「上田馬之助」〜①極悪レスラー“まだら狼”の生涯

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今回より、昭和プロレス史「猪木 日本プロレス追放事件」の影の主役「上田馬之助」について、vsアントニオ猪木、vsジャイアント馬場の2つの試合を通して掘り下げてみます。

 

この2試合に共通するキーワードは”腕折り”上田馬之助はどのようにこの両巨頭と戦うことになり、そして腕を折られることになったのか。

 

正直、私は上田馬之助という選手にはなんの思い入れもなく、悪役ブーム、UWF絡みなどで何度かあった「馬之助再評価」に対しても実に冷ややかだったのですが、日プロ末期の因縁を知ってからだと、また違った味わいがあるやもしれん…というところです。

また、猪木はともかく、馬場との「あの試合」は探ってみたかったのです。

 

ずはその前に、上田馬之助の生涯について振り返ります。 ※文中敬称略


 

◆上田馬之助 概歴

 

1940(昭和15)年 6月20日愛知県弥富市生まれ(本名:上田裕司)

1958(昭和33)年  高校中退、大相撲・追手風部屋に入門

1960(昭和35)年 同期のミスター林の誘いを受け日本プロレス入門

1961(昭和36)年4月 平井光明(ミツヒライ)戦でプロデビュー

 

1960年、ジャイアント馬場、アントニオ猪木と同期入門です。

年齢は1938(昭和12)年生まれの馬場より2歳下、1943(昭和18)年生まれの猪木より2歳上です。

 

若手時代の上田はスパーリング、ガチンコで強さを発揮、日プロ入門3年目、関西巡業の中で行われた「若手トーナメント」で優勝、翌1964年も2年連続で優勝。決め技は全てダブル リスト(チキンウィング)アームロック

 

ただし、あまりに退屈な試合が多く「眠狂四郎」というあだ名を付けられました。


 

この頃のエピソードとしてはこんな話があります。(『日本プロレス事件史 Vol.20 入団・退団』ベースボールマガジン社より)

 

上田馬之助は、第8回ワールドリーグ戦に、ミツ・ヒライとともに抜擢された。渡米歴のあるミツ・ヒライの抜擢は順当で、上田馬之助の抜擢は、星野勘太郎、山本小鉄、グレート小鹿らの嫉妬の対象になるように思われたが、実際は逆で、「“きめっこ”の強かった上田馬之助の実力を知っていた同僚レスラーたちは、納得していただろう」と同僚の一人であるマティ鈴木は語る。しかし、上田馬之助には「華」がなかった。吉村道明からも「強いだけでは、この世界では飯が食えない」と言われていた。

 


 

1966(昭和41)年 アメリカに渡りテネシーやテキサスを転戦
「プロフェッサー・イトー」「ミスター・イトー」というリングネームでヒールレスラーとなり、NWA世界タッグ王座やNWA世界ジュニアヘビー級王座にも輝いた

1970(昭和45)年3月 帰国

凱旋帰国として華々しく取り上げられることもなく、馬場・猪木はもちろん、ベテランの大木や吉村、プロレス入りしたての坂口の陰にも隠れ、中堅レスラーとして地味な存在のままでした。

   

1971(昭和46)年 猪木追放(上田密告)事件

ここで「猪木追放事件」が起こる→詳しくはコチラ。

 


 

1972(昭和47)年 馬場も独立し全日プロ旗揚げ。

坂口は猪木が設立した新日プロへ移籍
残された上田は大木金太郎とのコンビでインターナショナル タッグ王座を奪取するも、その一か月後に日本プロレスは崩壊

 

その後、馬場が設立した全日プロに「日本テレビと契約したレスラー」として参戦するも、マッチメイクで冷遇される

少しでも陣容を強化したい日本テレビの意向もあり古巣・日本プロレスの残党を吸収した全日本プロレスですが、馬場からすると「せっかく自身の新団体を旗揚げしたのに」となるのは当然です。年長者の日プロOBは扱いにくく、そもそも独立旗揚げの際に合流しなかったメンツですから、うまくいくはずもありません。それでもグレート小鹿、高千穂遥らはうまく馴染みましたが、上田馬之助と松岡厳鉄の2人はどうにもならず、しだいにマッチメークからも外されるようになります。

 

これに反発した上田はフリーランスになるも、日本テレビとの契約が残っていたため、テレビ朝日と契約している新日本プロレスや、テレビ東京と契約している国際プロレスへの参戦ができず、再び渡米しヒールとして暴れまわったのです。

 


 

1976(昭和51)年 上田は日本テレビとの契約が切れ、国際プロレスに参戦

この時期から前髪を金髪に染めた”まだら狼”となり、イスや竹刀での反則主体の悪役ファイトにスタイルを変え、日本人初の悪役(ヒール)レスラーとして観客の度肝を抜きます。

 

同年6月、ラッシャー木村を破りIWA世界ヘビー級王座を奪取


 

この国プロでの上田のヒールとしての仕事に目をつけたのが新日本プロレスでした。

 

1977(昭和52)年1月 上田は新日本プロレスのリングに登場、ネクタイなしのスーツ姿で猪木に挑戦状を叩きつける

新日最凶ヒールのタイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビ結成。上田の役割はシンの公私に渡るパートナーでした。新日勢とは一線を画し、ホテルの手配、飛行機や列車のチケットの手配、全てを上田がサポートした。リングでは暴れまわる“狂虎”シンをコントロールする“裏切り者日本人レスラー”に徹します。

上田「タイガー・ジェット・シンは普段はターバンを着けていなかった。でも彼にアドバイスしたらずっと普段からターバンをするようになった。ターバンを着けていれば誰だって、タイガー・ジェット・シンってわかる」

 

シン「彼は偉大なファイターでありウォリアーだった。それと同時にリングを降りれば本当の紳士で、彼のような人というのはめったにいない。本当に素晴らしい人間だ。上田サンは本物のプロフェッショナルで、ヒールとして他のレスラーと食事をしたり行動をするようなことをしなかった。だから朝起きるといつも私を起こしに来てくれて、朝食を一緒に摂って、それから昼食も夕食もいつも彼と一緒だった。我々はいつも一緒に行動していた。インドと日本、生まれた場所は違うけど本当の兄弟のように付き合い、同じ時を過ごした。我々は世界一のヒールタッグだったし、上田サンとの友情は40年に渡って続いてきた。それは今までも、そしてこれからもずっと変わらないものなんだ」

1977(昭和52)年2月 シン&上田組が坂口征二&ストロング小林を破り、NWA北米タッグ王座を獲得

その後も仲間割れ、再結成などを繰り返しながら新日初期創設期の最大の功労者となります。

1978(昭和53)年2月 アントニオ猪木と史上初の釘板デスマッチで決着戦を行い、TKO負け
→②でご紹介します。


 

1981(昭和56)年 上田はシンとともに全日本プロレスに戦場を移す

 

1983(昭和58)年3月 ジャイアント馬場とのシングルマッチでジャンピング アームブリーカーによりレフェリーストップに追い込まれる
→③でご紹介します

1983(昭和58)年7月 シンとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破りインターナショナル タッグ王座を奪取

ちなみにこの頃、上田は悪役レスラーとしてバラエティ番組などでブレイク。1983年には自伝、なぎらたけし作詞作曲、コント赤信号が歌う『男は馬之助』というレコードまで出る人気ぶりでした。


 

1985(昭和60)年 上田は単身、新日本プロレスに参戦。若手ヒールのヒロ斎藤とコンビを結成するも、仲間割れ

 

1985(昭和60)年9月 大量離脱後に東京体育館で行われたアントニオ猪木 – 藤波辰巳戦の試合後、リングに上がり両者の健闘を讃える

 

1986(昭和61)年 前田日明 率いるUWFが新日に参戦。上田は新日正規軍の助っ人として5vs5イリミネーションマッチでUWF軍 大将 前田の蹴りを顔面で受け止めて両者リングアウト、心中する大活躍で新日プロ軍の勝利に貢献、存在感を示す

上田「当時、他のレスラーは前田日明のキックを恐れていたが、前田のキックが何だといいたい。別にどうってことはない

 


 

1996(平成8)年3月 IWAジャパンのシリーズ最終戦が行われた仙台市から東京への帰京中、東北自動車道で交通事故に遭遇。助手席の上田はフロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられる大事故だったが一命を取り留めた。

上田本人は車が衝突した瞬間以降のことは記憶に残っていなかったといいます。その事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされた。運転していたIWAジャパンの営業部員が死亡し、その話を聞いたときは「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したとされます。

 

上田はこの大怪我によって引退に追い込まれました。引退後、上田は妻の故郷の大分県臼杵市に移住し、リサイクルショップを経営しながらリハビリに励みました。また、全国各地の施設慰問や交通事故の遺児を励ますボランティア活動講演活動を行います。

半身不随となり、食事や排泄も満足にできず、自殺を考えていた上田を支えたのは妻だった。妻は昼夜問わず、上田を介護をし続けました。

2011(平成23)年12月21日 上田は果物をのどに詰まらせ同市内の病院に搬送されたが、午前10時7分、息を引き取った。享年71歳


 

上田の妻「私も亡くなった事実が受け入れられないんです。いつも夜中にタンを取ってあげたりしてたんで、いまでも夜何度も目が覚めて『タンがつまってないかな』とか思っちゃうし。スーパーに行ってもティッシュやらなんやら、たくさん買おうとしては「あ、もう買わなくていいんだ」と思ったり…。亡くなる数日前から『最近、ちょっと様子がおかしいなぁ』とは思ってたんですね。それで亡くなった当日の朝も元気がなかったんですよ。それで朝食でパンを一切れちぎって食べさせようとしたら『パンはいいよ』って言うんです。でも、『朝から体力つけんと一日中ダメになるよ。それじゃ、バナナ食べよう』って、バナナを剥いて、ほんのひとかけらを食べさせたんですけど、そしたら『喉までいかない』って。だから『噛むだけ噛んで』って言って、野菜ジュースで流し込むようにして飲ませたんですね。そのあと口が半開きになって、『あら、どうかしたの?』って言ったら、返事も返って来ん。『あれ、おかしいな』って思ってるときに、9時15分か20分くらいに訪問看護の人が来たから、『口が半開きになってから返事が返ってこん』って言って。胸を押さえたりしてみたんですけど、なんか様子がおかしいってことで救急車を呼んで、9時半には救急車が来たんですね。でも、そのとき救急車には訪問看護の人が二人、救急隊員も二人乗ったんで、私は乗れなくて、あとから車でついて行ったんです。で、あの人が病室に入るのと私が着いたのと一緒になって。病院の先生が『MRIにかけていいですか?』って言うから『どうぞ』って言って。そのあと心電図みたいなのがありまして、最初は動いてましたけど、しばらくしたらず~っとまっすぐになっとったですよ。そして『ただいま10時7分、お亡くなりになりました』って……。そのときがやっぱり一番辛かった。座り込んで、立てんようになってしまって。あとから私、自分を責めたんです。私がもうちょっと早く気づいてたら、もうちょっと生きとったものだと思うもんだから。『悪かったね、ごめんね、ごめんね』言うて、ほっぺたを叩いて『起きて、起きて』って言うたけど…。もう『息を引き取った』と言われたとき、あのときが一番辛かったですね。いまはなんかね…さびしい。もの凄くさびしい。唯一、良かったなと思うのは、まったく苦しまずに、静かに息を引き取ったことですかね。でも、私自身は『あのとき、異変に気づいてあげればよかった』って後悔ばかりで…。死んだら、こんなにもさみしいもんなんですね」

 

タイガー・ジェット・シン「日本のたくさんのメディアが私に電話を掛けてきた。本当にたくさんのメディアがね。上田さんの死について話してほしいということだったが、私は話さなかった。すごくショックで、とても悲しい出来事だった。上田さんの死は本当に悲しかった。神が与えてくれたパートナーで、1番の親友である上田さんの魂が安らかであることを祈ります」

 

アントニオ猪木「上田さんはかなりぶきっちょな人だから、かなり努力したと思う。強烈なイメージは新日に上がったときから。こんな悪いタイガー・ジェット・シンに日本人がどうして加担するんだ?って、(あの二人のコンビは)俺がひらめいたんだ。当時のシンは、世の中でこんな悪いヤツは他にいないんじゃないかっていうくらいみんなに憎まれていたよね。そこでその極悪人に加担する日本人といったら、これはもう憎まれないわけがないじゃないですか。上田のひとつの変身のプログラムとして、彼の善人としての顔の裏側にある、無意識の悪の顔というかね、それをシンと組ませることで引き出そうという…シンとタッグを組んでヒールになりきって、プランに乗りきった彼も偉かったと思います。同期が去って寂しいよ」

 

生前、上田「一番の親友だった寛ちゃんから、公然と裏切り者呼ばわりされるようになった。これがなによりも悲しかった。今でも、その気持ちは変わらない。寛ちゃん、私は裏切り者ではありません。オヤジ(力道山)の道場でセメントに一番強くなるために一緒に稽古してきた同じセメント レスラーですから、嘘は言いません」と語っていました。

 

 

次回、②「アントニオ猪木とのネイルデスマッチ」に続きます!

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