「テリー ファンク引退試合」という黒歴史〜1983年の夏休み

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夏休み最後の日、というのは小学生にとって憂鬱なものですが、この年はさらに特別、ブルーな1日でした。

1983(昭和58)年8月31日。

全日本プロレスきってのアイドル レスラー「テリー ファンク引退」の日です。

人気者とはいえ、ガイジン レスラーの引退試合が日本で行われるのは前代未聞の出来事。

今回は、夏休み最後の日の「引退狂想曲」から、安直なカムバックでファンの怒りを買う「黒歴史化」について、振り返ります。

 


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●「テリー引退」計画

 

「テリー引退」は、その3年も前から予告されていました。

 

1980(昭和55)年10月。

「ジャイアント シリーズ」に来日したテリーは「私は3年後の1983年6月30日、誕生日で引退する」と宣言。

その理由は「古傷の膝が手術をしたものの、もう限界。動けるうちに…」というものでした。

 

これにはジャイアント馬場も寝耳に水。大慌てで慰留したものの、本人の意思は固い…的な報道だったと思います。

 

当時のテリーの膝がもはやパンク寸前、というのは誰もが知る事実ですし、当の本人も最初は素直な気持ちだったのかもしれません。

 

いまもって、事の発端とその後の経緯はよくわかりませんが、結果としてこの「テリー引退」は当時、人気絶頂を極めつつあったライバル団体、アントニオ猪木率いる新日本プロレスに対抗する、“ビジネスの切り札”となりました。

 


●全日本プロレスの「打倒 IWGP」作戦

 

1983(昭和58)年といえば、アントニオ猪木が「世界制覇」を掲げた第1回IWGPが5月に開催される年。

 

ジャイアント馬場率いる全日本プロレスはその対策として、春の本場所、シングル トーナメントの「チャンピオン カーニバル」を休止し、総力を結集して招聘した豪華ガイジンレスラーによる「グランド チャンピオン カーニバルⅠ〜Ⅲ」を、なんと3シリーズ ブチ抜きで開催。

 

そして7〜8月にかけての「グランド チャンピオン カーニバルⅢ」に「テリー ファンクさよならシリーズ」というサブ タイトルが付けられました。

 

奇しくも新日本プロレスは、アントニオ猪木が6月2日のIWGP優勝決定戦で失神KO負け、翌シリーズを欠場中。

さらにはもう1人のスーパースター、初代タイガーマスクが8月10日に電撃引退してしまい、社内はクーデターでゴタゴタの真っ最中でした。

 

当時、中学1年の私はそこまでリンクして捉えていませんでしたが、

同じ8月にタイガーマスクとテリー ファンクがダブルで引退するなんて、なんとも残酷な、ヒドイ夏休みです。

 


●テリーさよならシリーズ

 

全日本プロレス「テリーさよならシリーズ」は、全国で一大フィーバーを巻き起こします。

当時のテリーは39歳。しかしながら、チアガール姿の女性ファンが親衛隊を結成するほどのアイドル的な人気を誇り、全国各地の興行は追っかけファンまで発生して、行く先々で軒並み満員御礼。

 

引退記念の自伝「さよなら日本の友達!オレは…アマリロの熱き風になる」をはじめ関連本が多数出版され、プロレスマスコミはさしずめ「テリー引退バブル」の様相。

 

そして「引退試合」は8月31日、最終戦の蔵前国技館です。

 

日本テレビは「土曜トップスペシャル」で7時半からの特番枠を用意しました。

 


●テリー ゴディの気の毒な”抜擢”

 

注目の引退試合のカードは、ザ ファンクスvsスタン ハンセン&テリー ゴディ組。

 

順当にいけば当然、ファンクスvsハンセン&ブロディのミラクル パワー コンビ、となるところですが、それだとハッピーエンドになりようがありません。

そのためブロディは鶴田とのインターヘビー級王座をかけたタイトルマッチということで外れ、ハンセンのパートナーはゴディ、というお話です。

 

テリー ゴディは当時、アメリカ テキサス マットでマイケル ヘイズと“フリー バーズ”を結成してエリック兄弟とタッグ タイトルを争う若手の注目株で、このシリーズが待望の初来日。

 

とはいえ、知名度、キャリアからして明らかに格下で、ハンセンとのタッグ経験もなし。

ゴディ起用その時点で「負け役はコイツ」、というのがモロバレの“気の毒な抜擢“でした。

 

ゴディはその後、新日本プロレスからトレード移籍したスティーブ ウイリアムスとの“殺人魚雷コンビ”で四天王時代の全日本プロレスの主要メンバーとなりましたが、初来日、初認識したのがこのテリー引退試合、の我々世代からすると、どうにも「物分かりの良い便利屋」的なイメージが拭えなくなってしまいました。

 


●超満員の蔵前国技館

 

8月31日当日。蔵前国技館は13,600人の超満員となりました。

 

師匠の引退にも関わらず膝を骨折して欠場中の大仁田厚に代わり、凱旋帰国した渕正信がチャボ ゲレロの持つJr.ヘビー級王座に挑むも敗れ、

 

セミファイナルはジャンボ鶴田がブロディのインターナショナル ヘビー級王座に挑戦。なんとも…なリングアウト勝ちで鶴田がタイトル奪取。

 

そんなこんなもあくまで「テリー引退」を観に来た観客からしたら“刺身のツマ”でした。

 

いよいよ、メインイベント。

悲鳴にも似たテリー コールの中、「スピニング トー ホールド」のテーマに乗ってファンクスが入場して来ました。

 

試合前に、テリー引退セレモニーが行われます。

当時の全日本プロレス社長(日本テレビからの出向)松根光雄氏が感謝状を読み上げ、盟友であるジャイアント馬場と笑顔で握手。

 

そんな和やかムードを吹き飛ばすように、「サンライズ」に乗ってハンセン&ゴディが入場します。

試合はハンセン、ゴディ組が遠慮なしの猛烈なパワーによるラフ殺法でファンクスは防戦一方。

テリーとハンセンは共に流血して盛り上げます。

 

試合はついにフィニッシュへ。

ドリーとハンセンが場外に消え、リング上にはテリーとゴディ。

 

テリーはゴディのボディプレスをかわすと、トップロープからの回転エビ固め、という本邦初公開のスーパー丸め込み技でピンフォール勝ち!

 

必殺のウェスタン ラリアットが出せず終いで欲求不満のハンセンは、若手レスラーを次々とラリアット葬で鬱憤を晴らして退場して行きました。

 

もしかして最後は師であるテリーと握手して和解…?というファンの期待を裏切って、あくまでも自身のスタイルを貫いたハンセンは大したものでした。

1983 .8.31 蔵前 テリーファンク引退試合 ザファンクス VS スタンハンセン テリーゴディ

 

●涙の「フォーエバー」絶叫

 

試合後のリング、テリーはドリーと並びマイクを持ってスポットライトを浴びながら「アイ ラブ ユー!サヨナラ!フォエーバー!」と涙の絶叫。

 

スピニング トーホールドの鳴り響く館内はファンの涙に包まれ、こうして稀代のアイドル レスラー、テリー ファンクの引退試合は大成功に終わりました。

 

ちなみにTV中継の視聴率は14.3%。関係者の期待より低い数字だとは思いますが、当時の土曜夜は「8時だよ全員集合」(TBS)、「おれたちひょうきん族」(フジテレビ)、「暴れん坊将軍」(テレビ朝日)などが並ぶ激戦区で、及第点・・・だったのでしょうか。

 


●カムバック プランにファン猛反発

 

テリーはこの後、ハリウッド映画やテレビドラマなど俳優への転身を試みますが、この年の年末、「’83 世界最強タッグ」にはドリー&馬場のセコンドとして来日。

ハンセン&ブロディ組にいたぶられるドリーと馬場に加勢して顰蹙を買います。

 

翌1984年2月のニック ボックウィンクルvsジャンボ鶴田のAWA世界ヘビー級タイトルマッチでは特別レフェリーを勤め、そして三沢タイガーマスク デビューの田園コロシアム大会(1984年8月26日)において、とうとうカムバックを宣言。

年末の「’84 世界最強タッグリーグ戦」でファンクス復活!となります。

 

このたった1年半の引退→カンバックは、引退シリーズと引退試合が大盛り上がりだっただけに、ほとんどのプロレス ファンがバカ負けし、怒りの声が上がりました。

 

おそらく全日本プロレス、テリー自身共に、引退する時点で“引退からのカンバック”が「さらなる感動ストーリーとしてファンに受け入れられる」という甘いヨミだった、としか思えません。

 

しかしながら、日本における「引退」はもっと厳粛なものです。

 

まだできるのに…と惜しまれつつ引退を決意したテリーの「潔さ」込みで「感動」していた日本のファンはどっちらけ。「これだからプロレスは…」という落胆までが加わり、「ファンをナメるな!」「ファンの気持ちを裏切る悪どいやり方!」として、猛反発を喰らいます。

 

加えて、折しも全日本プロレスのリング上はハンセン&ブロディ、鶴田&天龍、ロード ウォーリアーズ、そして長州力らジャパン勢ら若い世代が台頭した時期で、ファンクスなどのオールドタイマーはもはや、ファンのニーズがなくなっていました。

 

それらが重なり、この早過ぎるテリー カムバックは、まったくもって受け入れられませんでした。

 


●その後のテリーファンク

 

テリーはその後も幾度となく引退⇒カンバックを繰り返し、90年代以降はインディ団体を転戦しザ・シークの甥、サブゥーとの激闘で「ハードコア・レスリングの先駆者」となりました。

 

その後もWCW、ECW、WWF(現在のWWE)などで活躍し、2009年には兄ドリーと共にWWE殿堂入り。2011年には因縁のライバル、アブドーラ・ザ・ブッチャーのWWE殿堂入りのインダクターを務めるなど、文字通り”リビング・レジェンド”として世界的にリスペクトされています(日本での試合は、2013年が最後のようです)。

 


●プロレス界の「引退ビジネス」

 

テリーファンクの大失敗にも関わらず、この悪しき「引退ビジネスからのカムバック商法」はその後も弟子である大仁田厚が受け継ぎ、それだけならまだしも、よりによってそういうアングルが最も似合わない長州力など、何度も繰り返されました。

 

「所詮プロレスなんだから、いいじゃないの」という声もありますが…

 

私は逆にプロレスだからこそ、余計に許されない気がするのですよね。

 

そもそも引退の必要がないジャンルなのに、わざわざ引退と称して興行を打ち、チケットを売るのは詐欺でしかありません。

プロレスラーは死ぬまで現役でいいし、仮に引退するならアントニオ猪木のように、意地でもカムバックはしないでもらいたい(エキシビジョンは観たいですけどね)。

 

事情や言い訳はどうあれ「武士に二言はない」「潔い散り際」が美徳とされる日本において「引退します詐欺ビジネス」は、到底受け入れられず、晩節を汚すだけの愚策だと思うのです。

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