「アントニオ猪木 NWF激闘史」④~1980-1981 ハンセン、ホーガン そしてIWGPへ


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「アントニオ猪木 NWF激闘史」最終回となる④では、1980-1981年のハンセン、ホーガンらとの激闘と、改めて「アントニオ猪木にとってのNWFとは?」について考察します!


 

<1980(昭和55)年> ハンセンが名実ともにライバルに

 

80年代の幕開けとなるこの年は、極真会館の”熊殺し”ウィリー ウィリアムスとの格闘技戦が世間の注目を集めた年です。両者の対決は2月27日、両陣営が極限の緊張状態の中で行われ、両者TKOのドローに終わります。

 

そしてプロレスにおいては、スタン ハンセンがいよいよその頭角を現し、NWF王座を巡る戦いの猪木のライバル「正妻」の座に就いた年です。

2流レスラーにすぎなかったハンセンは新日本プロレスでタイガー ジェット シンの徹底した狂乱キャラとプロ意識、そして猪木の「受け」により覚醒。”ブレーキの壊れたダンプカー”として、ウェスタンラリアートを一撃必殺のフィニッシュホールドとして磨きをかけ、シンと並ぶ外国人エースに成長しました。そしてハンセンのリミッターをカットした圧倒的なラッシュパワーの前に、猪木のテクニックが跳ね返される場面が目立つようになってきました。

 

2月8日 東京体育館 
〇スタン ハンセン(17分12秒 リングアウト)アントニオ猪木●
*猪木が王座転落、ハンセンが第17代王者に

この対決はハンセンが序盤からラリアートを放ちペースを握りますが、猪木はグラウンドでハンセンの動きを止め、10分過ぎに卍固め!しかしハンセンは持ち前のパワーで卍固めを振りほどいてしまいます。猪木の卍固めが破られるのは初めてで、衝撃的でした。

しかし、もっと衝撃なのがフィニッシュ。17分過ぎに場外に落とされた猪木がエプロンに立ったところに、猛烈な勢いのウェスタンラリアートが炸裂!猪木はもんどりうって奈落の底へと転落し、そのままリングアウト負け。遂にハンセンのパワーが猪木のインサイドワークをぶち破り、NWFベルトを腰に巻きました。この鮮烈なフィニッシュシーンは、交通事故レベルの衝撃映像でした。

 

4月3日 蔵前国技館 *第18代王者に
〇アントニオ猪木(12分55秒 体固め)スタン ハンセン●

この日は山本小鉄引退興行。2月27日のウィリー戦でアバラを負傷した猪木は1か月近くメインをWWF Jr.ヘビー王座の防衛ロードをひた走り人気絶頂のドラゴン 藤波辰巳に任せ、コンディションを整えてこのリターンマッチに臨みます。

試合前にシンが現れアピールするハプニングもあり、またもハンセンのフルパワーの前に苦戦しましたが猪木はアームブリーカー、延髄斬りと畳みかけ、最後はロープ越しのブレーンバスターでピンフォール、王座を奪還して復調をアピールしました。

5月9日 福岡スポーツセンター *初防衛
〇アントニオ猪木(17分03秒 反則)スタン ハンセン●

 

8月9日 米ニューヨーク州シェア スタジアム *V2
〇アントニオ猪木(09分41秒 体固め)ラリー シャープ●

WWF(現:WWE)のシェアスタジアムで行われるビッグマッチ定期戦に藤波と共に参戦。藤波はチャボ ゲレロと、猪木は(後にクラッシャー バンバン ビガロのモンスターファクトリー代表として有名になる)ラリー シャープと対戦。アメリカではWWF認定マーシャルアーツ選手権、とコールされています。直後のカードはアンドレvsホーガン、メインはサンマルチノvsラリー ズビスコでした。

 

9月11日 大阪府立体育会館 *V3
〇アントニオ猪木(17分47秒 リングアウト)スタン ハンセン●

猪木がリングアウト勝ちしたものの試合終了後にハンセンが背後から後頭部にラリアットを叩きこみ、猪木はダメージを負い昏倒。翌日の所沢大会を欠場します。

 

9月25日 広島県立体育館 *V4
〇アントニオ猪木(10分49秒 逆さ押さえ込み)スタン・ハンセン●

大阪の遺恨決着戦となる2週間後の広島大会。猪木はハンセンに対し少しずつタイミングをずらしてダメージをかわします。しかしハンセンの暴走ファイトは止めようがなく、防戦一方に。ハンセンはエルボーバットを打ち込み、とどめのラリアート狙いで猪木を再度ロープへ振ります。ラリアート炸裂、再び王座陥落か、と思われたその瞬間、猪木が一歩先に逆ラリアートを敢行!これで焦ったハンセンが再度ラリアート狙いで猪木をロープへ降りますが猪木はハンセンの動揺を見逃さず、左腕をくぐり抜けて背後に回り込み電光石火の逆さ押さえ込みでピンフォール。

この猪木の「掟破りの逆ラリアート」はいまも語り継がれ、猪木のキャリアにおいて唯一放ったラリアート、として伝説化しています。

 

9月30日 日本武道館 *V5
〇アントニオ猪木(14分53秒 卍固め)ケン パテラ●

パテラは、重量挙げの1972(昭和47)年ミュンヘン五輪アメリカ代表、AWA、NWA、WWFで活躍したレスラーです。1973(昭和48)年には国際プロレス、1977(昭和52)年には全日本プロレスにも来日経験があり、馬場のPWF王座にも挑戦しています。1980(昭和55)年からはWWFを主要テリトリーとした(WWFインターコンチネンタル第2代チャンピオン)関係で新日本マットに登場し、いきなりのNWF挑戦となりました。日本のファンにはマサ斉藤さんの刑務所行きの原因を作った男として有名ですね。

 

11月03日 蔵前国技館 *V6
〇アントニオ猪木(13分19秒 体固め)ハルク ホーガン●

来日当時のホーガンは、ブラッシーをマネージャーに、ヒールなのかベビーフェイスなのかよくわからないマント姿のボディビルダー、ビリーグラハムのようなキャラクターでした。猪木の兄弟子にあたるヒロ マツダのコーチを受けてデビューした、とはいうもののまだまだ一本調子で、ぶっちゃけデクの棒でまだまだ猪木の敵ではありませんでしたが、ハンセンの次世代のエース候補、として売り出されていきます。

 

12月29日 米ニューヨーク州マジソン スクエア ガーデン *V7
〇アントニオ猪木(12分47秒 体固め)ボビー ダンカン●

 


 

シンとの抗争はUWAベルトを巡る戦いへシフト

 

ちなみに、この年はシンとのNWF防衛戦が一度もありません。シンとの抗争はNWFからUWA世界ヘビー級ベルトを巡る戦いへとシフトしていました(1980年1月17日、シンはメキシコでカネックを破り、第3代王者に)。

猪木とシンのUWA戦は4月13日、メキシコシティのトレオ デ クアトロ カミノスで猪木がシンを破り王座を奪取(第4代)。7月14日、蔵前国技館での再戦でも猪木が勝ち、初防衛に成功。しかし10月24日、沖縄 奥武山体育館で猪木が暴走して反則負け、シンが第5代王者に返り咲き。翌年2月6日、札幌中島スポーツセンターでもシンが猪木を破り防衛・・・と続きます。

余談ですが、いまでは当たり前の場外フェンスは、この年から新日本プロレスが「シンから観客の安全を守るため」と常設したのが始まりです。

 


 

<1981(昭和56年)> 空前のプロレスブーム到来、IWGPに向けて返上

 

この年、4月23日にデビューした初代タイガーマスク(佐山サトル)の大活躍により、空前の新日本プロレスブームが巻き起こります。テレビ朝日「ワールドプロレスリング」の視聴率も絶好調、系列局以外の地方局も取り込み放送ネットワークが全国に拡大。地方興行も連日大入り満員で、夏に開催した「ブラディ ファイト シリーズ」は全29戦すべてが超満員となります。

 

アントニオ猪木はこの機に乗じてテレビ朝日の協力も得て「世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する」IWGP構想をブチ上げます。

 

正式発表は1980(昭和55)年12月。アメリカからNWA副会長、ヨーロッパから西ドイツレスリング連盟会長&同事務局長、メキシコからUWA代表、パキスタン国際レスリング協会会長&同副会長らを京王プラザホテルに招いて1981年3月30日から31日にかけてIWGP運営会議が開催され、翌4月1日にIWGP実行委員会の発足が正式に発表されました。

 

IWGPリーグ戦開催にあたり、猪木はチャンピオンベルトの返上を行います。4月23日、猪木がスタン ハンセンとの防衛戦に成功した試合を最後に、自身のNWFヘビー級王座を返上。坂口征二のWWF北米ヘビー級王座、坂口征二&長州力のNWA北米タッグ王座、タイガー・ジェット・シンのNWF北米ヘビー級王座とアジアヘビー級王座、タイガー ジェット シン&上田馬之助のアジアタッグ王座の合計6王座が返上、封印されました。

 

2月4日 大阪府立体育会館 *V8
〇アントニオ猪木(12分37秒 体固め)ケン パテラ●

 

4月17日 鹿児島県立体育館 *王座はコミッション預かり
―アントニオ猪木(13分24秒 没収試合)スタン ハンセン―

 

4月23日 蔵前国技館 *王座決定戦で第19代王者に
〇アントニオ猪木(12分56秒 体固め)スタン ハンセン●

*IWGP構想のため王座返上

 


 

改めて、猪木にとってのNWFとは?

 

アントニオ猪木にとってのNWFとは当初は、「世界最高峰とされ、自身が決して手が届かないNWA世界のベルトの代替え」でした。

 

王者でありこのタイトルの創設者であるジョニー パワーズは、猪木さん曰く「非常にレスリングのヘタな選手」。事実、猪木戦以外のパワーズの試合は実につまらないのです。しかし、相手に合わせてスタイルを変えることができる猪木ならでは、パワーズとの王座をめぐる攻防は白熱し、NWFは「アントニオ猪木のベルト」として、輝きを放っていきました。

そしてアントニオ猪木のNWFの歴史、でいえばなんといってもタイガー ジェット シンとの、そして後期はスタン ハンセンとのライバル対決です。

 

猪木vsシンは1973-1980年、およそ8年に渡ってシングル全37試合が行われ、猪木の23勝7敗7分(無効試合を含む)

猪木はシンとの戦いを評して「戦えば戦うほどに快感が増し、新しい自分の発見があったと語っています。「ゴッチ流のストロングスタイル、プロレスの幅の狭さを俺は評価していない。プロレスの魅力という視点でいえば、力道山の空手チョップのような観る者の潜在的な怒りの導火線に火をつける怒りの表現とか、ルーテーズの持つ風格やしなやかな美しさも不可欠。そして、さらにシンとの戦いのようなサスペンスが加わったことで、プロレスがヴヮーッと扇を広げたように幅を広げることができた」とも言います。猪木とシンが互いの狂気を引き出し合い、痛みと死と隣り合わせの中で一体感を共有してエクスタシーを感じ、それが観る者に興奮とカタルシスを与えていったのです。

 

 

猪木vsハンセンは1977-1981年のおよそ5年間でシングル全25戦、猪木の17勝3敗5分(無効試合を含む)。

ハンセンとの攻防について猪木は「命がけで受けて立とうという決意が、ハンセンの眠っていた素質を開花させた」と語っています。最初は「でくの坊でテンポがなかった」ハンセンですが、猪木との「相手の持っている目一杯のパワーを、こちらも極限状態まで正面から受ける」「受けて立つ自分を命がけで演じる」という試合スタイルの中で、「自分に気づいていった」のです。そこには、無意識に「スターガイジン選手を育てなければならない」という団体トップとしての視点もありました。猪木とハンセンは水と油のように持ち味が異なります。その「合わないスタイルを調和させる面白さ」が、猪木とハンセンの抗争でした。

 

 

その数々の戦いはやがて「タイトルマッチだからチケットが売れる」から、「猪木の戦いが観たい」へとプロレスの価値観すら変えてしまいました。猪木はタイトルの価値を高めることには固執せず、相手との攻防のレベルを高めることを目的としていた気がします。タイトルはそのサイドストーリーを盛り上げる”手段”にすぎませんでした。

 

IWGP構想をブチ上げ、虎の子のNWFを封印してから約2年あまり、猪木にはベルトがありませんでした。しかし、興行の入りも視聴率も、話題も、新日本プロレスの人気は加速します。アントニオ猪木にとってのNWFとは、「NWAの呪縛から逃れようとしても逃れられず、アンチテーゼとして戦う中で乗り越えた歴史」、といえるかもしれません。

 

 

<Back Number>

アントニオ猪木NWF激闘史

①1973 ジョニーパワーズとの不思議な因縁

②1974-1976 S小林、シン、大木、テーズ、ロビンソン

③1977-1979 シン、ハンセン、バックランド、モラレス、ボブループ


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