YMO 1978〜 世界を席巻したテクノユニット~「なんとなくしか知らない」人向け解説

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YMO イエローマジックオーケストラ

 

一般的な認知は、

・メンバーは細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏
・日本だけじゃなく世界的なバンド(ユニット)
・テクノの元祖?
・アルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」
・「ライディーン」「メトロポリス」etc…

 

てなところでしょうか(不安)。

最初に言っておきますが、私はリアルタイム世代でありながら、社会現象までに騒がれたYMOについて、まったく詳しくありません。

 

それでも、もちろん、なんとなく、よく知っている。YMOはそんな存在でした。

 

中学でも高校でも、周りには熱狂的なファンというかマニアがいました。

 

いくつかのアルバムやライブビデオは聴いたり観たりはしています。

 

スネークマンショーや江口寿史氏のマンガやひょうきん族など、当時のポップカルチャーにもよく露出していたので目にしています。

 

でも、ホントのところは、よく知らないのです。

 

何故なのか、我ながら不思議です。

 

気がついたら、あちこちで騒がれ、評価され、ものすごく大きな存在になっていた彼ら。

 

単なる音楽ユニットとしてだけでなく、さまざまなカルチャー運動のようなイメージがあります。

 

そして、いまさら「知らない」とは言えない存在感がありました。

 

おそらくはお三方の思考が高尚過ぎて(今でいう意識高杉)、ついていけてなかったのだろうと思います。

 

今回はそんな私が無謀にも、「YMOって何なの?」について述べてみたいと思います。深過ぎるマニアな方はご遠慮ください(笑)。

 

 


◆YMOのメンバー

 

細野晴臣(ベース・シンセサイザー・ボーカル)

高橋幸宏(ドラムス・ボーカル)

坂本龍一(キーボード・シンセサイザー・ボーカル)

 


◆細野晴臣さんが首謀者

 

伝説のバンド「はっぴいえんど」解散後、細野さんはソロとして活動していました。嗜好としてはチャイナ、トロピカルを融合した「ソイソース・ミュージック」。

 

しかし、2枚のソロアルバムはいずれもヒットはせず、アルファレコードのプロデューサーとして活動を開始。その中で音楽ビジネスに興味を持ち「ビジネス的な成功=ヒットするユニット結成」を模索。

 

そして、所属するセッションバンド「ティンパン・アレー」林立夫氏、佐藤博氏に女性ボーカルを加えるプランを画策します。

 

しかし、メンバーが都合により参加できなくなり、その結果、高橋幸宏さん、坂本龍一さんに声をかけて…という流れのようです。

 

坂本龍一さんは東京芸大音響研究所を卒業後、リリィのサポート・バンドに参加、「ティンパン・アレー」の準メンバーでもありました。

 

高橋幸宏さんはこれまた伝説の「サディスティック・ミカ・バンド」解散後、高中正義氏、後藤次利氏、今井裕氏と「サディスティックス」として活動中でした。

 


◆YMO 結成、そのコンセプト

 

1975年、細野さんは自らのソロアルバムのレコーディングに参加した2人を自宅に招き、3人でこたつでおにぎりを食べながらミーティング。細野さんの提唱するコンセプトに2人も共鳴して、「YMO」が結成されます。

 

細野さんのコンセプトは「マーティンデニーの『ファイヤークラッカー』をコンピューターを使いエレクトリック・チャンキー・ディスコ風にやる。目標はアメリカで400万枚」だったそうです。

 

細野さんはプロデュースした、あがた森魚さんのアルバム「日本少年」でコンピュータサウンドを試みていました。

 

当時、すでにドイツの「タンジェリンドリーム」「クラフトワーク」イギリスの「EL&P」や日本の冨田勲さんなどがシンセサイザーミュージックを行なっていました。

 

細野さんはその追従ではなく、「コンピュータを使いつつ、無機質だけではなくグルーヴを出す」さらに「人が演奏しながら、無機質さを貫く」という、誰もやっていないところを目指します。

 

前人未到のこの難題をクリアするには、セッション・ミュージシャンとしての確かな腕が必要で、高橋幸宏さん、坂本龍一さんとなら実現できる、と考えたのでしょう。

 

もう一つのコンセプトは「西洋が見た日本」。バンド名にある「イエローマジック」とは、白人音楽、善玉の「白魔術」と、黒人音楽、悪玉の「黒魔術」のどちらでもない黄色人種としてのアイデンティティを表し、昔のハリウッド映画に出てくる、誤解された日本像をセルフパロディ的にやる、というアイロニカルなものでした。

 

あのもみあげのないテクノカット、真っ赤な人民服(実は明治時代のスキー服モチーフなのだそう)は、そういったコンセプトから生まれたようです。

 

ライブでもボコーダー越しにしか声を出さず、声援に応えることなく黙々と、コンピュータに制御された、抑圧されたかのような演奏スタイルは、そういったセルフパロディ、アイロニーの延長なのかもしれません。

 


◆YMO デビュー

 

1978年11月25日、デビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」をアルファレコードより発売。

 

アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、結成当初から海外市場を視野に入れていました。

 

アルバムは北米市場向けにリミックスされ、一部、吉田美奈子さんのボーカルが加えられて発売。こちらはテクノよりフュージョン、ディスコに近いアプローチだったようです。

コンセプトからして海外受けを狙っただけあってオファーが続き、渡辺香津美さん、矢野顕子さん、そして松武秀樹さんを加えたメンバーでライブツアーを行いました。

 


◆幻のメンバー横尾忠則さん

 

YMO結成前、細野さんはこれまた伝説のイラストレーター、横尾忠則さんと共同プロデュースアルバム「コチンの月」を発表(1978年)。

 

細野さんは横尾さんをスピリチュアルアドバイザーとしてYMOへの参加を依頼。

 

デビュー記者会見のタキシードまで用意されていますが、仕事の締め切りに追われていた横尾さんは会見に現れず、幻のメンバーとなりました。

 

◆4人目のYMO、松武秀樹さん

 

YMOにとってなくてはならない、コンピュータプログラマーが松武秀樹さんです。

 

レコーディングだけでなく、ステージ上で始めてコンピュータを用いて演奏したのがYMOと言われています。シーケンサーと呼ばれる同期、サンプリングなど、画期的過ぎるテクニックを用いて、レコーディングとライブの両面でYMOを支えました。

 

私の知る松武さんは吉川晃司のセカンドシングル「サヨナラは八月のララバイ」のガラスの割れるサンプリング、そしてセカンドアルバム収録曲「No,No,サーキュレーション」ほかのユニーク過ぎるシーケンスです。

 


◆YMO 大ブレイク

 

1979年、セカンドアルバム「ソリッド・ステイト・サバイバー」発売。ワールドツアーをイギリスからスタートします。

 

このアルバムから「テクノポリス」「ライディーン」という爆発的なシングルヒットが放たれます。

 

アルバムはオリコン1位、100万枚のセールスとなり、YMOは一躍、音楽ファンだけでなく、ポップアイドルとして中高生や小学生にまで支持され、社会現象となります。

 

1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」を敢行。あまりの人気に急遽、3rd.ライブアルバム「公的抑圧 -Public Pressure」も発売されます。

 

そして同年6月にスネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4thアルバム「増殖」を発売。

 

当初10万枚の限定盤予定が、20万枚以上の予約が入り通常盤としてリリースされることになり、オリコン初登場1位に。

 

同年10月には第2回ワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」がイギリスを皮切りに8ヶ国、19公演行われ、アメリカ ロサンゼルス公演は日本へ衛星中継されました。

 

本ツアー中、アメリカのテレビ番組「ソウルトレイン」に日本人ミュージシャンとして初出演。

 

ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられました。

 


◆スネークマンショー

 

桑原茂一氏、小林克也氏、伊武雅刀氏の「スネークマンショー」。風刺の効いたタブーなき過激でブラックなお笑いで当時、ラジオ番組から人気に火がついていました。

YMOは多忙でフルアルバムは作れない、と彼らのコントを曲間に挟んだ異色のスタイルを実行。このアルバムでスネークマンショーはさらに知名度を上げ、YMOはこんなことまでやらかす連中なのだ、と幅を広げました。

 


◆教授の苦悩

 

この頃、「ビジネス的な成功=ヒット」を目的にYMOを結成した細野さんにとっても異常なまでの人気は重荷になっていたくらいで、「教授」のニックネームを持つ坂本龍一さんにとっては、この過熱ぶりは負担でしかなく、早々にYMOからの離脱を考えます。

 

所属するアルファ・レコードは慰留のための交換条件として、ソロアルバムを自由に制作する機会を約束。

 

そして1980年、坂本龍一ソロアルバム「B-2 UNIT」発売。

 

当時一大ブームであったダブの第一人者、デニス・ボーヴェルと、XTCのアンディー・パートリッジが参加、イギリスでレコーディングされました。

 


◆ポップ・ミュージックからの逸脱

 

1981年、ワールドツアーを終えたYMOはニューアルバム「BGM」を発表。

 

これまでのキャッチーなポップ・テクノ・ミュージックとは一線を画した、実験的なアルバムでした。

 

当時の最新機材であるプロフェット5(シンセサイザー)、ローランド・TR-808(リズムマシン)を使用、さらにサンプリングの手法を世界で初めて用いるなどして、ダークでシリアスなヨーロッパ志向でニューウェーブ色の強い楽曲は、評論家筋から高い評価を得た一方、キャッチーなサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い「失敗作」「駄作」と酷評され、セールス面で大きく落ち込みます。

 

メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと」(細野氏)「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本氏)「ファンの切り捨てをしました」(高橋氏)と、語っています。

 

このアンチポップ路線は同年11月に発表されたアルバム「テクノデリック」でも続き、ファンの間ではこの2作品を「最高傑作」とする声が多く、この時期のYMOはヒットを狙わず、自分たちのやりたいこと、実験的な取り組みを続けます。

 

1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚、イギリスで20万枚、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚、全世界でのレコード売上は500万枚に達した、とされます(当時のアルファレコード社長 村井邦彦氏 談)。

 


◆ソロとしての活動

 

1982年は各々、ソロとして活動しています。

 

高橋幸宏さんはソロアルバム「ニュー・ロマンティック Neuromantic」を発表、鈴木慶一氏と「ビートニクス」を結成。

 

坂本龍一さんは矢野顕子さんと加藤和彦氏のソロアルバムに参加、エイドリアン・ブリューらとソロ・アルバムを制作、郷ひろみ氏、前川清氏などの楽曲プロデュース、忌野清志郎氏「い・け・な・いルージュマジック」リリース、そして、大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」の音楽監督に加えて、俳優としてスクリーンデビューも果たします。
細野晴臣さんは加藤和彦氏のアルバムに参加、はっぴいえんど時代の盟友 松本隆氏と組んで松田聖子さんへ楽曲提供、イモ欽トリオ「ハイスクール・ララバイ」をプロデュース、大ヒット。

 

YMOとしては「オレたちひょうきん族」さらには「THE MANZAI」にトリオ・ザ・テクノを名乗る漫才トリオとして出演しています。この時期、細野さんと坂本教授の不仲が表面化して緩衝材役の幸宏さんは苦労したそうで、「ふざけたことでもしてないとやってらんなかった」という裏事情もあったようです。

 


◆YMO「散開」

 

活動休止状態だったYMOは、1983年、「浮気な僕ら Naughty Boys」を発表。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm822643

 

このアルバムは、前2作とはうって変わってCMタイアップシングル「君に胸キュン」など、売れ線、歌謡テクノをやり切って世間を驚かせる一方で、テクノサウンドをポップスに用いたスタイルは、その後のJ-POPの在り方を決定付けたと言われています。

 

そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」を表明。散開記念アルバム「サーヴィス」を発表。

 

これらは、YMOとしてやることはやり切った、という感覚から来た文字通りのファンサービスだったのでしょう。

 

そして1983年11月から「散開」コンサートツアーを行い、YMOはその活動に終止符を打ちました。

 


◆YMO 「再生」

 

散開からおよそ10年、1993年2月にYMO「再生」が発表され、4月の記者会見で久々にメンバー3人が揃ってメディアに登場しました。

 

ニューアルバム「Technodon」を発表。

 

6月10、11日には東京ドーム公演を行い、再びニュースになるなど、改めてその存在感を示します。

 

しかしこれ以降、3人はもう一度YMOとして活動をすることに対し一貫して否定的な姿勢を貫き、3人で同じステージに立ったり、細野さん+幸宏さんのユニットに教授が加わったHASとして活動する際も、それは「あくまでYMOとは別のものである」としていました。

 


 

2007年2月、ビールのCM企画で「YMO」名義が復活。3人揃って出演、ニューアレンジで新録された「RYDEEN 79/07」が配信されました。

 

そして7月、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブアース」に「Yellow Magic Orchestra」名義で3人のみでのステージを行い、それ以降、活動が続いています。

 

お三方共に「頑なに”これはYMOじゃない””昔の曲は演らない”などのこだわりがなくなった」のだそうで、肩の力を抜いてかつての楽曲の演奏を楽しむ姿が見られます。

 


 

◆YMOの影響

 

日本では小山田圭吾氏、石野卓球氏、中田ヤスタカ氏、槇原敬之氏、宮沢和史氏、山口一郎氏(サカナクション)などが大ファンであることを公言しています。

 

海外で成功したのか?については賛否両論あり、「海外でライブをやった、というのを国内のプロモーションに利用しただけ」という意地悪な(?)見方も存在します。しかし、一般の知名度やセールスというよりも、テクノファンやミュージシャン、関係者の間で話題になり、熱心なファン、フォロワーが存在するのは確かな気がします。当時のワールドツアー会場にはウルトラボックス、フライングリザーズ、ジャパン、ブームタウンラッツといったミュージシャンが現れたり、ポールマッカートニーがYMOを意識したテクノアルバムを出したり、マイケルジャクソンが「BEHIND THE MASK」をカバーしていたり、というだけでも、十分凄いと思います。

 

ご本人達は「海外に出かかってやめちゃったバンド」という認識なのだそうです。

 


 

◆おまけ① ゲーム音楽とYMO

 

YMOがデビューした1978年は、タイトーのアーケードゲーム「スペースインベーダー」が大流行し、社会現象となっていました。

 

YMOのファーストアルバムには、5曲目にその名もズバリ「コンピューター・ゲーム “インベーダーのテーマ”」 (COMPUTER GAME “Theme From The Invader”)という楽曲があり、これはまさに「スペースインベ―ダー」の音を使ったものです。

 

そして1曲目に「コンピューター・ゲーム “サーカスのテーマ”」(COMPUTER GAME “Theme From The Circus”)という楽曲があり、1977年に Exidy社から発売されたブロック崩しタイプのアーケードゲームの曲を、シンセサイザーで表現してリミックスしたもので、ここから「ファイアークラッカー」に繋がっています。

 

いまではゲームのサントラは当たり前に大ヒットしますが、この時点ではまだ効果音的な認知で、そういう市場はありません。「ゲーム音楽」という概念は、YMOによって認知度を上げた、と言われています。

 


 

◆おまけ② プロレスとYMO

 

80年代、全日プロに来日していた「南海の黒豹」ことリッキー・スティムボートの入場テーマが「ライデーン」でした。ヤングでフレッシュなファイトがウリで、母親が日本人というリッキーは、私が最初にハマったガイジンレスラーです。

 

また、坂本教授の別バンド「カクトウギ・セッション」の楽曲「カクトウギのテーマ」は、長く昭和の全日プロの「次期シリーズ紹介」のBGMでした。

 

「カクトウギ・セッション」のメンバーは、渡辺香津美さん(Guitar.)、坂本龍一さん(Keyboards.)、矢野顕子さん(Keyboards, Vocal)、小原礼さん(Bass.)、 村上ポンタ秀一さん(Drums.)、高橋ユキヒロさん(Drums.)、ペッカーさん (Percussions.)、益田幹夫さん (Piano)、向井滋春さん(Trombone.)、 本多俊之さん(Sax.)、峰厚介さん(Sax.)、清水靖晃さん(Sax.)と、豪華すぎるメンツです。

 

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    拝啓 サイトヘッド様にはよろしくお願いいたします。
    しかし、上記文中でサイトヘッド様は「YMOについて何も解っていない」等と悪質なジョーク(爆笑)を言われますが、実は充分解っておられますし、何より当時から全然解っていない連中が大半でした。自分が考える結論から申せば「絶対に外に持ち出せない機材を無理やり持ち出して、とんでもねぇ事やらかした日本の連中」と言えます。ご承知の通り日本のシンセサイザー奏者の先駆者は「冨田勲先生」と言われますが実は誤解が在り、更にそのずっと以前から密かに「海外の小型シンセを個人輸入したりしていた音楽家」が何人もいましたね。具体的には「水戸黄門BGMの作者 木下忠司先生から直接お聞きしたお話ですと当時のBGMの録音が1969年でした」と。冨田勲先生は「スタジオ仕様の大型moog=オランダ系なのでモーグが正解 シンセの日本での初の個人購入者」が正解でした。更に「YMOとの共通点が、日本では認められずアメリカからの逆輸入だった」点ですね。冨田勲先生は、自宅スタジオのラボのみで大型モーグを使用していましたが、YMOの恐ろしい点は「EL&P同様に、ステージにあの大型モーグを持ち込んだ事」でした。EL&pのキースエマーソンは、あくまでメインキーボードの補助 サポートとして大型モーグを設置しましたが、YMOは「冨田勲先生の弟子 松武秀樹の同機種モーグ3をリズムの主役として設置した」点で大きく異なります。
    当時から、こういったスタジオ仕様の大型メカやコンピューター(当時はローランドMC-8しか無かったほぼアナログなセミコンピューター)なんぞをステージに持ち出す等「無菌室から精密機器を持ち出す以上の狂気の沙汰」とまで言われました。当然ながらモーグは「ジャスト117vでしか正常作動せず、MC-8は熱暴走でアナログデータが全て飛んだ」と言われます。
    在るステージでは、シンセのセッティング不良で演奏途中にシンセが落下し発火するという様な事態もありましたね。シンセ各種も当時は完全にアナログであり、ピッチは狂いやすいしその事前調節には実に30数人のスタッフが数時間かけて調整していたと言われます。こんな大げさな事をしても「大型モーグは単音モノフォニックしか出ない上にMC-8の容量不足でせいぜい4つの音程度しか制御できなかった」のです。では当時、なぜこれほどYMOは人気があったのか?なのですが、それは間違い無く「ファッションであった」と。「YMOシャツです、YMO何某ですっ」と。せいぜいこの程度の認識で世間の大半は動いていましたね。
    だからこういった「にわかファンの連中は、固定する事無く離れ」ましたしね。更にYMOはステージを「見せる 魅せる 視せる 観せる」と言う今までには無かった様な視覚効果を狙っていたのも確かで、正直大した役にもたちそうも無い大型モーグをセンターにデンと置き、格好よさそうに配線つなぎ変える松茸だかシイタケだかが人気で、、、、実際は大した事は本番ではしていなかったのですが。彼の役目は事前の仕込みでしたから。
    この後YMOは進化し「まずモーグとイーミューが2台鎮座し、シンセもセミデジタルから台数も減り、だんだんとシンプルになり」フェードアウトと言うかシャットダウンいたしますが、
    実は「かなり単純シンプルな事を、かなり大げさにド派手にオーバーにやっていた」のが実はYMOの実態正体でした。デビュー当時、まだシンセが市民権を得ていた訳では無くて、まだまだの頃。自分が「1975年の暮れ、高3の終わりに長期月賦で国産初のシンセSH-1000をやっと買った頃、「何か、新鮮サイダーとか三ツ矢サイダーとか言う面白い楽器があるらしい」ッ程度の認識しか無かった頃のその後わずか数年の出来事でしたからYMOの出現は。
    しかしながらその後遂に「冨田勲先生やYMOのコピーや亜流猿真似等、遂に出なかった」事は、如何に本家本物が物凄かったかが解ります。皆さま歳をとられました、、、嗚呼 敬具

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。「かなり単純シンプルな事を、かなり大げさにド派手にオーバーにやっていた」とはいうものの、「冨田勲先生やYMOのコピーや亜流猿真似等、遂に出なかった」。まさにおっしゃる通りですね(笑)

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