アントニオ猪木とNWF~①1973 ジョニー パワーズとの因縁

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若い世代の新日本プロレスファンは、チャンピオンベルト=「IWGP」なのでしょうが、
”燃える闘魂”アントニオ猪木の代名詞といえば、なんといっても「NWFへビー級」のベルトです。

 

inoki_nwf

 

新日本プロレス黎明期の70年代、猪木はこのベルトを賭けてタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンなど、数々のライバルたちと激闘を繰り広げ、日本中を熱狂させました。

 

全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場の代名詞が、力道山ゆかりのベルトから発展させた「PWFヘビー級王座」であり、

 

新日本プロレス旗揚げ後のアントニオ猪木の代名詞が、1973(昭和48)年から1981(昭和56)年にIWGP構想のため返上・封印されるまでの約8年間、猪木の全盛期に常に腰に巻かれていた「NWFヘビー級王座」です。

 

今回から「アントニオ猪木とNWFベルト」について、その歴史と名勝負を振り返ります。

 

 

 

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なぜ新日本・猪木がNWFなのか?

 

アントニオ猪木が1972(昭和47)年に旗揚げした新日本プロレスは、本場アメリカとのルートが脆弱でした。

 

全日本プロレスのジャイアント馬場はNWA、国際プロレスはAWAと、2大メジャー団体を独占。もう一つのメジャー、WWWF(いまのWWE)の絶対王者である”人間発電所”ブルーノ サンマルチノも馬場の盟友、とまさに四面楚歌。

 

猪木は師であるカール ゴッチ ルートでガイジンを招聘しますが無名選手だらけで、苦戦を強いられていました。

 

1973(昭和48)年、日本プロレスから坂口征二が合流し、NET(テレビ朝日)でのレギュラ―中継がスタート。無名レスラーだったタイガー ジェット シンのブレイク、抗争による話題性でなんとか奮闘しますが、団体の看板となる「チャンピオンベルト」が必要でした。

 

 

猪木は渡米し、NWA総会で加盟を申請しますが、親馬場派の反対により却下されるという屈辱を味わいます。当時、最高峰と呼ばれたNWA王者の新日本プロレスへの招聘も、猪木の挑戦も不可能ということです。

 

そこで巡り合ったのが、「NWF」というタイトルでした。

 

 

NWF王座とは?

 

NWF(National Wrestling Federation:ナショナル レスリング フェデレーション)とは、プロモーターのペドロ マルティネスと、選手兼プロモーターのジョニー パワーズを中心に設立、運営され、ニューヨーク州バッファロー、オハイオ州クリーブランドを拠点にアメリカ北東部、五大湖地区およびカナダを主要エリアとして活動していた団体(そのため本名は「North American Wrestling Federation」という説もあり)。

 

ミシガン州、メリーランド州、カナダ トロント、モントリオールへとテリトリーを拡大、ボボ ブラジル、ジョニー バレンタイン、アブドーラ ザ ブッチャー、ザ シーク、アーニー ラッドといったメジャー選手も招聘。

 

パワーズvsバレンタイン、ラッドvsブッチャーなどの抗争で人気を博し、一時期はアメリカのプロレス専門誌でNWA、AWA、WWWFに次ぐ「第4団体」と認知されるようになっていました。

 

NWF Pro Wretling

 

NWF王者 ジョニー・パワーズと猪木

 

NWF王座の変遷は謎だらけで、公式記録が曖昧で諸説ありますが、1970(昭和45)年、ロスでフレッド ブラッシーを破ったジョニー パワーズが初代王者とされます。

 

 

そのパワーズは1966(昭和41)年、猪木が豊登と旗揚げした東京プロレスの旗揚げシリーズに、ジョニー・バレンタインに次ぐナンバー2として来日。猪木とも対戦経験があります。

 

猪木とはシングルで1試合のみ、2-1で敗れていますが、若手の斉藤昌典(マサ斉藤)には4勝1分け、木村正雄(ラッシャー木村)には7戦全勝しています。

 

 

その後、1970(昭和45)年に自ら選手兼プロモーターとしてNWFを旗揚げ。初代王者となり、1973年までの間に王座はワルド― フォン エリック、ドミニク デヌーチ、アーニー ラッド、アブドーラ ザ ブッチャー、ジョニー バレンタインらが戴冠しています。

 

 

パワーズと猪木は共に1943(昭和18)年生まれで、後にパワーズは「NWFを設立したのは、若い猪木の東京プロレス旗揚げに刺激を受けたことも要因」と語っています。

 

その両者が、1973(昭和48)年8月に、ロスのマットで再会します。

 

この時にロスで行われた試合が、前回ご紹介した「北米タッグ選手権」です。

 

このタイトルはパワーズのロス進出にあたり急造された”フェイクタイトル”といわれ、普通に考えればNWFのベルト、にも関わらず、当時のNET(テレビ朝日)中継では「NWAノースアメリカン タッグ選手権」と何度も実況されました。

 

これは「当時のロスのプロモーター、マイク・ラベールがNWA副会長だったことを利用した策」と言われています。そのくらい、当時のNWAは絶対的な権威であり、この捏造(?)は中継テレビ局であるNET(テレビ朝日)の意向もあったのだとか。

 

このベルトの移動は後に持ち越しになります(詳しくは北米タッグの記事参照)が、なんとこの時点で、パワーズと新日本プロレスの間で、「NWFという組織ごと、新日本プロレスに移管する」話し合いが行われていました。

 

過去に顔なじみであり、共に”反NWA”のオポジション同士興行的に苦戦が続く団体運営に限界を感じていたパワーズと、是が非でも世界タイトルが欲しい猪木の双方の思惑が一致したプランでした。

 

 

猪木のNWF”世界”奪取

 

パワーズはその後、来日し9月の新日本プロレス「闘魂シリーズ」に参戦。さらに年末のその名もズバリ「ワールド タイトル チャレンジ シリーズ」にも、”NWF世界ヘビー級と北米タッグの二冠王”として参戦します。

 

北米タッグはパット パターソンとコンビを組み、12月7日大阪で猪木&坂口組の挑戦を再び退け防衛。そしていよいよ、12月10日に東京体育館でNWF世界ヘビー級王座をかけ、アントニオ猪木の挑戦を受けることになりました。

 

 

 

試合は猪木がコブラツイスト、パワーズがパワーズロック:8の字固め(4の字の倍の威力、という触れ込みの4の字固め)で1本ずつ取り合った末、3本目を猪木が卍固めでギブアップ勝ち。

 

猪木パワーズ

 

アントニオ猪木がNWF世界ヘビー級の新王者となりました。この時、猪木が第何代のチャンピオンなのかは諸説あり、11代目とも14代目とも言われています(このBlogでは第14代としてカウントしています)。

 

 

また、当時はNWF”世界”ヘビー級選手権となっていましたが、1977(昭和52)年8月から”世界”の二文字が消滅します。

 

1975(昭和50)年、猪木ではなく坂口征二氏と新間寿氏が加盟名義人として認められ、ようやく新日本プロレスがNWAに加盟したことが関係しています。NWAは「NWAのみが世界王座」として、加盟団体は独自にタイトルを新設する事はできても、”世界”と名乗る事は許されない決まりがありました。しかし、その後も猪木がNWAに挑戦することも、NWA世界ヘビー級王者が新日本プロレスに登場することもありませんでした。

 

 

次回からは年次別に、『アントニオ猪木のNWF選手権史』を振り返ります!
②1974-1976編はこちら

 

コメント

  1. W・D・ウエイト より:

    こんにちは。
    パワーズ・・懐かしいです。中学生でした。
    当時の印象は‘なんかズルイ奴’‘でも結構強い奴’
    そんな感じでした。6人タッグでシン・上田と組み彼らを
    巧みに操るみたいなシーンも多くありましたね。
    その後1~2年で彼らからボコられるのには複雑でしたし
    私が高校生の時にはベーカーと交代で白星配給係をやらされてるし、何があったのか途中帰国とは・・。
    猪木イズム炸裂ですね。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!パワーズ、なんともいえない妖気というか、不気味でしたよね。バレンタインと似た感じというか、でもパワーズは強い!というよりズルい奴、というのは同感です。団体ごと猪木に譲り、その後はお払い箱になったのは、いろいろ控室でのよくないウワサも聞きましたが、やっぱり動員力がないのと、肝心の試合もいまひとつだったからでしょうね。それらも含めて猪木イズムですよねw

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