「巌流島の決闘」①~1987 アントニオ猪木vsマサ斎藤

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今回は1987年10月4日に行われたアントニオ猪木vsマサ斎藤「巌流島の決闘」私自身の島上陸記も含め、このプロレス史上前代未聞の無観客、ノールール、試合時間2時間5分14秒の一戦を振り返ります。

 


 

●アントニオ猪木本人が語る「巌流島」

 

「プロレス人気が下がってきた時期に、オレの離婚が重なってね。あの時は自殺を考えていた。死のうと思うことは誰にもあるでしょう。そこをどう乗り切るかなんだけど、あのころは不安だらけで、うまくいかなかった。本気で死を決意すると、逆に開き直ることができた。このまま終わるわけにはいかない。死ぬ前に大きな花火を打ち上げようと思った。どうせ死ぬなら、戦って死のうと…」

 


 

●1987年のアントニオ猪木

 

確かに猪木はこの頃、公私ともにトラブル続きでした。

第二の故郷ブラジルを救おうと立ち上げた事業「アントンハイセル」が遂に破綻し、負債は億単位。
プロレスも、自らの体力の衰えと共に人気も下降線を辿っていました。
そして、かつて「おしどり夫婦」と言われた女優 倍賞美津子との夫婦生活にもすきま風が吹き、離婚寸前。
そして、この頃、ブラジルに住むの母親が逝去していたようです。

さすがの猪木も先の見えないドン詰まり感があり、「最悪の時期」と語るように、心身共にダメージを喰らっていました。

 


 

●1987年の新日プロ

 

1986年からの前田日明率いるUWFとの抗争は、猪木が前田との一騎打ちを避け続け、なんとも中途半端な状態でした。そこへ、4月に全日プロから長州らジャパンプロレス勢がUターンします。

 

猪木 新日軍vs前田 UWF軍vs長州 ジャパン軍の軍団抗争となるか、とファンは期待しますが、なんとも微妙な、中途半端なマッチメイクが続きます。

 

これもすべては、自らの影響力低下を恐れる猪木が元凶だった気がします。

 

この前年、1986年に長く定席だった「金曜夜8時」から月曜に移されたテレビ中継も、視聴率低迷のさらなるテコ入れ策として、1987年4月から火曜夜8時に移り、「ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング」とリニューアルされました。

 

そして、さらなる人気低迷に拍車がかかり焦った新日プロは、1987年6月から、猪木率いる「NOWリーダー軍」と長州、前田、藤波らの「NEWリーダー軍」による世代闘争をスタートさせます。

 

しかし…それでも猪木は自身の生き残りのため手段を選ばず、新人の武藤敬司やガイジンのディック マードックを自軍に引き入れ、対立構造自体をぐちゃぐちゃにして必死に延命を図る始末で、ファンの支持はますます離れていきました。

 


 

●伝説のズンドコ リニューアル「ギブアップまで待てない!ワールドプロレスリング」

 

テレビ中継の火曜夜8時への再引っ越しは、ビートたけしが「FRIDAY襲撃事件」で謹慎となったことで休止を余儀なくされた人気番組「ビートたけしのスポーツ大賞」の枠を埋める目的もありました。

 

「ギブアップまで待てない!」は、司会の山田邦子ほか、なぎら健一、志村香、男闘呼組などのタレントによるスタジオトークの合間に試合中継を挟む、という、画期的過ぎるリニューアルでした。

 

制作をスポーツ局からバラエティ班に変更してまでのテレビ朝日 本気の取り組みでしたが…結果は完璧に大スベりし、熱心な新日プロファンの大顰蹙と怒りを買いました。

 


 

●藤波のアイデアを横取り

 

そんな中、猪木は新日プロのフロント上井氏から「藤波さんが、長州と巌流島で試合したら面白いんじゃないかと言ってました」という話を耳にします。藤波は大分、長州はその名の通り山口出身ですので、下関にある「巌流島」で対決、というのはそれなりに意味があります。

 

猪木は即座に「アイツらにその試合はできない、巌流島はオレがやる」とそのアイデアを横取りした、と言われています。

 


 

●「巌流島」の意味

 

ここで猪木は、単なる「巌流島で行う興行」ではなく、1対1の決闘、というコンセプトを思いつきます。観客なし、ルールもなし、時間無制限で、オトコとオトコの果たし合いをやる。

 

二番煎じを嫌い、世界初、猪木ならでは、にこだわる猪木らしいアイデアです。もちろん、2人の武芸者が、無人島で雑音と邪念を排除して雌雄を決する、というのは「男のロマン」という点で申し分ありません。

 

猪木の語る「どうせ死ぬならそういう戦いをしてから」という発言も、まんざらウソ、でもありません。猪木はそういうロマンチックな破滅願望というのも持ち合わせていますし、それが刹那的な過激なセンチメンタリズムとして魅力でもありました。

 

しかし、同時にそれだけ、とはどうにも私には思えません。そんなタマではないでしょう、という話です。

 

おそらく当時の猪木は「もう猪木は終わった」と陰口を叩く所属選手や、団体フロント、テレビ局などの関係者、プロレスマスコミ、そしてプロレスファンに対しても嫌気がさしていた気がします。

 

「人気は下がっていたけど、ファンに媚びるつもりはなかった。見せない、見なくていいよと。だから巌流島を選んだ。武蔵と小次郎になりきりたい気持ちもあったけどね。」(猪木)

 

ただ、観客に媚びるのはまっぴらだ、と言うだけであれば、わざわざ「巌流島」でやる必要はありません。

猪木の本音は、プロレス界を超えて一般大衆まで視野を広げ「アントニオ猪木ここにあり」という話題を提供して、存在感を示す起爆剤としたい、というものであったのだろうと思うのです。プロレスラーと言うより、プロデューサー感覚で、ピンチの時にこそ開き直ってデカイ事を仕掛け、大逆転を狙うのが猪木なのです。

 


 

●「離婚」と「お互いのプライドがルール」

 

この猪木の狙いは、ズバリ的中します。

「猪木が巌流島で戦う」「無観客での決闘」という話題性で、プロレスマスコミだけでなく一般マスコミでも話題に上り、テレビ朝日は特番枠での放送を決めました。

 

対戦相手が東京プロレス時代から長い因縁のあるベテランのマサ斎藤であることで、プロレス的には「なぜNOWリーダー(旧世代)同士が戦うのか」という疑問の声が上がりますが「いにしえの戦いのロマンにそんな小さいことはどうでもいい」という理論で封じ込めます。

猪木は試合2日前に離婚届を提出。公私ともにケジメを付け、遺書もしたためた、とする猪木は「東京から巌流島まで歩いて行く」などと発言し、連日スポーツ新聞はこの話題で持ちきりとなります(このあたりの虚実ない交ぜ具合が、まさに猪木です)。

 

また、

・夜明けと共に試合開始
・立会人2名、レフェリーなし
・時間無制限、ギブアップか10カウントKOのみで決着
・ルールなし、反則自由

そして、なんといってもこの一文

・お互いのプライドがルールだ

が発表され、話題となりました。


 

●猪木「遺書」全文

 

「この度私儀猪木寛至は戦いの夢であった巌流島決闘が実現のはこびとなり、皆様のごめいわくをかえりみず、私の思いを果たさせていただきましたこと心より深く感謝申し上げます。ついては私に万が一の事態が起きたる時はレスラー、社員一丸となって、プロレス界の発展につくされん事を願います 昭和六十二年十月四日 アントニオ猪木」(原文ママ)

 


 

●「巌流島」実現へ

 

「巌流島」は三菱重工と下関市が所有する無人島で、正式な名称は「船島」といいます。

     

 

新日プロは地元プロモーター、下関市観光局、果ては地元出身の大物代議士 安倍晋太郎 元外相(安倍晋三首相のお父さん)の秘書まで、ありとあらゆるコネクションを駆使して使用許可を得ます。

 

※私がこの島に上陸した際に聞いた裏話は、続編でお送りします。

 


●無観客をノボリ収入でカバー

 

この独創的すぎる「無観客試合」というアイデアは、常人には理解不能です。テレビ朝日から新日本プロレスに出向していた辻井博会長は「ウチは興行会社だろう。それが客を入れないで試合するとは、猪木は何を考えているんだ」と懸念を示したといいます(当然です)。

 

猪木の「無観客試合」というロマンを叶えるべく、新日プロ フロントは試合会場に立てるノボリにスポンサーを募るアイデアを立案、1本10万円で130本、実に1300万円の収益を上げることに成功しました。

 


 

●「決闘」という実験

 

そして1987年10月4日、決戦当日を迎えます。

立会人は山本小鉄と坂口征二。

夜明けと共に試合開始、とされていたため、150人を超えるマスコミは前夜、早朝から島へ渡り待ち構えますが、一向に試合は始まりません。

午後2時に猪木が、午後3時50分過ぎに斎藤が、それぞれ船で島に上陸。

 

そして午後4時30分、マサ斎藤がリングに上がりますが猪木は姿を見せず。それから30分後、ようやく両者がリングで向かい合います。空撮を狙うマスコミのチャーターしたヘリコプターが3機空を舞い、爆音が鳴る中での試合開始。

 

両者はひたすらグラウンドで首、腕、脚、バックの取り合い。それが延々、1時間以上続きます。

観客がいないので派手な大技を出す事も、飽きられるからと展開を変える必要もありません。ただ、「決闘」「果たし合い」と銘打っている以上、単に相手を極めて勝てばいい、というものでもありません。誰にも止められませんので、双方が満足、気の済むまで、体力と気力が尽きるまで、戦い続けるしかないワケです。

 

この、これまで誰もやったことのない「プロレス」を、両者は手探りで創り上げている感覚だったのではないでしょうか。

 

後日のテレビ中継はさすがに地味すぎる攻防はカットされていたので、おおまかな流れしかわかりませんでしたが、赤コーナーも青コーナーもない、真っ白なリングはお葬式のようでもあり、壮大な「実験」のように見えました。

 

一進一退の攻防が続き、日没を迎えます。照明の代わりにかがり火が焚かれ、ますます幻想的な雰囲気に包まれます。

「そうか、猪木はこれをやりたくて、だから夕方からの試合開始にしたのか」と感じました。芝生に白リング、背景に海と空、月と星、そしてかがり火…まさに猪木が時折口にする「格闘芸術」、「闘いのロマン」としかいいようのない完璧な絵面です。

かがり火の中の果たし合いは、プロレスというより能や狂言の舞台のようでもありました。

試合開始から2時間が経過、試合は頭突きとパンチの応酬で両者額から出血となります。時折、リング下の野原でも戦い、四つん這いでバックを取り合う両者は原始的な獣のようです。

 

猪木はここで斎藤をかがり火に叩きつけるケレン味を見せ、火の粉が周囲に飛び散ります。

 

そして猪木は背後からスリーパーホールド。

マサ斎藤は気を失い、猪木が夢遊病者のようにフラフラと歩みを進め、彷徨い歩きます。

そしてようやく、猪木が試合エリアから出て倒れ込んだところで、立会人の山本小鉄氏が試合終了を宣言。

 

試合は2時間5分14秒、マサ斎藤の戦意喪失、猪木勝利で決着となりました。

試合後、両者はタンカで病院へ運ばれ、脱水症状に加えて、猪木は鎖骨を、斎藤はみぞおちの剣状突起を骨折していました。


 

●マサ斎藤が語る「巌流島」

 

「優秀なプロレスラーとは、客を呼べるレスラー。その意識が染み付いて突っ走ってきた。だから、無観客というのは、ホントやりにくかったな。ザァー、ザァーと波の音、海の音しか聞こえない。これが、禅で言う“無”なのかな、と。どう戦おうかも、何もなかった。とにかく、相手をぶちのめしてやろう。スタミナの続く限り戦おう。それだけしか、考えていなかった。途中から試合に没頭して、周りがまったく見えなくなったんだ。試合の途中で暗くなって、リングの周りにかがり火がたかれていたんだけど、それさえ気がつかない。90分も必死に戦って、汗だくの体が、夜風に打たれ、ブルッと来た。ここで、われに返ったというか…。試合の終わる10分ぐらい前かな。ふと気がつくと、周りにかがり火がたかれている。あ、もうそんなに時間がたったのか、と。最後はスリーパーホールドをかけられ、息ができなくなって。切り返そうにも、力が出なかった。負けはしたものの、悔いはないよ。猪木さんと俺の2人でなければできない試合だったから。何せ前代未聞の2時間1本勝負。2人とも、汗と血まみれで脱水症状だった。猪木さんは鎖骨、俺は剣状突起が折れてたが、俺は、その痛みより、喉の渇きを癒やす方が先だった。ビールを50缶は飲んだな。十分に体が潤ったところで、病院へ向かったんだ。」(2015年、読売オンラインインタビュー)


 

●「巌流島」が残したもの

 

猪木は後に、「マサから試合後、プロレスラーになって良かったと言われた」と明かしています。

 

結果的にこの試合は大きなインパクトを残し、当時、離婚報道がかき消される程でした(その狙いもあったのでしょうね)。世代闘争を叫ぶ長州、藤波、前田らに対しても、「世間を巻き込むレベルの違い」を見せつける事もできました。しかし、だからといって時計の針は止められませんでしたが。

 

しかしながら時が流れ、この「巌流島」はアリ戦、北朝鮮興行、イラク人質解放、などと並んで「猪木の歴史」に必ず登場するエポックメイキングな出来事、となりました。

 

もし、この巌流島の決闘が、発案した藤波と長州だったら…おそらくは普通のプロレス試合となり、ここまでのインパクトは残せなかっただろうと思います。

 

プロレス的な好試合か、と言われれば、そもそも観客の目を考えないようにした攻防のため、そうではありませんが、間違いなく名勝負…と、いうより名場面、という感じですね。

 

プロレスの、というより人の常識を外れるダイナミズムとサプライズ、そしてインパクトに拘る猪木でなくてはできなかった、やらなかった「決闘」だったと思います。

 

次回、「巌流島上陸記」をお送りします!

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