「太平洋上猪木略奪事件」 1966 〜東京プロレス時代のアントニオ猪木

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今回はアントニオ猪木の東京プロレス時代、「太平洋上猪木略奪事件」について掘り下げます。猪木の日本プロレス追放~新日プロ旗揚げよりもさらに昔、1966年の出来事です。

 

新日プロ旗揚げ以降の猪木しか知らない世代にとって、この東京プロレス時代はブラックボックスで、後年もあまり語られることはありませんでした。テレビ局がつかず映像が残っていない事、さらには猪木自身にとっても、また、東京プロレスに所属した各選手達にとっても、触れられたくない過去だったのが原因かと思います。

 

よって日本プロレス時代も入門当初と、後の東京プロレス崩壊後のBI砲時代、そして追放だけがクローズアップされる事がほとんどなのですが、猪木の人間性や経歴において、そして後年のヒロ マツダやマサ斎藤、ラッシャー木村、そして新間寿氏との関係を知る上でも、この「東京プロレス時代」には、興味深いエピソードがたくさんあるのです。

*文中敬称略

 


 

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●豊登 日プロ追放

 

1963(昭和39)年12月の力道山の死後の日本プロレスは、豊登、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の4幹部合議、俗に言うトロイカ体制でスタート。新社長となったのは豊登でした。

1965(昭和40)年、馬場が大阪府立体育会館でディック ザ ブルーザーを破り復活したインターナショナル選手権を獲得、表向きは力道山不在を感じさせない盛況が続きます。

 

しかし、1966(昭和41)年1月5日、渋谷のリキ スポーツパレス内のリキ レストランで、豊登の社長辞任と長期欠場が発表されます。表向きは「持病の尿管結石の悪化のため」とされますが、実際は豊登の不透明な公金流用による事実上の解任、追放でした。

 

豊登は会社の資金を横領、競馬、競輪などのギャンブルに流用し、その負債額は(当時の額で)3千万とも4千万円とも言われていました。豊登はギャンブル狂で競馬、競輪、競艇などあらゆるものに手を出し、藤波に競輪選手転向を指示したり、大飯食らいで浪費癖など奇行も数知れなかったそうですが、性格は温厚で後輩に対して面倒見もよく、多くの後輩レスラーが彼を慕っていたといいます。

 


 

●豊登の新団体構想と新間寿氏

 

豊登は渋谷の「ホテル一柳」にこもり、相変わらず競馬、競輪三昧の日々を送りながらも、後輩の馬場をエースとする日プロに対して一矢を報いる機会を待っていました。

 

そこに呼ばれたのが、新間寿氏です。新間氏は中央大学柔道部に所属する傍ら、日本橋人形町の日プロ道場にボディビル練習生として通っており、豊登と面識がありました。大学卒業後、大手化粧品メーカーのマックスファクターでサラリーマンをしていましたが、豊登から新団体の旗揚げ計画を明かされ、協力を依頼されます。

 

豊登が寝ていた布団をめくると、そこには日プロから支払われた4百万の退職金が並べられていました。さらに豊登は、「吉村と遠藤以外の選手は、ほぼ全員ワシに協力してくれる事になっている」と打ち明けます。実際に日プロから田中忠治、木村政雄(ラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)、北沢幹之(後のリングス レフェリー)らが日プロを離脱、新団体への参加を表明。

しかし豊登が参加メンバーとして期待していた芳の里、大木金太郎、ヒロ マツダ、星野勘太郎、高千穂明久(後のグレートカブキ)らは日プロに留まりました。

 

やがて豊登はホテルニューオータニに拠点を移し、事務所を構えて新団体旗揚げの準備に入ります。そして目玉として、新人時代から目をかけていた海外武者修行中の猪木を呼ぶ、と言い始めます。新間寿氏は日蓮宗感通寺住職である父、新間信雄氏と共に、この計画に協力していきます。

 


 

●猪木 海外武者修行時代

 

それから2年ほど前、1964年に猪木は初めてとなる海外修行に出ていました。この当時の海外修行は「出世の切符」であり、若手三羽鳥と呼ばれた大木、馬場はすでに海外で活躍。猪木には焦りがありました。特に馬場はメインイベンターとして世界タイトルに連続挑戦するなど大出世しており、猪木はそれを強く意識していました。

 

猪木の海外遠征は日プロに来日したサニー マイヤースが猪木の実力を認め「アメリカでもトップを取れる」と誘ったことがきっかけ、とされますが、力道山が急死し、以前から猪木に目をかけていた豊登が団体トップに立ったことにより与えられたチャンスだったのです。

 

豊登に伴われまず到着したのがハワイ ホノルル。シビック オーデトリアムで行われた渡米第1戦は、豊登の代役として当時のハワイのチャンピオン、プリンス イヤウケアに挑むタイトルマッチでした。1本目は猪木が、2本目はイアウケアがフォールを取って3本目はセコンドの豊登の乱入によるノーコンテストに終わります。

 

豊登の帰国後、猪木は単身セントラルステーツ地区に渡り、ミズーリ、オクラホマ、カンサスの3州で試合を行います。この地区は当時のNWAの本拠地。しかし空港には誰も迎えが来ておらず、たまたまプロレスファンだった黒人のポーターの世話になり、ようやくオフィスと連絡が取れたという、不安を抱えたスタートでした。ここでのリングネームはトーキョー トム。元NWAジュニア王者のサニー マイヤース、パット オコーナー、モンゴリアン ストンパー、若き日のハリー レイスなどと戦いました。

 

その後、猪木はロサンゼルスを中心とするWWA地区に転戦。ここでのリングネームはリトルトーキョー ジョー。ディック ザ ブルーザー、ザ デストロイヤーらと対戦します。

 

次に猪木はサンフランシスコ、シアトルを経てポートランドから、再びロサンゼルスを経由して当時、無法プロレス地帯といわれていたテキサス州に乗り込みました。ここでのリングネームはカンジ イノキ。デューク ケオムカと組み、フリッツ フォン エリック、キラー カール コックスを破り、当地のタッグタイトルを獲得しています。

 

そして猪木はテネシー州に転戦。ここで猪木は力道山の封建的な団体運営と興行手法に反発して海外に出ていたヒロ マツダとタッグを組み、NWA認定世界タッグ選手権を獲得します。またこの頃、スパニッシュ系の女性ダイアナ タックと一度目の結婚(入籍はしていない)もしています。文子という女の子も生まれますが、小児ガンで幼くして亡くなり、ダイアナ夫人とも後に離婚します。

 

アメリカ修行中だった猪木は日本での豊登の病気欠場、馬場のインターナショナル王座戴冠などは知っていましたが、豊登の日プロ追放や新団体旗揚げ構想までの詳細はわからなかった、と後に語っています。当時のプロレス報道や通信状況、さらにその動きが水面下だったので無理もない話です。

 

逆に豊登が新団体に猪木獲得を狙っている、という情報を日プロ側はつかんでおり、これに対抗する意味合いで、猪木をアメリカから呼び戻すことを決めます。

 


 

●帰国前のハワイ合同練習

 

1966(昭和46)年2月、23歳の誕生日を迎えたばかりの猪木に日プロから帰国命令の電話が入ります。猪木は3月25日開幕の第8回ワールドリーグ戦に凱旋、それに先立ってハワイで馬場、吉村らと合同練習をして、それをマスコミに取材させる、という話題作りの段取りでした。

 

猪木はテネシーからロスへ飛び、まず力道山時代のレフェリーとして知られるトレーナーの沖識名と合流します。猪木は沖に日本の様子を聞きますが「アイドンノー、日本に帰ればわかる」の一点張り。猪木は不安を抱きながらも予定通り3月12日にハワイに到着しました。しかしそこにいたマスコミは東京スポーツの山田隆氏(後の全日本プロレス中継解説でおなじみ)と、もう1名のたった2人の記者。到着すると沖はハワイの自宅に戻ってしまいます。

 

猪木は2人の記者と、宿泊先のロイヤルトロピカーナ ホテルに移動しますが、なんと到着日の宿泊予約が日プロ側のミスでなされていませんでした。やむなく猪木は山田記者の部屋に潜り込み、そこで豊登追放劇の真相など、日本マット界の情報を聞かされます。

 

もともと、遠征中に日プロからは何も連絡がないこと、先に帰国した馬場の人気が沸騰していたこともあり、「俺は本当に日プロから大事にされているのか?」「馬場の時のように、凱旋した自分を派手に売り出してくれるのか?」と自分への待遇に疑問を抱いていた猪木は、このハワイでの扱い、馬場との格差に愕然とし、大きなショックを受けると共に、可愛がってくれていた豊登の不在を知り、ますます不安が増大しました。

 

一応、日プロ側はエースの馬場に加え役員の吉村を派遣して、猪木の豊登新団体への参加を阻止しようとしていましたが、翌日にハワイ入りした馬場、吉村らは猪木に対して妙によそよそしく、マスコミに対しての絵作りのトレーニングも1時間程度で終わりました。馬場も吉村も、それ以降は自由行動だったため、猪木は仕方なく翌日から、顔見知りのハワイ在住の日系レスラー、ディーン樋口のジムで汗を流していました。

 


 

●太平洋上猪木略奪事件

 

そこへ、猪木のハワイ入りから1週間遅れの3月19日、猪木らの帰国予定日に、豊登がハワイ入りします。空港で待ち構えていた山田記者をスルーした豊登は、タクシーでパコダ ホテルに向かい、猪木に電話を入れます。

 

そして豊登と猪木はパコダ ホテルで密会。ここでどのような会話がなされたか、は猪木も豊登も明かしていませんが、豊登は「いまの日本プロレスは馬場を中心に廻っていて、猪木が帰国しても居場所はなく、噛ませ犬にされるだけだ」と説き、「自分の新団体に来ればエースはもちろん社長にしてやる、どうしてもお前が必要なんだ」と猪木を説得した、といわれています。

 

これまでのいきさつと、ハワイで感じた馬場らのよそよそしい態度(一方的に新団体行きを怪しまれていたので無理もありませんが)、そしてこれまでもっとも世話になり、力道山の付け人時代、プロレスを辞めようと思った時に親身になって引き留めてくれた先輩、豊登への恩義もあり、猪木は日プロ離脱を決意しました。

 

猪木はホテルをチェックアウト、空港に向かおうとしていた吉村に電話で「急用ができたので、一緒に帰国できなくなった」とだけ告げ、そのままハワイに留まります。そして電話取材した山田記者に対し、猪木は電撃的なフリー宣言。3月23日付けの東京スポーツ紙に掲載されました。

 

これを当時のマスコミは「太平洋上猪木略奪事件」と呼び、一大事としてセンセーショナルに報じました。


 

●日プロの反撃

 

猪木を豊登に奪われた日プロは、3月21日にリキ パレスで記者会見を開き、すぐさま反撃を開始します。ワールドリーグ戦には猪木の代役として大木金太郎を呼び戻すと共に、平井日本プロレス協会長が、これまで表沙汰としなかった一連の豊登の公金横領と使い込み、借金まみれのずさんな金銭感覚を厳しく批判。相撲時代からの親友である芳の里も、猪木引き抜きと日プロに対する豊登の妨害行為は反プロレス的行為で道義的に許せない、と永久追放、除名処分と、その理由を説明。

 

選手会代表として馬場は「ライバルである猪木がワールドリーグ戦に出ないのは残念。豊さんの巧い口車に乗せられたんだろうが、役員会、選手会の決議だからどうしようもない」とコメント。記者会見の翌日には緊急理事会と役員会を行い、豊登に対して営業妨害で告訴する決議がなされましたが、もう一人の当事者であった猪木に対しては「若い猪木は豊登に騙されている、事情が分かれば猪木は日プロに戻る」として処分が下ることはありませんでした。

 

渦中の猪木、豊登はワールドリーグ戦最中の4月22日に帰国、羽田空港で記者会見。席上、豊登は「新団体は日プロと共存共栄、選手を数名借り受けて、旗揚げは7月頃にやりたい」と述べ、平井協会長から指摘された公金横領疑惑については「とんでもない、退職金ですべて清算済みで、今さらドロボウ呼ばわりされる覚えはない」と否定します。猪木は「旗揚げ戦では2年間の武者修行の成果をみせたい」とだけ、抱負を語りました。

 

ハワイから帰国した豊登の「寛至に小遣いくらい渡してやらないと」という要請で、新間寿氏は実家から100万円を都合して持参するも、その金は猪木に渡る事なく、豊登の博打に消えた、と後に新間氏が語っています。

 

その後、2人の帰国から5日後の3月28日、日プロは再び緊急役員会を開き、巡業先の大阪で記者会見。選手会を除名した豊登の新団体について、日プロは一切関知しない、と絶縁を宣言しました。

 


 

●猪木とマサ斎藤の出逢い

 

東京プロレス旗揚げ前のハワイ合宿で斉藤昌典(後のマサ斎藤)は、はじめて若き日の猪木と相見えました。「ターザンのような男」それが猪木に対する斉藤の第一印象だったそうです。初めてのスパーリングの時、内心「レスリングなら負けないぜ」と、タカを括っていた斉藤ですが、組んだ瞬間「うまい、強えや」と言う衝撃が走ります。

 

日プロでの甘っちょろいスパーリングとは天と地の差、必死について行くだけで精一杯。斉藤はプロのレスリングの奥深さを初めて肌で味わったといいます。オリンピック日本代表と言う輝かしい経歴を持つ斉藤にとっても猪木の強さは衝撃的でした。「それにしても、猪木さんが日本にいて、大学でアマレスをやっていなくてよかった。もしそうだったら、俺はオリンピック代表の座を奪われたかもしれない。俺は真剣にそう思ったものだ。」


 

●前途多難な東プロ旗揚げ

 

日プロの徹底的な妨害に合い、また豊登の浪費癖は治らず会社の金で競馬に明け暮れる状態で東京プロレスの前途は多難でした。なにをやるにも金がなく、記者会見は渋谷の連れ込み宿で行なわれます。結局、豊登が「7月頃」としていた旗揚げ戦も10月12日までずれ込みました。

 

金がない、プロモーターもいない、ガイジン招聘ルートもない。その苦境を打開するために、猪木はまず、1人で再渡米します。約1カ月間、全米各地を歩き回り、粘り強くプロモーターや選手たちと出場交渉を重ねました。

 

そして、“銀髪の爆撃機”ジョニー バレンタインに巡り合います。

 


 

●ジョニー バレンタインとの邂逅

 

ジョニー バレンタインは当時、現役のUSヘビー級王者。「毒針」といわれる必殺エルボーを武器にした迫力満点のファイトが売りでした。その印象を後に猪木はこう語っています。

「すごかったですね、もう、ほんと。のどが裂けるまでのパンチで殴られた。私があの人を最初に見たのはセントルイスなんです。東京プロレスで旗揚げして、とにかく選手が呼べない。全部ストップくってましたからね。それで、セントルイスのプロモーターを頼って試合会場へ行き、リングを見ていたんですが、なんだこの選手か、っていうような感じだったんです。ところが、いざ招聘してみてびっくりした。もうとにかく息が切れんばかりに振り回されて、それに殴るの蹴るので、ほんとにね、胸が破裂するんじゃないかっていうような感じでね。で、闘った相手だったんだけど、ファンになっちゃったんですよ。私のプロレス人生をふりかえってみても、もう絶対にはずせない、素晴らしい、まあ一番の強敵だったと思う、当時のね。いまは、交通事故で、車イス生活になってしまいましたけれど。 」

 

バレンタインは、ロープワークや安易な投げ技の攻防を「リアリティがない」と否定しており、テクニックではなく、殴る、蹴るを主体とした選手でしたが、対戦相手は口を揃えてやたらと力が強かった、と言います。ロープに押さえつけて力任せにぶっ叩くシンプルなパワーファイターですが、ボディや首筋に入ると電気が走る程の衝撃で、「毒針」エルボードロップは文字通り、必殺技でした。また普段は無表情、攻める時には目を見開いて鬼の形相で銀髪が逆立つ様から「妖鬼」とも呼ばれていました。


 

●伝説の東京プロレス旗揚げ戦

 

このバレンタインを筆頭に、後にNWFベルトを巡る相手となるジョニー パワーズ、サニー マイヤース、ラッキー シモノビッチ、スタン スタージャック、ディーン樋口らを掻き集めた猪木は、1966年10月12日、蔵前国技館にて東京プロレス(会社名は「東京プロレスリング興業」)旗揚げ戦を行います。

▲旗揚げレセプションでバレンタインが猪木をビンタするハプニングも

9千人の観衆を集めた旗揚げ戦のメインで猪木はジョニー バレンタインとストロング スタイル、燃える闘魂の原点ともいえる名勝負を展開、海外武者修行の成果をファンに示し、大成功を収めます。

この試合がテレビ中継もないのに広く「伝説」となった理由は、もちろん逆境に燃える若き猪木の新たなスタイルのプロレスにありましたが、もう一つ要因があったとされます。それは、力道山死後、ますます独裁状態を強めた日プロに対する新興マスコミの反発でした。デイリー、スポーツ毎夕、大阪新夕刊らの記者らが日プロからの圧力にもめげずにこの旗揚げ戦を「猪木こそ馬場を超える新時代のスターである」と全面的にバックアップ、紙面を飾って応援しました。

 

一方で古参マスコミであるスポニチ、日刊スポーツ、東京スポーツ、スポーツタイムズらは日プロ派を貫いて「アンチ東京プロレス」の姿勢を示し、東プロ旗揚げは当時のプロレス マスコミも二分する「事件」だったのです。

 


 

●地方興行の苦戦と「板橋事件」

 

旗揚げ戦を大成功させた東京プロレス。しかし、その後の地方興行は惨憺たるものとなります。日プロの妨害により有力プロモーターの協力は得られず、素人同然のプロモーターの仕切りでキャンセルと中止が相次ぎ、「旗揚げビッグマッチ シリーズ」は11月22日の東京 大田区体育館の最終戦まで全34戦予定が20戦しか行われず、赤字の連続となります。

 

そして、11月21日に大事件が起こりました。東京 板橋の都電板橋駅前駐車場特設リング。シリーズ5戦目で同場所で興行が行われ観客動員4000人を記録、盛況だったことから再び興行が打たれたのですが、この日は木枯らしの吹く底冷えの天気で、野外でのプロレス興行には無理がありました。それでも夕方から熱心なファンが集まりますが、試合開始予定の午後6時30分を過ぎても一向に試合は始まらず、焦れた客が文句や野次を飛ばし始めてもプロモーターもオロオロするばかり、試合開始が遅れている理由の説明もありません。

 

原因は主催プロモーターの選手達へのファイトマネーの未払いでした。約束では、この日の夕方5時までに主催者がファイトマネーを選手たちの待機する会場近くの旅館に届ける事になっていたのですがその金が間に合わず、選手側とプロモーター側の押し問答の末、怒った豊登や猪木が「約束を果たせなければ、今日の試合には出ない」と出場をボイコットしていたのです。主催者はそれでも午後7時30分まで入場券を売り続けていましたが、選手が誰も会場に来ないという異常事態にいよいよ困り果てマイクで「本日は渋滞に巻き込まれて選手が来られません。今日の試合は中止となりましたので払い戻しいたします。」とアナウンスが流れます。

 

これに集まった千人程の観客が一斉に怒鳴り、リングの上に椅子や机を投げ入れ、ロープを外し天幕を破り、リングに火を放ち、暴徒と化します。直ちに板橋署一個中隊が出動してこの騒ぎを鎮圧。プロレス史に「板橋リング焼き討ち事件」として汚点を残しました。

それでもなんとか12月14日仙台大会から19日東京体育館まで規模を大幅に縮小した「旗揚げ第二 チャンピオンシリーズ」が強行されましたが、結果は赤字が増えただけでした。そんな中でも豊登の浪費癖は続き、チケット売り場を手伝うフリをして多少でも利益が出るとその売上をかすめ競馬競輪に明け暮れていた、といわれます。

 

そしてこのシリーズ終了直後、猪木はとうとう、豊登との決別を決意します。猪木は東京 新宿にあった東プロ事務所から荷物と書類を持ち出し、東京 港区北青山の新事務所に移し別会社「東京プロレス株式会社」を設立します。

 

このとき新間氏は置いてけぼりをくらい、慌てて青山の新事務所に猪木を訪ね「どういう事ですか」と詰め寄りますが、「今まで見たこともない冷たい表情で追い返された」といいます。猪木の中では新間氏は豊登側の人間で、敵だと認識していたのでした。

 


 

●国際プロレスの誕生

 

この頃、日本マット界ではもう1つの団体が誕生していました。それが、吉原功氏が興した国際プロレスです。

 

吉原氏は早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレス営業部長を務めていましたが、力道山の死後、経営方針を巡る対立で日本プロレスを退社していました。創業当初は「団体」という形ではなく、所属選手を抱えず試合をするリングのみを提供するという、アメリカの「興行会社」のスタイルを志向しますがフリーランスの日本人レスラーが国外活動組以外おらず、所属選手を抱える団体として活動することとなります。

 

猪木はヒロ マツダからの要請で(ラッシャー)木村政雄、(マサ)斎藤昌典らとともに1967年1月5日から開幕した国際プロレスの旗揚げ戦「パイオニア シリーズ」に参加します。すでに単独での興行能力を失っていた東京プロレスとの合同興行という要請でしたが、猪木は豊登と田中忠治を除くメンバーでの参戦を決意します。

 


 

●猪木-豊登 新間氏の泥沼の訴訟合戦

 

この頃、猪木と豊登、新間氏の関係は悪化する一方で、遂に1月8日、猪木が豊登と新間氏を業務上横領で告訴すると発表、豊登と新間氏は猪木を背任容疑で逆告訴するという泥沼状態となっていました。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しており、また、当時若手選手であった永源遙も「公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だった」と後に述懐しています。

 

この告訴合戦で「猪木は多額の借金を抱えた会社を見捨てた無責任な社長」とする豊登と新間氏の訴えがクローズアップされ、もともとアンチ東京プロレス側であったマスコミが一斉に猪木バッシングを開始します。

 


 

●国際プロレス旗揚げと猪木、東京プロレスの崩壊

 

国際プロレスはアメリカで活躍するヒロ マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからアマチュアスポーツのトップアスリートだった杉山恒治(サンダー杉山)、草津正武(グレート草津)らが参加。ガイジン勢はダニー ホッジ、ザ ケンタッキアンズ(ジェイク スミス&ルーク ブラウン)、エディ グラハム、ジョニー バレンタインを招聘。

 

しかし東京プロレス同様、テレビ局との放映契約を結べないままの旗揚げであり、さらには猪木バッシングの影響もあり興行は振るわず、もともと日プロからの妨害があったことに加えて当初ポスターに名前のあった豊登が参戦しないことを理由に全25戦のうち5戦がプロモーターにキャンセルされて中止になるなど、猪木らのスキャンダルは国際プロレスにもダメージを与えます。

 

吉原社長とヒロ マツダは猪木に契約不履行(豊登の欠場)を理由に全選手出場で1700万円、というギャランティの値下げを交渉しますが、「それは国際プロと豊登の問題」とする猪木の主張と真っ向から対立。結局、猪木と国際プロレスの提携はこの旗揚げシリーズのみで破綻してしまいました。

 

この時点で旗揚げから僅か3ヶ月で東京プロレスは倒産、消滅となりました。

 

国際プロレスには猪木らの離脱と入れ替わるように旗揚げ興行に参加しなかった豊登が参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなりました。しかし、戦力、資金面でも日プロとの差は歴然、苦戦が続きました。

この分裂と倒産により、東京プロレス営業部長だった新間寿氏は、東京に家族を残し日光の銅山で鉱夫となります。新間氏は「数ヶ月に1度、東京に戻り東京プロレス倒産関連の裁判に出廷しながら、銅山で冬空を見上げ、いつの日にか来る復活を夢見て過ごした」と後に語っています。

 


 

●猪木 日プロ復帰

 

1967年4月、川島正次郎日本プロレスリング コミッショナーが猪木の日プロ復帰を発表します。1月の国際プロレス旗揚げシリーズに参加、東京プロレス崩壊からわずか3カ月後の出来事です。

 

当時の日本プロレスはジャイアント馬場をエースに、猪木離脱の穴を埋めるべくこの1967年2月には元柔道日本一の坂口征二を加えていました。

それでも、市場独占を続けたい日プロには国際プロレスと猪木の存在は目障りで脅威でした。国際プロレスのTV放送の計画もあり、日プロ中継のスポンサーである三菱電機からの強いプレッシャーもありました。そこへ来て猪木と国際プロレスが決別したため、猪木を古巣へ取り込む策に出たのです。

 

猪木復帰について日本プロレス興行 芳の里代表は「猪木が豊登に誘われ団体を旗揚げした事については若さゆえの勇み足としてこの際、狭い了見は捨てて将来のプロレス界を思って猪木の復帰を認めた」とコメント。

 

一説には、日本プロレス復帰時に猪木へ支払われた支度金は1000万とも2000万円とも言われ(東プロ倒産整理のための資金)、当初は「単独復帰」でしたが、後に北沢幹之、柴田勝久、永源遙ら配下のレスラーも引き受けてもらうなど、悪くない条件での復帰です。

 

日プロ復帰後の猪木は、1967年5月に吉村道明のパートナーとしてアジアタッグチャンピオンとなり、10月にはジャイアント馬場とのタッグでインターナショナルタッグチャンピオンに。「BI砲」として活躍、馬場と並ぶ二枚看板へと登りつめていくのです。

 


 

●まとめ

 

以上が、アントニオ猪木の知られざる東京プロレス時代です。

 

この隠れた歴史を知ると、後の新日プロ旗揚げ戦での豊登との和解の涙の理由や、新間氏との関係、はぐれ国際軍団のラッシャー木村や、巌流島などでのマサ斎藤との対決もまた、違った味わいが感じられます。

 

そして、この時のさまざまな出来事が、後々の猪木の人格形成に大きく影響している気がしてなりません。

 

一般的にはブラジル時代、日プロ新弟子時代、そして日プロ追放から新日旗揚げ~という、猪木が多く語り、関係者も多く証言している時代で「アントニオ猪木」をわかったつもり、知ってるつもり、になっているのですが、とんでもないですね。

 

なにせ、この東京プロレス旗揚げ時の猪木の年齢は、若干23歳なのです。

新卒社会人1年目の年齢にして、一匹狼での海外武者修行、所属会社からの脱退、独立、新会社設立、社長兼エース就任、旗揚げまでのプロモート、内紛、裏切り、裏切られ、先輩や仲間との喧嘩分かれ、倒産、訴訟合戦。そして、マスコミからの大プッシュからの猛バッシング…

 

文字通り、普通の人なら一生かかっても経験できない(したくもない)修羅場過ぎる修羅場を、それもわずか1年、2年という短期間でくぐり抜けています。

 

そして普通であればどこで干されて終わっていてもおかしくないのに、しぶとく、したたかに生き抜いて、そして、ここからまた常人の何人分もの怒涛のドラマが続く、というのは、やっぱりアントニオ猪木、という男はバケモノとしか言いようがありません。

 

コメント

  1. ★マイブログに、リンク&一部引用、貼らせてもらいました。
    不都合あればお知らせください(削除いたします!)
    なにとぞ宜しく、お願いいたしまっす!

    • MIYA TERU より:

      お知らせありがとうございます。
      ノー問題です!
      そもそも私ブログもあちこちの情報の引用ですので・・・コピペ丸写しだけはしないように気を付けていますが。
      今後とも、宜しくお願いします!

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