「ジャンボ鶴田」〜1972-2000 “若大将”と“怪物”の狭間で

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天龍源一郎藤波辰爾長州力…と来て、この人を紹介しないワケにはいきません。

今回は、「ジャンボ鶴田」についてご紹介します!

*文中敬称略

 


 

私の中で最初の「ジャンボ鶴田の記憶」は、1977年、田園コロシアムでのvsミル マスカラス戦(同年のプロレス大賞ベストバウト)あたりです。

まだ赤と青の星がついたパンツを履いていて、「若大将」と呼ばれていた時代。ギターを弾いてリサイタルしたりはまだいいとしても、若いだけで”ハンサム”扱いする”プロレス村の理屈”には、子供心に違和感がありました(確かに当時の全日プロは人相悪過ぎだらけなのですが)。

残念ながら、鶴田のデビュー戦や10番勝負あたりはリアルタイムでの記憶はありません。後にその頃の試合を観て、デビュー戦でテリーに決めたジャーマン、馬場の顔まで飛び上がるドロップキック、反動なしで馬場の巨体をサイドスープレックスで投げきる背筋力など、その素材の良さと天才ぶりに衝撃を受けました。

それと同時に、「こんなにすごかったのに、なんであんなにくすぶってたの?」という疑問が強くありました。

 


 

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■「全日プロに就職します」

 

ジャンボ鶴田、本名 鶴田友美は中央大学レスリング部時代にレスリング日本代表に選ばれ、1972年のミュンヘンオリンピック グレコローマン スタイル100kg以上級に出場(結果は2回戦失格)します。

 

そして1972年10月31日、全日本プロレスに入団。その際「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「全日本プロレスに就職します」と報道され、「新時代のサラリーマンレスラー」と言われました。

 

その後、テキサス州アマリロのザ ファンクスのもとへ修行に行き、スタン ハンセンやボブ バックランドらと共にトレーニング。

1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル タピアを相手にプロデビュー、2ヶ月後の5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにて、なんとドリー ファンクJr.のNWA世界ヘビー級王座に初挑戦。デビュー2ヶ月での世界王座挑戦は異例中の異例であり、それだけ鶴田の適応能力、ポテンシャルが並外れていた証明です。

 

そして凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー、フォール勝ちを納めます。さらに3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ ファンクスとのインターナショナル タッグ王座戦において、師匠ジャイアント馬場のパートナーに選ばれます。

 

この抜擢について試合前にファン、マスコミから「デビュー1年で大した実戦経験もなしにいきなり馬場と組んでメイン出場は10年早い、プロをナメるな」と猛バッシングとなりましたが、60分3本勝負の1本目でテリー ファンクからジャーマン スープレックス ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、周囲の不安をよそに異例のスピードで全日プロNo.2の地位に着きました。

 


 

■鶴田試練の十番勝負

 

その後、「全日プロ次期エース ジャンボ鶴田をさらに大きく育てるため」という名目で、世界の強豪選手10人を相手に行われたのが「試練の十番勝負」です(すべて60分3本勝負)。

 

・第1戦 1976年3月10日 両国日大講堂
バーン ガニア
・第2戦 1976年3月28日 蔵前国技館
ラッシャー木村
・第3戦 1976年6月11日 蔵前国技館
テリー ファンク
・第4戦 1976年7月17日 北九州市・三萩野体育館
ビル ロビンソン
・第5戦 1976年9月9日 大阪府立体育会館
ボボ ブラジル
・第6戦 1976年10月22日 愛知県体育館
アブドーラ ザ ブッチャー
・第7戦 1976年12月2日 川崎市体育館
クリス テイラー(1972年ミュンヘン五輪レスリング銅メダリスト)
・第8戦 1977年6月11日 世田谷区体育館
ハーリー レイス
・第9戦 1977年7月28日 品川スポーツセンター
大木金太郎
・第10戦 1979年1月5日 川崎市体育館
フリッツ フォン エリック

馬場 全日プロの政治力を感じる、錚々たる顔触れです。

通算成績は鶴田側から見て4勝(ブラジル、ブッチャー、テーラー、エリック)2敗(テリー、レイス)4引き分け(ガニア、木村、ロビンソン、大木)と、立派なものでした。

 


 

■「つまらない」鶴田のプロレス

 

後の、80年代後半の鶴龍対決や、90年代の超世代軍と対峙する“怪物”ジャンボ鶴田しか知らない世代には信じられないと思いますが、私がプロレスを本気で観始めた時期(70年代後半~80年代前半)の鶴田はつまらない、ダメなレスラーでした。

体格やポテンシャルは申し分なく、ランク的にはジャイアント馬場に次ぐNo.2。対戦相手もハーリー レイスやリック フレアー、ブルーザー ブロディらの名優相手…にも関わらず。

 

いつもニヤニヤしていて、顔も体もダラーっとしていて、やる気というか「迫力」が感じられない。

アメリカナイズされた悪い意味でのオーバーアクションが鼻について試合に緊迫感がなく、世界タイトルに挑戦しても「ずっと勝てない、勝ちたいという気迫も見えない、ベルトを巻けない善戦マン」

 

特に私が嫌悪したのは、鶴田のプロレスは「インチキ臭い」のです。一見さんが見たときに、鼻で笑われるようなお約束が多く(ロープに振ってのショルダースルーは必ず蹴り上げられ、対角線に振られたら鉄柱に肩から自爆し、ロープに股間を打って痙攣して悶絶…)、もちろんプロレスには攻守の切り替えが必要なのはわかりますが、それがあまりにもベタなのです。セオリー通り過ぎて、ファンの期待する「驚き」というものが皆無でした。

 

当時、猪木のストロングスタイルというのは、そういうプロレスの悪しき慣例、お約束を否定し、緊張感と驚きがありまくりでした。

ですので、猪木信者に染まりかけの私からしたら「そんなんだからプロレスが八百長だとバカにされるのだ、もっと練習してマジメにやれ!」と思っていました。

 

“炎の飛龍” “革命戦士” “風雲昇り龍”…同世代の一流選手には、いずれも代名詞、キャッチフレーズがありますが、鶴田にはありません。“若大将”はほかに呼びようがなく、仕方なくそう呼ばれただけです。この辺りに当時のプロレスファン(マスコミも)の支持、というものが現れています。

 

さすがの鶴田もようやく危機感が芽生えたのか、やがて心機一転、黒パンツに変え、ルー テーズ直伝の「ヘソで投げる」バックドロップを習得して、遂に日本人初となるAWA世界タイトルを巻いた頃(1984年)に少し見直しましたが、それでも、やはり鶴田は鶴田でした。

そんな鶴田がようやく、本来の強さを発揮するのは80年代後半、天龍との鶴龍抗争から90年代の三沢、川田、小橋ら超世代軍との闘争でした。鶴田は圧倒的な体格と底なしのパワー、スタミナで、必死で戦う彼らの壁となり、“怪物”として立ちはだかります。ここらで私はようやく、「鶴田はすごい、強い!」と感じました。

 

が、その直後(1992年)から体調を崩し、早くして引退(1999年)→死去(2000年)となるのですから、なんとも言えないですね…。

 


 

■Gスピリッツ「鶴田特集」

 

そんな鶴田について深く掘り下げたこの書籍。

佐藤昭雄氏、天龍源一郎氏、そして日テレの原プロデューサーがそれぞれ語っています。共通して

「鶴田は野心がなかった、プロモーターとして社長になる気もなかった、馬場さんがそれを許さなかったのもあるけど、本人もそういう気がなかった、だからスーパースターにはなれなかった」

という見方をしています(その裏に一部で有名な「サムソン轡田のクーデター計画」があったのでは?という話については、新たな逸話は出て来ません)。

 

面白かったのが天龍が語る「馬場vsハンセンの舞台裏」です。

「俺のスタンスがちょっと落ち着いてきた時期に、馬場さんとスタン・ハンセンの試合をジャンボと並んで“馬場さん、どれだけボロボロにされるのかな?”って思いながら観ていたんだけど、馬場さんが勝ったんだよね。ジャンボと二人で尻を突き合ったのを憶えてるよ(苦笑)」

「俺たちは“ジャイアント馬場という人が今までの名声を失うようなやられ方をするんじゃないか”という感じで観ていたから、“おいおい、勝っちゃったよ”っていうのが正直なところだったよ」

「あのハンセンを巧く凌いで、試合を形成して勝った馬場さんを観た時に、ジャンボは“勝てないよ、源ちゃん!馬場さんには”と言ったんだよね。思わず漏らした言葉だったと思うよ」

この馬場vsハンセン戦はコチラで紹介しましたが、当時小6の私とまったく同じ感想を、鶴田や天龍が感じていた、というのはスゴイです。

入門から鶴田を知る佐藤昭雄氏は「鶴田があまりに順調に二番手ポジションに着いてしまった事による弊害」と冷静に分析しています。器用でなんでもすぐにこなせたアマリロでの修行時代から、ライバル団体の猪木や長州を例に出して、なぜ鶴田は「オーバー(ブレイク)」しなかったのか、という話は説得力があります。

 


 

■鶴田vs長州戦

 

そしてもう一つ、「鶴田最強説」を唱える人が必ず持ち出す85年11月、大阪城での長州とのフルタイム戦。

 

日テレの当時のプロデューサー、原さんは

「ジャンボのレスリングは上手で、綺麗過ぎて…強過ぎて相手がいなかったんですよね。本当に強かった。ナチュラルな強さがあったから。長州と大阪城ホールで60分やったけど、長州はゼーゼー言っちゃって立てないんだもん。ジャンボは、その長州が立ってくるのを待ってるんだから。それだけの差があったんですよ」

と褒め称えていますが、天龍はまるで違う見方をしています。

「長州が初めてドロップキックをやるのも見たし、ジャーマンをやったりとか…いい試合をやろうと必死にもがいている長州を見て、何か可哀相だったよ。シャカリキになって向かっていく長州が小物に見えちゃって、そういうのをジャンボが見せようとしているのかと思って、嫌になっちゃったね」

「自分を大きく見せようとするジャンボに逆にちっぽけさを感じたよ。あの負けん気の強い長州が“もう一回”って言わなかったでしょ。それがすべてを物語っていると思うよ。ジャンボも“もう一回”と言わなかったってことは、お互いの中に何かがあったんですよ」

 

長州が乗り込んで来た時に最前線で抗争を繰り広げた天龍からしたら、「後から出てきて」「自分だけ強そうにみせて」「観客無視の試合をする」鶴田に対して「俺はジャンボのそういうところが嫌いなんだよ」とイライラしている感じは、当時から感じていました。

 

天龍は「プロとして」という論調で語りますが、本音は「長州をバカにして結果的に俺までバカにしやがって、ジャンボは何様だよ」なのではないかと思います。

 

自分ばかりが強く見せてもダメですし、自分が弱く見えてもダメ。イーブンを意識してなぁなぁの試合はもっと最悪。プロレスはかくも難しいのです。

 


 

■鶴田と藤波、前田

 

そしてもう一つ、鶴田と藤波、前田について。この本では前田の話は出てきませんが、佐藤昭雄氏のコメントで「藤波のサイズはアメリカ、全日ではキツイ」という話が出ます。これは先ほどの馬場ハンセン戦を観ると、素直に納得します。

鶴田が善戦マン当時の全日では190越えのガイジンがザラで、後に長州がハンセン、ブロディに手を焼いた時代よりも、もっと過酷でした。鶴田は確かに運動能力も心肺能力も持久力もズバ抜けていましたが、最大の武器はその「サイズ」でした。190を超えたサイズで、飛んだり投げたり、俊敏な動きができるのがスゴイのです。(逆にいえば藤波、長州はあのサイズしかなかったから常に必死、なワケですし、猪木は190あってアレをやるから逆立ちしても鶴田は勝てないワケです)

 

それを踏まえると、引退間際に話題になった鶴田の発言
「藤波をライバルと感じたことはない。前田と戦いたかった」
というのは、本音だったと思います。

私がオカダ カズチカがスゴイ、と言うのはコレなんですね。190超えでドロップキックがあれだけ跳べる、というだけで、レヴェルが違うのです。

 

いまのオカダvs全盛期の猪木、長州はスタイルが違い過ぎて観たくもありませんが、オカダカズチカvs昔のジャンボ鶴田、ってのは観てみたいですね(矛盾しますがオカダvs藤波戦も観たい)。

 


 

■ジャンボ鶴田とアントニオ猪木

 

オーソドックスなプロレスの範疇でいえば、ジャンボ鶴田は間違いなく「名レスラー」です。しかし、時代が悪すぎました。

 

日本人はアントニオ猪木という稀代の天才のプロレスを観てしまっていたからです。アントニオ猪木はプロレスというジャンルを超えて、「アントニオ猪木のプロレス」というものを創造しました。

 

それに比べるとオーソドックスなジャンボ鶴田のプロレスは、物足りなさしか感じません。

 

これは鶴田が悪いというより、猪木が異常だったのですが、全日プロのNo.2であれば、もう少しやりようがあっただろう、と思ってしまうのも事実です。

 

「本気を出せば鶴田が最強」と主張する人がいますが、逆に言えば鶴田は、最後までプロレスに本気を出さなかったですし、出す気もありませんでした。

 

一時期、鶴田を新日プロに引き抜こう、という動きがありました。さすがにそれはやり過ぎだ、と周囲に止められたと言います。

 

別に移籍はしなくても、若き日の鶴田は猪木と一度でもリングで合間見えていたら、何かが変わっていたと思います。

 

ただ、逆説的ですがジャンボ鶴田はあくまでも全日プロのジャンボ鶴田であり続けました。

そして、そのバランスで日本マット界は成り立っていたようにも思えるのです。

 

コメント

  1. ローリングドリーマー より:

    当時の鶴田さんをテレビ・雑誌や会場で見てきた者,鶴田さんの没後に諸処の情報を得た者としては少し見解が違います。70年代末~80年代初頭は馬場さんが急激な衰えを露呈しながらも,まだまだ猪木さんとイメージ上は同格か格上でなければなりませんでした。馬場さん自身がそう考えただけでなく,周りもそうしておきたかったかったでしょう。

    一方で,馬場さんを下げようとする轡田さんのクーデターが全日本の内部からありました。この件で鶴田さんは馬場さんに逆らうようなことをすればプロレス界にいられなくなると捉えたでしょう。当時は身辺が綺麗とは言えない人たちがプロレス界の内外に少なくありませんでしたが,鶴田さんはそういう世界に染まってまで経営に係わったり,他人に利用されたり他人を利用したくもなかったはずです(その点で新日本や猪木さんには触れたくなかったはずです)。

    それでもリング上では本当は自分がいちばん強い。当時はアイドル的な人気だったテリーファンクを参考にしても,不自然になってしまってファンはむしろ受けいれてくれない。エリートとして嫉妬されたり馬場さんに囲われてきて,鶴田さんが納得できるアドバイスをしてくれる人もいない。そんな諸々の状況に嫌気がさしていたのではないかと思います。そして何も考えないようにした(実際はプロレスを見返すための引退後のキャリアを考え始めた)。

    ファンとしても「ジャンボは馬場を越える実績を上げたり,権力を持ってはいけない立場なんだな」と思って見ていました。もちろん歯がゆかったです。そしてその結果は全日本の経営不振として露呈し,次は日本テレビが鶴田さんをトップに据える動きに出ます(黒タイツに衣替え → AWA世界王者奪取 → 鶴龍時代)。

    鶴田は身体を作り直してファイトスタイルも変化させ全盛期を迎えます。しかし人気は長州そして天龍へ。人間としての鶴田からすれば,暗い(そしてイキがった)雰囲気とスキャンダルで名声と金を得ていく彼らのやり方には納得いかなかったはずです(vs長州は鶴田が学んできた伝統的なNWAスタイルを突きつけた,長州がそれを崩せなかった試合と当時から見ています。ファイトスタイルも生き方も長州に影響を受け,野心を抱いた天龍とはここで決定的な温度差が生まれます)。

    そしてキャリアだった肝炎の発症。身体も萎んで天龍やファンとのすれ違いがまた拡がっていきます。天龍がSWSに動いたことでようやく自分が格上として存分に強さを見せつけることができる立場になり,怪物と呼ばれ出します(私からすれば全盛期はすでに過ぎていて,本当の鶴田はもっと強いのに,お前ら遅すぎる!と思っていました)。

    いずれにせよ,馬場が衰えようが,どんな外国人選手が来ようが,新日本が何を仕掛けようが,長州や天龍が吠えようが,UWFやFMWがブームとなろうが,三沢たちが奮起しようが,全日本は鶴田がいれば大丈夫と(背景の事情・鶴田なりの哲学や肝炎のことを知らなかった)若大将時代からずっと思っていました。

    昭和のファンの感覚として,鶴田にとやかく言う連中(とくに当時現役だった選手)に言いたかった。「だったらリングの上でジャンボを圧倒してみろよ!」それが私の本音です。肝炎での入院時に「またプロレスがしたい」と思いを募らせた鶴田,引退直後の一般マスコミのインタビューで「全盛期のときに前田日明と闘いたかった。プロレスのことをとやかく言うなら俺がやってやる!と思っていた」と語った鶴田。彼なりにプロレスを愛していたとも思います。

    今となっては時代が早すぎた・当時としては常識人過ぎた悲哀のプロレスラーがジャンボ鶴田です。

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