「スーパーストロングマシン」〜1984-2018 キン肉マンになり損ねた男


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今回は思いつきのプランにより誕生し、マット界の激動の中で翻弄されまくりの不運のマスクマンであり、「オマエは平田だろ!」「しょっぱい試合でスミマセン」などのネタ満載、しかしながらそのキャラクターと地道な貢献でファンに愛されつつ2018年に引退した「スーパーストロングマシン」についてご紹介します。

誕生の経緯を知る80年代のファンには「時代の徒花」として、その後のプロレス ファンにも、「妙な存在感のあるバイプレイヤー」として、記憶にあるレスラーではないでしょうか。

 


 

●目出し帽にアメフト プロテクターの怪覆面男

 

マシン初登場は1984(昭和59)年8月24日、この日が開幕戦の新日本プロレス ブラディ ファイトシリーズ 後楽園大会。

目出し帽にアメフトのプロテクターを付けた謎の怪覆面男と、白装束にテンガロンハットの奇天烈な出で立ちのマネージャーらしき2人組が乱入。解説席のアントニオ猪木と一悶着起こしました。

 


 

●激震の新日本プロレス

 

この1984年夏は前年、1983年夏の「クーデター事件」からの余波でタイガーマスクの引退第1次UWF旗揚げに伴う前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、藤原喜明、髙田伸彦、そしてこのシリーズ直前には木戸修も退団。

そして長州力ら維新軍団が新日本プロレスを離脱して全日本プロレスへ転戦する「大量離脱事件」が起こらんとする、まさにその渦中のタイミングです。

危機感を募らせる新日本プロレスは引き抜きからプロテクトするため、カルガリーに遠征中の平田淳嗣、ヒロ斎藤、高野俊二を呼び戻します。そして平田淳嗣に与えられたギミックが、新登場させるマスクマンへの転向でした。

 


 

●当初の予定は「キン肉マン」

 

「ストロングマシンの当初計画がキン肉マンだった」というのはあまりにも有名なお話です。

タイガーマスクの後継、ザ コブラが二番煎じでいまひとつ人気が出ない中、ライバル団体の全日本プロレスに2代目タイガーマスクが誕生、となった事で「新日本プロレスにキン肉マンが登場」という計画が発案され、既にマスコミを通じてPRされていました。

なので当時、会場の観客もTV中継の視聴者も「このマスクマンはキン肉マンだ」と理解した上で見ていたのです。

しかし。正義の味方であるハズのキン肉マンがなぜ悪役なのか?そしてなぜマスクの上に目出し帽を被って隠しているのか?

今日は予告編だから、また大会場で続編があるんだろう、と受け止めていました。

 

しかし、実際は違いました。

権利上の交渉が難航し、この時点で「キン肉マン」は使えない、という状況だったのです。というのもTVアニメ「キン肉マン」は全日本プロレス中継の日本テレビ。新日本プロレスを中継するテレビ朝日とは最も競合、対立するテレビ局です。

…そんなことは当時中学生の私にも想定できる、あまりにオソマツかつ杜撰なプランです。結局、マスク デザインすら公開されておらず、当時、新日本プロレスのキン肉マン登場計画がどこまで本気だったのか、謎過ぎます。

 

ともあれ周囲の説得で渋々「キン肉マン」への転身を納得していた平田氏の覚悟はオトナの事情で没になり、宙ぶらりんに。

今さら素顔での凱旋とはできず、平田氏は自ら新たなマスクマンのコンセプトを練りました。

 


 

●ストロングマシンの誕生

 

後に平田氏自ら語ったところによれば、楳図かずおの「笑い仮面」をモチーフにしたマスクを自ら選んだ、といいます。

「叩かれても蹴られても笑っているイメージですね。顔全体がすっぽり覆われた、それまでにはない画期的なマスクでした」

 

平田氏は被ることで人格を変えられるマスクマンの快感に目覚め始めます。

「初めてマスクをかぶったとき、自分が変わる感覚があって。シフトチェンジというか、表情を隠すことで不思議と別なものが出てくる。キン肉マンはイヤだったけど、これは面白いと思って、今後はマスクマンでいこうと決めました」

 

8月31日、南足柄のテレビマッチに目出し帽のマスクマンと若松が再び出現。ここで初めて、マスクとリングネーム「ストロングマシーン」が明かされます。

 

このネーミングはマネージャーの若松市政(後にショーグンKYワカマツと改名)によるものとされますが…「コイツは戦う機械…ストロング マシーンだ!」というのは当時、思いつきにも程があり、細かい設定が決まっていない見切り発車感がアリアリで、なかなかの失笑モノでした。※当時は「マシーン」と音引きありで呼称されましたが、いつのまにか「マシン」になりました

 

デビュー戦は9月7日、福岡スポーツセンターでなんといきなりアントニオ猪木とのシングルマッチ

正体が平田であること(この時点でプロレス ファンには周知の事実でした)を考えると大抜擢ですが、マシンはマスク効果か猪木相手にも臆することなく戦い、好感触を得ます(結果は若松乱入で反則負け)。

 

さらにはこの試合前に全く同じマスクとコスチュームの2号が出現。

2号の正体は「力抜山」のリングネームで参戦していた韓国人レスラーの梁承揮。2号は猪木vsアティサノエの異種格闘技戦が放送された大阪大会で場外にものすごい飛距離のノータッチ トペを見せたのが、強烈なインパクトでした。

 


 

●「増殖するマシン軍団」というギミックが大ウケ

 

翌1985年1月1日、赤のコスチュームで3号、4号が登場。黒いコスチュームの1号、2号と併せてマシン軍団は4人となり、のちに4人が全く同じ黒いマスク、コスチュームで試合中にレフェリーの目を盗んで入れ替わるトリックプレイを用いて撹乱

実況の古舘伊知郎アナはマシン軍を「戦慄の殺戮マシーン」「暗黒増殖軍団」「戦う金太郎飴」、そしてマネージャー若松市政を「悪の正太郎くん」「地獄のお茶の水博士」「悪の羊飼い」などと呼び、長州ら維新軍団が離脱して手薄となった新日本プロレスの興行、TV中継に欠かせない悪役軍団となっていきました。

その人気ブリは「ストロングマシーン We Are No.1」という、若松氏がひたすら「ストロングマシーンWe Are No.1」「ゴー マシン ゴー」と連呼するだけのシングル レコードが発売されるほど。

 

そして素顔の平田氏、若松氏は共にプロレスラーらしからぬ実直で真面目な人柄で有名。その2人が人手不足を補うために急造された、粗製濫造の極みのような子供だましの、既に企画倒れのキャラを懸命に演じるところに、妙なペーソスとシンパシーを感じて応援した人も多かったように思います。

 

▲猪木が対抗して高野俊二にマシンマスクを被せたことも

 


 

●仲間割れと脱退、スーパーストロングマシン誕生

 

1985年4月18日。アントニオ猪木とブルーザーブロディ注目の初対決が行われた両国大会で、マシン1号は藤波辰巳とシングルマッチで対決します。シルバーのマスクで登場したマシンはマネージャー若松のパウダー誤爆を受けて、久々に繰り出されたドラゴン スープレックスで撃沈。これでマシン1号と若松の間の亀裂が決定的となってマシン1号は軍団を脱退。

以降、「スーパーストロングマシン」と改名してベビーフェイス転向となりました。

 


 

●「オマエは平田だろ」事件

 

そして5月17日、熊本県立総合体育館大会でSSマシンはマシン軍団から藤波を救出。ここでマイクを取った藤波から「オマエは平田だろ!」とTV生中継で全国に名指しされる事件が起こりました。

いまでは藤波自身が「咄嗟に言うことが思いつかずにうっかり正体をバラしてしまった」とネタにしていますが…

当時の状況からして、軍団を脱退してベビーターン(新日本隊入り)するのであればもうマスクマンのマシンである必要はなく、素顔の平田に戻ればいいのに、というのは誰もが感じていたことで、団体側もそう持っていく段取りだったと思います。

 

平田淳嗣はもともと、前田日明、ジョージ高野と「若手三羽烏」と期待された選手で、「キン肉マン ギミックが成立しなかったのにいつまでもマシンじゃもったいない」という存在でした。マシンはそれに応えるように自らマスクを脱ぎますが、素顔はタオルで隠したまま会場を後にします。が、マシンが平田に戻るのは時間の問題、というのが周囲の一致した見方でした。

 

しかし、平田氏はそんな周囲の声をよそに、マスクマンであることにこだわりを見せます。

次戦の東京大会で猪木、藤波組と対戦したSSマシンは今度は猪木からマイクで「おい、平田!」と呼びかけられます。これに応え再び自らマスクの紐を解くSSマシンに場内は大歓声。しかし、マスクの下から現れたのは素顔ではなく、もう一枚のマシンマスク。平田氏は「藤波さんがポカーンとしていたのと、猪木さんが“やるな、こいつ”って表情でニヤッと笑ったのがすごく印象的でね。ざまあみろって(笑)」と語っています。

 

結局、平田氏はその後もそのままスーパーストロングマシンとして出場を続けましたが、新日本プロレスは「もうマシンはいいよ」とばかりにストーリーラインの主軸から外しにかかります。マシンのマスクとキャラクターに愛着を持っていた平田氏はその都合よく自分を利用してキャラクターを使い捨てにしようとする流れに不信感を抱き、そこへ新天地から誘いの声がかかります。

 


 

●カルガリーハリケーンズの悲劇

 

1985年春頃からジャパンプロレスが全日本プロレスから独立してTBSでテレビ中継を持つプランが浮上。

スーパーストロングマシンはヒロ斎藤、高野俊二らと「カルガリーハリケーンズ」というユニットを結成し、8月のジャパンプロレス大阪城ホール大会に姿を見せ、参戦を表明。

しかし。その後のジャパンプロレスとTBSの契約話はうまくいかず、ジャパンプロレスは全日本プロレス内のユニットとしての活動を強いられます。加えて、このカルガリーハリケーンズ参戦は全日本プロレス ジャイアント馬場に話が通っていなかったため、新日本プロレスやテレビ朝日との契約トラブルを怖れてなかなか全日本プロレス参戦および日本テレビでの中継に登場が許されず、事実上「干されて」しまいます。

 

この時期、長州らジャパンプロレス勢移籍の報復として新日本プロレスは全日本プロレスからブルーザー ブロディ、越中詩郎、ケンドー ナガサキを引き抜き、その後もザ グレート カブキ、プリンス トンガなどを狙っていました。この引き抜き合戦は金銭的にも信用的にも双方にとってダメージ、と考えた馬場は坂口、猪木と相次いで会談し、双方の弁護士の立会いの下「引き抜き防止協定」を締結しようとしていたのです。

 

このタイミングでのカルガリーハリケーンズの動きは余計な混乱を招くだけで、間が悪すぎました。

結局、カルガリーハリケーンズの全日本プロレス正式参戦は半年以上が経過した1986年4月。これはせっかく引き抜いたのに持ち腐れになっていることを危惧したジャパンプロレスがテレビ朝日に違約金を払い、ようやく実現したものでした。

カルガリーハリケーンズは長州らが新日本プロレスにUターンする際も置いてけぼりをくらうなど、実に間の悪い不運なユニット。

当初の構想は日本初の「レスラーによるフリーランス プロダクション ユニット」として新日本、全日本、ジャパンだけでなく第一次UWFも含めた各団体に参戦するプランだったようですが、現実はそんなに甘くなく、早過ぎた構想で辛い目に遭いまくりでした。

 


 

●ジャイアントマシンがアメリカで大流行

 

そんな本家SSマシン達の苦渋をよそに、新日本プロレスではなんとアンドレ ザ ジャイアントにマスクを被せ、ジャイアント マシーンにするという企画を放ちます。パートナーはマスクド スーパースターの変身であるスーパーマシーン、マネージャーは本家と同じく若松、という念の入れようです。

 

この企画はアンドレ本人がノリノリで大成功し、海を渡りアメリカWWFマットにまで輸出。

「日本出身のマスクマン」としてビッグマシーン(ブラックジャックマリガン)、ハルク マシーン(ハルク ホーガン)、パイパー マシーン(ロディ パイパー)、クラッシャー マシーン(クラッシャー リソワスキー)、などのマシン軍団が増殖して悪ノリ気味に大盛り上がり。

思いつきのギミックが海外まで広まりここまで流行るのですから、何が当たるのかわからないものですね。

 


 

●その後のSSマシン

 

新日本プロレスに復帰したSSマシンは若手時代ライバルだった前田日明との激闘が期待されましたが不発に終わり、

ジョージ高野との「烈風隊」、橋本真也のパートナー、「ブロンド アウトローズ」「レイジング スタッフ」「魔界倶楽部」「青義軍」などさまざまなユニットに参加しますが、いずれも二番手、バイプレーヤーに徹し、決して主役になることはありませんでした。

 

1994年10月には蝶野正洋とのタッグで仲間割れして「しょっぱい試合でスミマセン」の迷マイクを残し、

2000年頃から現場責任者や道場コーチ役なども務めますが2005年、長州力が現場監督に復帰した日にはそれまでその職にあった平田氏を「仕事しないから解雇。東京に返して居残りさせる」とブチギレられたり。

 

どうにも鈍臭くて鳴かず飛ばず感がありまくります。

 

しかしながら、知名度と会場人気は高く、PRIDEのリングで人気絶頂の桜庭和志が「サクマシン」マスクで入場したり、まったく関係ないところで他団体だけでなくアイドル界までもでマシン軍団が増殖したり…何かとイジられ、愛されるキャラだったのは、平田氏本人の実直な人柄と、マシンのキャラクター性の高さによるものなのでしょう。

 


 

●惜しまれつつ現役を引退!

 

2018年6月19日。後楽園ホールで行われた「スーパーストロングマシン引退セレモニー」では、棚橋弘至、田口隆祐、中西学、永田裕志、天山広吉がマシン マスクで登場し、セコンドにはマネージャー将軍KYワカマツまで参加。

満場のマシン コールの中、テンカウントゴングで感動の引退となりました。

 

UWFで一時代を築いた前田日明氏、SWSに移籍してトップ選手になりながらその後辛酸を舐めたジョージ高野氏と比べても…最後までストロングマシンを貫いた平田淳嗣氏のレスラー生活は、波乱万丈ながら幸せな幕引きだったのが、なによりでした。

「日本ではシングル王者にはなれなかったけど、会社だって皆が皆、社長になれるわけじゃないでしょ。自分はトップではなくて、2番手の人生。そういう人がいないと、世間もプロレスも成り立たない。全然後悔してないですよ。マシンになって、マシンで引退できてよかった」

 

 

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3 Comments

  1. ズンとねる

    初登場時にかぶっていた、キン肉マンのマスク、2000年位の雑誌Numberに載っていて、どっかのプロレスショップに展示してある、とのことだったと記憶してます。 新日Uターンして、前田を大流血させて、抗争か?と思ってたら、世代闘争始まってしまい、その最中のサマーナイトフィバー2日目にシングル組まれるも、好勝負とはならず、年末のタッグリーグで前田と出場も、例の顔面蹴りで、空中分解。ほんと、間が悪いですね。 新日Uターンまでは、トップ戦線に割り込めた感じもしましたが…。引退の時、高野兄弟きて欲しかったです。

    • MIYA TERU

      ズンとねるさん、ありがとうございます。実在したのですね。。。でもキン肉マンは実現しなくてよかったですよね。イメージ全然違いますし、苦労したと思います。ジョージとは一時期タッグ組んでましたが、前田とはすれ違いでしたよね。。。

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