「上田馬之助」〜③1983 vsジャイアント馬場 腕折りマッチ

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上田馬之助シリーズ ①「上田馬之助」略歴  ②vsアントニオ猪木とのネイル デスマッチ に続いては、猪木戦の5年後、1983年3月3日、後楽園ホールで行われたジャイアント馬場戦との一騎打ちです。

 

当初は「馬場抜きシリーズ」として行われていた’83エキサイトシリーズ最終戦で、ハワイに遠征していたはずの馬場が急遽帰国、上田とシングルマッチを行う事となりました。そしてこの試合でジャイアント馬場は突如「キラー馬場」化し、”馬之助の腕を折る”という衝撃の結末を迎えます。

 

この試合もリアルタイムで見ていました(当時中1)。試合前からリングサイドのセコンド陣が多く緊迫していて、いつもは冷静沈着な馬場さんがなんとも冷たく、なにやら不穏な空気だったのを覚えています。

 


 

◆上田馬之助 全日マット再登場

 

この試合の2年前、1981年7月30日、サマーアクション・シリーズ最終戦・後楽園ホール大会。奇しくもこの日は上田と後に抗争を繰り広げた天龍源一郎が“人間風車”ビル ロビンソンとタッグチームを結成し、馬場&鶴田が保持するインターナショナル タッグ王座に挑戦、「プロレスに開眼した」と言われるその日「天龍とロビンソン」〜1981 天龍源一郎がプロレスに覚醒した日でもあります。

 

『サマーアクション シリーズ』(81年7月3日~7月30日=全22戦)の参加外国人選手はビル ロビンソン、ディック スレーター、キラー トーア カマタ、グレート マーシャルボーグ、ビクター リベラ、ラリー ズビスコ、ルーファス ジョーンズ、ボビー ヒーナン、そしてタイガー ジェット シンの全9選手。このシリーズ開幕戦にシンと上田がいきなり“乱入”し、新日本プロから全日プロへの電撃移籍が明らかになりました。

 

この年の5月、全日プロの看板外国人スターだったアブドーラ ザ ブッチャーが新日プロに電撃移籍全日がシンと上田を“獲得”すると、今度は新日がタイガー戸口、ディック マードックの2選手を引き抜き返します。この両団体によるドロ沼の“仁義なき引き抜き合戦”は同年12月、スタン ハンセンが『世界最強タッグ』最終戦に“乱入”し、翌82年1月に全日プロと正式契約すると、いったん和平協定が結ばれて小休止しますが、その後もダイナマイト キッドとデービーボーイ スミスが1984年11月に、長州力をリーダーとするジャパンプロレス勢が同年12月にそれぞれ新日を離脱し全日と契約。1985年、ブルーザー ブロディが全日から新日に電撃移籍するまで続きました。

 

当時、馬場は「シンは欲しいが上田は要らん」というのが本音だったのでは?と思いますが、シンがパートナーである上田との同行を求めたのか、セットでの全日上陸を果たします。上田は当然、ジャイアント馬場に対し執拗に対戦を求めました。


 

◆上田馬之助と天龍源一郎の抗争

 

83年2月、上田馬之助は当時、若手だった天龍源一郎との抗争が激化し、リングアウトなしのランバージャック デスマッチを行います。この試合で上田のセコンドの鶴見五郎が凶器のスパナを渡し、場外で助太刀して天龍を大流血に追い込み、挙句に上田を包囲網をかいくぐり逃亡させ、天龍の反則勝ちに。これがその後の因縁となります。

鶴見は試合後「PWF本部からの通達」ということで半年間の出場停止(国外追放)を命じられます。その上で「セコンドの鶴見を処分しておいて当の上田は放置では示しがつかない」というのが全日、馬場側の言い分でした。

 

次シリーズ’83 エキサイト シリーズは”ザ グレート カブキ 凱旋シリーズ”でした。馬場はシリーズ全戦欠場を事前に発表し、開幕と同日、レイスからセントルイスでPWF王座を奪回して、そのまま北米~ハワイをサーキット中でした。

 

すると上田が「最終戦まで帰ってこなかったらシンと共にシリーズをボイコットする」と脅しをかけ、無法ぶりに怒り心頭の馬場はやむなく急遽帰国…というのが、当時のテレビ中継で倉持アナが説明した「大本営発表」です。

 


 

◆試合経過

 

ともあれ、そんなシチュエーションの中、唐突に実現した馬場と上田の対決。

【不穏試合・馬場が上田を怒りの腕折り制裁!】ジャイアント馬場vs上田馬之助83'March Giant Baba is rage, Ueda arms folded! In Sho

 

実況の倉持アナが延々と上田の無法ぶりを説き「永久追放」といった物騒なワードが飛び交う中、セコンドには天龍をはじめ、全日勢のみが取り囲み、異様なムードです。

 

入場するや否や上田はセコンドの天龍を見つけ不快感を露わにし、試合開始後一旦控え室に戻り、シンを助っ人として連れて戻りますが、シンは全日セコンド勢に押し戻されます。

 

こういう時に猪木であればイライラして「上がってこいコノヤロー」とレフェリーにイチャモンつけたり、とひとしきり盛り上げるのですが、馬場はコーナーに背をつけて余裕綽々、「また始まったよ」的な表情で「余計な事は言わずせず、ひたすら待ち」の姿勢なのが対称的で面白いです。

 

試合は序盤から上田がラフファイトで馬場をストンピングで場外へ送り出しますが、その後はロープ際でクリーンブレーク、ヘッドロックなどレスリングの攻防へ。

 

上田が華麗なカニバサミで馬場の巨体をグラウンドへ誘い、脚がらみの流れから、なんと両者によるアキレス腱固めの攻防が見られます!

解説の田鶴浜御大は日プロ時代の上田について「パワーファイター」と評し、中でもパイルドライバーが印象深い、とのコメント。そこは寝技、腕がらみの得意なテクニシャンという話をした方が…。

 

しかしこの日の上田は腕がらみは見せず、ひたすら脚狙いに終始します。フィニッシュが馬場の腕折りであれば、上田が腕を狙わず脚を攻めるのはなんとなく理解できる話です。馬場の武器は16文、だから脚殺し、というのも当時のパターンでした。

 

対する馬場は珍しいローキック、そして目潰しからのジャイアント踏み潰し!

たまらず上田が凶器を出し、セコンドの天龍と一悶着あります。社長のシングルでセコンドが介入して怒られないのかよ、と心配になりますが、天龍は遠慮なく突っかかる…アドリブだとしたら天龍のクソ度胸には感心しますが、センスは感じられません。

 

そして凶器を見つけた天龍、にフォーカスして実況を続ける倉持アナに対し「小鹿も見つけてますよ」と何度も指摘する田鶴浜さん…いや、凶器を見つけたのが誰かはどうでもいいですから!

 

その後は上田の流れ、クローからロープを使ったチョーク攻撃、そして場外へ。この当時の全日は場外乱闘を繰り返して結果グダグダな両リン、というのがお約束でしたが、この日の馬場は深追いせずさっさとリングに戻ります。

 

そして再度、突っかかる天龍に気をとられる上田の背後に回った馬場は腕を取り、ジャンピングアームブリーカー。

最初こそノーマルバージョンでしたが、2回目は腕を股に挟んで尻餅をつくという、馬場の巨体と体重を考えたら洒落にならないシロモノです。そして着地後に、さらに腕を上に捻り、敢えて「折ろう」としているのが怖い。

そしてその後も執拗なアームブリーカーの波状攻撃、表情は淡々といつも通りなのが逆に恐怖です。これを見た解説の田鶴浜さんが「そういえば試合前、馬場が腕か足を折ると言ってましたが、ホントだったんですなこりゃ」と呑気に物騒な事を言いだします。御大、そんな大事な事はもう少し早めに…。

 

ここでまた、完全に負傷して虫の息の場外の上田の、それも負傷箇所である左腕に容赦なく何度もパイプ椅子を振り下ろす天龍の介入。

 

あくまでもこの日は「馬場による制裁」がメインストーリーで、かつ「悪の上田」「善の馬場」でないとならないのに、凶器など卑怯な手を使っている最中ならまだしも、既に弱りきった上田に対して馬場のセコンドの天龍が手を出すのは、常識的にはあり得ない行動です。逆に新日であれば猪木メインのシングルでセコンドが加勢すると猪木が卑怯で弱く見えるので、後で「余計な事をするな!」とシバかれる事必至です。

 

が、馬場は天龍を諌める事もなく、黙認している感じです。それだけ天龍が上田に腹を立てていた、元は自分の不始末だから自分が、などとも考えられなくもないですが、なんだか不穏です。

 

その後、馬場は延々と腕折り攻撃を繰り返し、そのままレフェリーストップでゴングとなります。

 


 

◆なぜ馬場が「腕折り」なのか

 

「遺恨とか抗争がキライ」で「相手にケガをさせるのはプロ失格」を信条とするジャイアント馬場がここまでの試合をするのは本当に異例です。そのため、試合後に当時のプロレス誌にはさまざまな見解が示されましたが、ほとんど「天龍と上田のランバージャック戦で端を発した遺恨の結末」的な記事でした。

 

介入した鶴見を半年もの出場停止(国外追放)にしておいて、それを指示した上田にペナルティはないのか?という声に対して馬場は
「それが問題なんだよな。PWFからは上田に対する処分は通達されなかった。 こうなったらオレが上田の片腕でもへし折って制裁するしかないな」 と答えていた、とされました。

 

しかし、当然それが真相ではない事は明らかで、さまざまな推測があります。鶴見本人が後年語ったところによれば、このときの「国外追放」自体、鶴見が海外遠征に出るためのアングルだった、とも言われているのです。

 


 

一つの説は「上田の批判、無礼に怒った元子夫人が馬場に制裁を訴えた」というものです。

 

上田は当時、マスコミ人気が高く、さまざまな一般週刊誌にも登場していました。その中で、新日の新間氏や元子夫人に対して「プロレスラーじゃないくせに出しゃばり過ぎな奴らがいる」的な事を言った、と。さらには「全日は女にサイフの紐を握られている情けない団体」といった過激なものもありました。

 

馬場不在のシリーズで元子夫人はもちろん、後輩の小鹿や大熊ではおさえが利かなかった、というのは想像できる話ではあります。団体の統制と自身の体面を保つために「わかったよかあちゃん」、と馬場が制裁を決意した、という説。それが本当だとすると、あの天龍の介入は、馬場さんはともかく元子夫人からは「よくやってくれたわ源ちゃん」と特別手当でも貰えそうです。

 


 

そして、どうやらコレが真相では、と言われているのが、不在中に凱旋したカブキ人気が予想以上で、慌てた馬場が存在感を示した、という説です。

 

事実、この「カブキ凱旋シリーズ」は馬場抜きであるにも関わらず旗揚げ以来初の黒字シリーズとなったとされ、当時、常に視聴率や観客動員でかなり猪木新日プロの後塵を拝していた馬場は、日本テレビからのテコ入れプレッシャーがかなり強くかかる中、「馬場なしでも大勢に問題なし」となる事に、心中穏やかではなかったと思われます。

 


 

そして、ガチで制裁するのであれば「シリーズ途中で解雇して2度と使わない」とするのが馬場イズムです。

 

ところがその後の上田は、負傷も癒えた4ヶ月にシンとのタッグで1983年7月26日、福岡スポーツセンターにおいて馬場&鶴田をリングアウトではありますが破り、宿願のインタータッグ選手権を奪取(上田としては10年ぶりの王座返り咲き)。

翌1984年にはペイントレスラー「テングー」に扮して人気絶頂のカブキと抗争したり

 

なんとか存在感を発揮して踏ん張りますが、徐々に飼い殺しに近くなり、次第にフェードアウト。

再び今度は単身で、猪木新日への参戦に活路を求めました。

 


 

最終回 ④「上田馬之助とは何だったのか?」に続きます!

 

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