.25 あなただけでいい 24.1万
1972.09.25 死んでもいい 17.2万
1973.01.01 あなたへの愛 22.5万

 

ときて、6枚目のシングル

1973.04.21 危険なふたり 65.1万

が大ヒット。ソロ初のオリコン1位、第4回日本歌謡大賞を受賞します。

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ソロデビュー曲の「君をのせて」作詞 岩谷時子さん、作曲 宮川泰さん。当時のセールスは奮いませんでしたが、これが素晴らしい名曲として後年、高い評価を受けています。

 


 

■フランス、ヨーロッパ遠征 1974-1975(26-27歳)

 

1973.08.10 胸いっぱいの悲しみ 25.6万
1973.11.21 魅せられた夜 34.5万
1974.03.21 恋は邪魔もの 27.4万
1974.07.10 追憶 57.9万
1974.11.21 愛の逃亡者 19.1万
1975.03.01 白い部屋 21.8万
1975.05.21 巴里にひとり 20.3万

 

この頃、1974年1月にフランスに渡りMIDEM(カンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)参加を皮切りにロンドンで12曲、フランスで3曲をレコーディング。

 

そして1975年1月、イギリスでシングル「The Fugitive(愛の逃亡者)」と同タイトルのアルバム、フランスでシングル「Mon amour, je viens du bout du monde」をリリースし海外デビューを果たしました。

本作はラジオのチャート番組で最高第4位を獲得、フランス国内で20万枚のヒット作となり、スイス、カナダ、オーストリア、ギリシャ、ノルウェー、ベルギー、オランダなどヨーロッパ他各国でリリースされています(「巴里にひとり」はその楽曲の日本語詞バージョンなのです)。

 

ご本人曰く、この海外進出は「日本での宣伝のため」「箔付けのため」なのだそうですが…充分すぎる成果ですし、この時期のジュリーの英語、仏語詞楽曲は素晴らしい名曲揃いなので是非聴いてみてください。

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■「悪魔のようなあいつ」1975 (27歳)

 

1975.08.21 時の過ぎゆくままに 91.6万

 

主演TBSドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌で、キャリア最大のセールス楽曲となりました。

このドラマは「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」など超人気ドラマの仕掛人であったTBSの演出家 久世光彦さんがジュリーに惚れ込み、その魅力を最大限に訴求すべく原作 阿久悠さん、脚本 長谷川和彦さん、音楽 井上尭之さんと大野克夫さん、さらに漫画版担当 上村一夫さんらと総力を結集したプロジェクトでした。

 

久世さんはこの楽曲について「阿久悠と相談して、まず“時の過ぎゆくままに”というタイトルをハンフリー ボガードの映画『カサブランカ』の“As time goes by”からいただいた。そして出来上がった詞を6人の作曲家に渡してそれぞれ曲をつけてもらい、阿久悠と二人で一晩聴き比べて大野克夫のものを選ばせてもらった。」と語っています。

 

ドラマは三億円事件をテーマに、難病で死が迫る主人公の刹那的な生き様を描く怪作。男色に近親相姦と過激な内容で熱狂的なファンの多いカルト的な作品です。

 

私は長年このドラマが観たくて仕方なかったのですがなかなかレンタルなどになく、つい最近、Amazonプライムで観ることができました。

 

藤竜也さん、篠ヒロコさん、若山富三郎さんなどの豪華競演陣も含め、見所だらけです。

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■謹慎そして覚醒 1976 (28歳)

 

1976.01.21 立ちどまるなふりむくな 16.5万
1976.05.01 ウィンクでさよなら16.1万
1976.09.10 コバルトの季節の中で 23.2万

この時期、2度の暴行事件(いずれも新幹線でのトラブル)を起こし謹慎、賞レースや紅白歌合戦を辞退。この謹慎明けとなる

 

1977.02.01 さよならをいう気もない 21.5万

で、なんと金色のキャミソール姿で歌番組に登場。デビューからのスタイリスト 早川タケジ氏による過激なヴィジュアル路線が本格的にスタートしました。

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ご本人作詞作曲の「コバルトの季節の中で」も名曲です。

 

 

後半はいよいよ、「勝手にしやがれ」での大ブレイクからお送りします!

つづく

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    拝啓 サイトヘッド様には猛暑の中よろしくお願いいたします。
    *「新御三家よりも格好良かった男=沢田研二」
     新御三家「ゴロー ヒデキ ヒロミ」は圧倒的に異性=女性のファンが大半ほとんどであったのに対して「沢田研二は、同性=男性ファンもかなり多く居た」のが特徴でした。今日の「肥えて異様な風体?」になってしまった沢田研二は正直信じられません。何より1970年代初期のソロデビューから「完全にJpop=はっきり言えば歌謡曲」を歌うようになり、しかしバックの作詞作曲編曲者たちが超一流ばかり、、、特に「ゆるされない愛 あなたへの愛 危険な二人 胸いっぱいの悲しみ」等の連続大ヒットはまさに「作詞=山上路夫 安井かずみ 作曲=加瀬邦彦 編曲=東海林修」と言う物凄いベストメンバーで、通常の通称歌謡曲等とはレベルが違っていましたね。特にこの当時「ゆるされない愛 胸いっぱいの悲しみ」等は海外レコーディングであり、今は無きロンドンオリンピックスタジオで行われました。確かにこの2曲を聴きますとまず「サウンドの質が全く異なり、当時の日本国内のレコーディングの音とは全く異なっていて、何か異様に太く力強く聴こえた」のです。証拠保全として後に1980年代初期に沢田研二は、レコーディング雑誌のインタヴューで「海外録音は確かに音が素晴らしいが、カッティングを国内で行うと何かあまり変わらない」とさすがにプロとしての「解っている」感想を述べていますが、、、この当時「録音は海外でもアナログレコードのカッティングは日本」でした。当時から日本は「カッティングレベルが低い」と言われ難しい問題を抱えておりましたね。このロンドンオリンピックスタジオはその後長く活躍したがEMI合併の際に終わりました。此処のオリジナルフルカスタムのコンソールが後に「ヘリオス」として世界的な名器となり今日相当高額で取引されています。この「胸いっぱいの悲しみ」はアレンジが現地の「ハリーロビンソン」を起用し、Jpopの雰囲気を残しつつ非常に雰囲気の在る見事なサウンドを創ってくれましたね。驚いたのは「セットドラムスやティンパニー、サイドギターや弦の鳴り方が全然違う」=オンマイクながらとにかく音が生々しくて太いのです。また「危険な二人」こそ海外でも知られる天才と言われた東海林修氏の手による最高の傑作で、吠えながら鳴く様なEギターのイントロ、薄く流れるが重要な弦、渇きに乾いたセットドラムス、隠し味のハモンド&レスリー等など素晴らしいアレンジとレコーディングで、ケニーウッドオケも本当に上手かった(このケニーウッドオケは、一説には東海林修氏が組織したとか、森岡賢一郎氏が組織したとかいろいろ言われますが、一般的にはどこそこレコーディングオケなんてのは元々存在せずに、アレンジャーなりプロデューサーなりお気に入りの息のかかったミュージシャンが結集する臨時のオケであり、常設の物ではありません。このケニーはかなり以前からキング、ポリドール等でも活躍していました) 更にバッキングでは「ザ井上バンド」が実力が在り人気でした。ギターの井上堯之さん中心の4人編成」と言われますが、この場合「Eリードギターがメインでサイド&リズムギターがありません。此のパートをキーボードが補うので本来は5人編成」が理想でしょう。沢田研二のバックバンドを担当していましたが、後半は大野克夫さん等も関係していた様で凄いメンバーぞろいであり人気がありましたね。この「ザ井上バンドがバッキングすると、ちょっとした下手なオケの伴奏よりも良く聴こえた」のが不思議でした。こんな物凄いメンバーが集まってくるのはやはり沢田研二が如何に凄かったかが証明されますね。なお当時沢田研二が若くして年上のワイフと結婚したのは、当時海外で成功しヒットを収めるには「どういう理由か結婚している事がある種の絶対条件」の様な事がまことしやかに囁かれていた変な?時代でした。今日ならパワーハラスメントに近い行為でしょう。また不幸にして後年離別する事の理由に「年上ワイフの芸術的音楽的干渉があった」と聞き及びます。こういう事を沢田研二は嫌っていた様でした。なお当時知る人は知っていた様ですが「目黒区大橋に在った旧ポリドールレコードの、1stは沢田研二が作り、2stは野口五郎が作った」と言われる程この二人はポリドールレコードを儲けさせた様です。
    なお後年、1990年代初期、自分が機材を多数買っていた都内の某社にAと言う敏腕営業マンがおりまして自分も担当してもらっていました。このAは当時「東海林修氏 田中正史氏 野口五郎さん 大野克夫さん 井上堯之さん」等などそうそうたる顧客を抱え、何かと話せる範囲で色々聞かせてもらいましたが、皆さん大半亡くなられてしまいましたね。
    確かに「沢田研二の歌は正直歌謡曲」でしたが、レベルが異なり何から何まで違っていた事だけは確かでしたし良い時代でした。  敬具

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。「ゆるされない愛」「あなたへの愛」「危険な二人」「胸いっぱいの悲しみ」など、「勝手にしやがれ」前夜の楽曲の、異様なクオリティの高さが長年謎だったのですが、その理由がよくわかりました!ありがとうございます。

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