60年代の「ハナ肇とクレージーキャッツ」〜②音楽編 抱腹絶倒なコメディソング集

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「ハナ肇とクレージーキャッツ」①TV・映画編に続いては、音楽編です!

 

ハナ肇とクレイジーキャッツの大ブレイクは、植木等さんの唄う「スーダラ節」の大ヒットから始まりました。

そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」と立て続けにヒットを連発。

クレージーキャッツはTVに映画、レコードに舞台、と八面六臂の大活躍で、1960年代に一世を風靡していきました。

 


 

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●青島&萩原コンビ+渡辺晋トリオの戦略

 

これらの楽曲は作詞:青島幸男、作/編曲:萩原哲晶コンビと、ゼネラルプロデューサーが渡辺プロダクション創始者、渡邊晋社長が創り上げた世界観でした。

 

青島幸雄さんは、クレージーが出演する月〜金曜の昼の帯番組「おとなの漫画」から構成作家を務める「座付き作家」。青島さん曰く、プロデューサーである渡辺晋さんとの打ち合わせで「実力派ミュージシャンとして良い歌を作るか、割り切って売れる歌を作るか?」と話し合い、「バンバン売れる歌を作りましょう!それも、PTAのおばさまがガタガタ騒ぎ出すような、バカな歌をやりましょう!と決まった」と語っています。

 


 

●植木等と「スーダラ節」

 

1961年8月20日発売の1stシングル。

 

クレージーキャッツのヒット曲の多くでメインボーカルを務める植木等さんは、真面目な性格で見た目も色男。ジャズギタリストとしても一流でしたが、ステージに登場するだけで「なんとも言えないおかしさ」がありました。真面目なのかふざけているのかわからない、カタブツかと思いきやとんでもなくお調子者で、日本にはこれまでいなかったタイプの、スマートなコメディアンでした。

 

青島・萩原コンビはこのキャラクターを活かし、機嫌が良いときの植木さんの意味不明な口グセ「スイスイスイ」「スンダラダッタ」から「スーダラ節」を生み出します。チンドン屋のような奇想天外な楽曲と、サラリーマンの悲哀を面白おかしく描いた歌詞、「わかっちゃいるけどやめられない」の決めゼリフ。

 

レコーディング時から参加ミュージシャンやスタッフが笑い転げ、録音に苦労する程の“強烈な面白さ”に私は、小学生当時ラジオで初めて聴いて衝撃を受けました(どちらかといえば「ハイそれまでョ」の方が衝撃でしたけど)

 

後にたびたび再評価、CMなどで今だに使われており、発表から50年が経過した現代の若者が聴いてもなんだか笑ってしまう、“普遍的な面白さ“があります。

 

この後の“クレージー時代”は、この楽曲から始まりました。

 


 

●「ドント節/五万節」

 

続く2ndシングルは、植木等が唄う「ドント節」と、ハナ肇、谷啓、植木等とリレー式に唄う「五万節」のカップリングです。

 

「ドント節」

サラリーマンは
気楽な稼業ときたもんだ

 

「五万節」

植木等が唄う3番タクシー運転手、6番ヤクザの大幹部の歌詞にクレームが付き、民放連の自主規制でお蔵入りに。再度レコーディングし直し、翌年の1月20日に再リリースされました。

▼オリジナルバージョン

 


 

● 無責任一代男/ハイそれまでョ」

 

3rdシングルは「無責任一代男/ハイそれまでョ」のカップリング。1962年7月20日に発売されました。

 

「無責任一代男」

おれは この世で一番
無責任と言われた男
ガキの頃から調子よく
楽してもうけるスタイル

人生で大事な事は
タイミングにC調に無責任
とかくこの世は無責任
こつこつやる奴はごくろうさん

 

タモリさんはこの歌詞に衝撃を受け「多大なる影響を受けた」と語っています。

 


 

「ハイそれまでョ」

 

作曲の萩原哲章さんは「植木さんていうのは、もともとマトモな歌を勉強してきて、多少はそういうのもやりたい。でも、それだけでは植木の存在理由がなんにもないので後で崩そう。ドカンと早くなったら面白い、というアイデアが彼のほうから出てきたわけです。僕はそこであえて、当時のフランク永井のヒット曲、吉田正先生のメロディーをモデルにして、とにかく最初は、一見それ風でいこうと。で、突如変わるところは、当時としてはツイストしか考えられなかった」

 


 

● これが男の生きる道/ショボクレ人生

 

1962年12月20日発売の4thシングル。

 

「これが男の生きる道」

ぐちは云うまい こぼすまい
これが男の 生きる道
あゝわびしいナアー

 

「ショボクレ人生」

みっともないから およしなさい
もっとでかい事 なぜ出来ぬ
ショボクレた事 すんなこの野郎

 


 

●「いろいろ節/ホンダラ行進曲」

 

1963年4月20日発売の5thシングル。メインボーカルはハナ肇、植木等、谷啓の3人。

 

「いろいろ節」

いろいろあるよ いろいろね
ハー そんなこたあ どうでもいいじゃねえか

 

「ホンダラ行進曲」

どうせこの世は ホンダラダホイホイ
だからみんなで ホンダラダホイホイ

作詞を担当した青島幸雄さん曰く「実は一番好きな歌」。クレージーマニアで知られる大滝詠一さんも最高傑作に挙げています。

 


 

●「馬鹿は死んでも直らない」

1964年6月20日発売の9thシングル。

 

バカにバカ足しゃバカばかり
バカからバカ引きゃうすらバカ

 


 

●「だまって俺についてこい」

 

1964年11月14日発売の11thシングル。

 

ぜにのないやつぁ 俺んとこへこい
俺もないけど 心配すんな
みろよ 青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう

 


 

●「植木等」とは何か?

 

こうした名曲の数々で、一躍時代のヒーロー 、国民的人気者になった植木等さん。

小林信彦さんは「植木等とは色悪(歌舞伎の役柄で外見は二枚目で性根は悪人のこと)である」と分析しています。善良な人をいじめる悪人ではなく、アナーキーでパンキッシュな悪役。

しかし、映画でのキャラクターは人気者になるにつれて「無責任な自由人」から「根っから善人のスーパーマン」に変化させられ、当初の色悪-ピカロ(悪漢)としての魅力がなくなってしまいました。

 

しかし、青島幸雄さんの描く楽曲の中の植木等さんはやっぱりどこまでもピカロ(悪漢)。世間の常識や権威を鼻で笑い、無責任で痛快で、それでいて実に哲学的。どの楽曲も、人生の真理とも言える言葉を、徹底してふざけて唄っています。

それが、50年経った今でもなお愛される理由ではないでしょうか。

 

次回からはハナ肇とクレージーキャッツの後継であり弟分、「1970-80年代のザ・ドリフターズ」をご紹介します!

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    拝啓 サイトヘッド様にはよろしくお願いいたします。
    このサイト様のフィールドの広大さと各スレッドの深さに驚かされ、汲めども尽きぬ泉の様に襲い来る良質の素材に、感謝しながら書かせて頂きます。
    *「すべての主役は音楽=萩原哲晶先生の物凄い底力」
     これに尽きると確信いたします。つまり「幾ら時代が良くて求められても、プロデューサーやプランナー、アーティストが優れていても、肝心要の音楽が悪ければどうしようも無い」と。自分が「萩原哲晶先生のお名前を初めて知ったのは、小学1年の頃 アニメの8マン」でした。4歳のミッション系幼稚園からピアノ教育を受け音楽は大好きだった自分の心に、物凄い勢いで飛び込んできたのが「8マン主題歌 作詞=前田武彦 作編曲=萩原哲晶」と。とにかく興奮エキサイトしましたね。当時アニメ主題歌は圧倒的に「三木トリロー氏のグループに占領占拠ほぼ独占」されており、これは現在でも僅かですがアニメやCM等の分野で影響力が残る程ですが、この8マンは違っていた、、、鉄腕アトム同様に全く新しい感覚のテーマ曲であり、若かりし克巳しげるのトランペットの様な美声を活かしきり、低音からオクターヴ上までビンビン音が吹っ飛び興奮を掻き立てるその輝くようなメロディー、更に伴奏 アレンジオーケストレーションはかなりの大編成に弦、ティンパニー、ピアノに加え男性バッキングコーラス、何と言っても2コーラスと3コーラスの間の間奏が、泣けてくる程凄い。突然マイナー単調に変わり最後の1音で突然メジャー長調に引き戻すテクニックには泣けました。本家オリジナルは「東芝 ソノラマシート」でしたが、カバーで「ビクター ヴォーカルエイト版」も全く別の意味でオリジナルより物凄いアレンジと迫力には眠れませんでした。さすがに萩原先生は芸大出の超エリートであり、クラシックの基礎を完全に身に付けられ。あえて純音楽の道に進まずエンタメ業界に身を置かれ、出てくる音楽は駄作が無い。「かみなり坊やピッカリビー、ファイトだピュー太、冒険少年シンドバッド」等など、歴史に残る大傑作を連発し、自分も大好きで尊敬しています。メロももちろんアレンジオーケストレーションの見事さ素晴らしさは他の作家の方とは全然違い、独自の音楽世界を構築したのです。特にブラスの音の重ね方や打楽器の鳴らし方、弦の使い方等勉強しましたね。この後「クレージーキャッツ等の音楽を担当される」事になりますが、此処で一番大切なのは、大変申し訳ないが「青島幸男の詩なんてぇ全然問題にならない、プロの作詞家から比べれば問題にならない低レベル」なのです。その証拠に脚本らしきものを書かせても「台本?には、後はよろしく」等適当にアドリブに任せるというのが多かった。これはもうクレイジーキャッツのメンバーが物凄い才能実力の持ち主であり、そういったアドリブもこなせたから出来たのであり青島の力では決して無い。此処を世は解らねばならない。現実に「明日があるさ」等の名曲も、「中村八大氏」と言う物凄い才能実力ある作曲家の素晴らしいメロディーがあったからこそ、大した事も無い詩に生命が与えられたのです。この例程「音楽が大切だ」と言う事を徹底的に思い知らされる例はありません。音楽、音楽こそ主役なのですね。上記の「数々のヒット曲」も、当然他の作曲家の方の作曲では到底これほどの大ヒットにはならなかった。何故ならこういったコミックソング等の作曲は「かなりの遊び心」が必要で、どうも萩原先生はも遊びの方でもかなりの方だったらしく良い意味で音楽の方にも活かされたのでしょう。
    唯大変残念なのは、この大ヒットの後「萩原哲晶先生には、不本意な色」がつけられてしまい、その後の仕事が大きく制約されてしまい不遇の時を迎えてしまうのは本当に悲しく悔しく、これだけの大家を埋もれさせてしまい、大変不幸な短い生涯を閉じられてしまった事はもう悔しくて悔しくて「責任者 出てこんかいっ」と。しかし萩原哲晶先生の音楽は不滅であり我々の心に永く残ります。  敬具

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。クレイジーはとかく青島幸雄さんの仕事ぶりばかり取り上げられますが、萩原哲晶さんの貢献も大きかったのですね。

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