「猪木 日本プロレス追放事件」②〜1971 時系列ドキュメント

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①「馬場と猪木」に続き、いよいよ今回は時系列で事件の真相に迫るドキュメント編です。

*文中敬称略


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第1章 猪木挙式からクーデターへの胎動

 

●1971年

11月2日 – 京王プラザホテルで猪木が人気女優 倍賞美津子と“一億円挙式”

媒酌人は大久保謙氏(三菱電機代表取締役会長)。日本プロレスコミッショナー椎名悦三郎氏(自民党副総裁、衆議院議員、元外相)、松竹・城戸四郎社長、秋田大介参議院議長が祝辞、乾杯の発声は笹川良一氏。来賓祝辞のトリは井上東京スポーツ新聞社代表取締役社長。

来賓は中村錦之助(萬屋錦之助)淡路恵子夫妻、田宮二郎、フランキー堺、長門勇、林家木久蔵、立川談志、一龍斎貞鳳、由利徹、コロンビアトップ、香山美子、笹るみ子らの芸能界、荒船清十郎、二子山勝治、尾崎将司らのスポーツ界などから多くの有名人、著名人が参列。華々しく執り行われました。

 

事の発端は、その2日後でした。

 

11月4日 – 後楽園ホールの控え室で上田馬之助が猪木と会話。その席で上田は「幹部の浪費がこのまま続けば日本プロの未来はありませんよ。猪木さんと馬場さんで、この腐りきった日本プロレスを選手のための会社に改革して下さい!」と懇願。

 

もともと猪木と上田は反主流派的立場にあり仲がよく、また猪木もさまざまな理由を付けては会社の金を横領、使い込みし続ける芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の三幹部の悪行三昧を腹に据えかねていました。「リングで体を張ってファイトするレスラーより現役を引退した幹部連中の稼ぎの方が多い」という事実に、不満を抱く選手は多かったといいます。

 

11月5日 – 上田が「内密で話したいことがある」と馬場を羽田東急ホテルに呼び出し、猪木と共に会社改革を提案。慎重派の馬場も「レスラーのための会社に」という改革案に賛成。

 

11月18日 – 猪木と上田が馬場を京王プラザホテルに呼び出し、馬場に改革の具体案を開示。

 

11月19日『’71ワールド・チャンピオン・シリーズ』が全17戦の日程で開幕。

後楽園ホールでの開幕戦で、試合開始前に、猪木と上田が改革の概要を選手会に説明。大木金太郎と戸口正徳以外の17人の選手が改革案に署名。


この時点でのプランは

「芳の里、吉村、遠藤を降格ないし減俸させる。但し、選手による会社乗っ取りという行動は社会的印象が悪いだろうから、社長にはしばらくそのまま芳の里を据え、馬場と猪木が副社長を務める」

というものでした。

馬場と猪木は改革決行の日取りを12月13日と決めます。

 

猪木は改革計画の参謀であるプロモーターで経理士、猪木の後援会長でもあった木村昭政氏と共に、単独で改革プランを練り上げ始めますが、これが後に馬場と猪木が袂を分かつ原因となってしまいました。

 

木村氏は日本プロの帳簿などをチェック。素人目にも杜撰な日本プロの帳簿は幹部追放の強力な材料でした。経理上の使途不明金は年間5700万円とされ、現在の貨幣価値でいえば数億円になります。これを知った猪木は改革案をさらに強硬なものにする事を考え始め、臨時株主総会を招集し一気に役員の改選、つまり「三幹部の追放」を強行する事を提案します。

 

慎重派の馬場はこの性急な改革案に難色を示します。

「寛ちゃん、いきなり追放はまずいよ。改革の前に、もう一度会議の場をもとうじゃないか」

猪木は馬場の意見を聞き入れ、11月28日に日本プロの事務所で役員会議を招集する事に同意しました。

 


第2章 ダラ幹の逆襲

 

11月26日芳の里(日本プロレス社長)が吉村道明、グレート小鹿と共に新宿のスナックへ出かけます。

そのスナックに1本の電話が入ります。かけてきたのは上田馬之助。上田は「シリーズ終了後に猪木が会社の定款を変えて社長になることを企んでいる」と密告します。

状況がつかめない芳の里は上田をスナックに呼び出し、「これは猪木一人の計画か」「お前も仲間か」「じゃあ馬場は?」などと問いただします。上田は「最初は仲間だったが、大変なことになると思い電話した」「馬場さんも知っている」「馬場さんも猪木さんと一緒に行くはずだ」などと回答。

*この密告の理由は「発案したにも関わらず自身が役員候補にも入らない猪木主導の改革案に上田が不満を抱いた」とも「遠藤幸吉の付け人出身であった上田が遠藤の身を案じた」など諸説あります。

 

上田と入れ変わりに、馬場も同じスナックに呼び出されます。芳の里は馬場にも問いただしますが、馬場は「俺は知らん」の一点張り。その後、幹部は猪木の動きを警戒するようになります。

 

11月28日 – 臨時役員会を開催。

猪木は当日、代理人として木村氏を同席させます。木村氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求すると、幹部連中の顔色が変わりました。猪木はここで木村氏を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村氏に手渡しました。

これで幹部連中の使い込みはストップし、第一段階の目標は達成。残るは三幹部の追放のみとなりましたが、馬場は猪木の性急な動きや上田の動きに疑念を抱き、前夜に芳の里らに事情を聞かれていることもあり、足並みが狂い始めます。

 


第3章 馬場の猪木不信

 

11月29日 – 横浜文化体育館で幹部のひとりである遠藤幸吉が上田に接触。遠藤は上田から猪木の行動を事情聴取すると共に、上田も新宿のスナックの件を遠藤に説明。同時に遠藤は猪木の行動阻止作戦を開始します。

 

12月1日 – 馬場が京都駅で上田を呼び出し、上田から猪木の動向を聴取。名古屋への移動中の東海道新幹線の車内でも、隣の席に座らせて状況聴取を行います(馬場は他の選手と違う車両の座席を予約していました)。その席で上田は「猪木が新会社の社長になり、自分も印鑑証明を用意するよう言われた」と馬場に説明し、馬場は「話が違う。完全なクーデターだ」と認識。馬場は名古屋駅で下車せず、芳の里に猪木の動向を報告するためそのまま帰京し、報告後、当日試合がある愛知県体育館へ直行。

 


第4章 猪木孤立へ

 

12月2日 – 上田は浜松市体育館大会と翌日の山形県体育館大会を欠場し、同時に日本プロレスの顧問弁護士と共に、猪木の行動に関する告発状を作成。

 

12月3日馬場は山形大会で「猪木抜きの」選手会を開き、猪木派の計画を上田とともに暴露、連判状の無効を提案。自らは責任を取り選手会長並びに取締役を辞任(この際に猪木も取締役を解任との説も)。

*この裏では「馬場が猪木に返済期限の迫った手形の3000万円を借りる約束をしていたが、クーデター派の動きに感づいた会社側が肩代わりを約束、馬場は猪木に同調する必要がなくなり猪木一人を悪者にして自らの保身をねらった」という門茂男氏著書での説もあります(後述)。

 

12月5日 – 巡業先の仙台からの帰京後に、緊急選手会を開催。

その席で猪木は自分が行ってきた行動について謝罪。しかし、選手会長代行となった大木金太郎は翌12月6日に猪木の処分を議決すると発表します。

 

12月6日 – 茨城県立スポーツセンター体育館

大木選手会長代行が臨時選手会を招集し「猪木の選手会からの除名」を提案。山本小鉄だけが反対票を投じたものの、圧倒的多数で猪木除名が決議されます。この時、猪木除名を強硬に訴えたのはミツヒライ、グレート小鹿の両名であったと言われています。

さらに大木はその場で芳の里に「猪木の出場停止をしなければ選手会員は試合に出場しない」という旨の決議書を提出。

それに対し芳の里は「プロモーターに迷惑がかかる。シリーズ終了後に猪木の処分を決定する」と返答。

 

猪木は、山本から自身の除名決議が行われることを聞かされます。当日は水戸に宿泊予定でしたが、予定を変更して帰京。

*芳の里によれば、選手会の除名決議を察知した猪木が芳の里の宿泊先を訪れ「今回の事は私が悪かった。社長のあなたを出し抜いて、この様な行動を起こした事をあやまりたい」と土下座に及んだ。芳の里はその言葉を聞き「会社のために良くやってくれた。何も心配せずに今まで通り頑張って欲しい」と猪木に言った、とされますが、結果を見ればその約束は…

 


第5章 BI砲ラストマッチ

 

12月7日 – 札幌中島スポーツセンター大会のため選手は札幌へ移動。猪木は不穏な空気を察し山本、ユセフ・トルコと共に航空便や宿泊先を別にするなどの行動を取ります。試合は馬場・猪木組がファンクスに敗れ、インタータッグ防衛に失敗。結果的にこれがBI砲の日プロラストマッチとなりました。

<試合経過>

1本目は当時でも繋ぎ技のボディスラムで猪木がドリーにあっさりフォールを奪われファンクスが先取。

2本目に馬場が32文ロケット砲でテリーをフォールし1対1となる。

決勝の3本目は隙間風が吹くタッグプレーの中、孤立した馬場にテリーがテキサスブロンコ・スープレックス(ダブルアーム・スープレックス)でフォールを奪い、ファンクスが2-1で勝利。

BI砲の連続防衛記録は14でストップ、5年ぶりに日本の至宝インタータッグ選手権が海外流出。

 

ちなみに、この最後のBI砲の試合映像、後に竹内宏介氏が日本テレビ アーカイブを探索したものの映像が放送後に消去されてしまったらしく、現在は観る事ができません。

 

12月8日 – 札幌から帰京後に猪木が「尿管結石」を理由に入院し、残る日程を欠場。(その筋の方々から脅迫され身の危険を感じての仮病だったようです)

 

12月9日 – 大阪府立体育館にて、坂口征二が猪木に代わりドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦(こちらの映像はテレビ朝日が保有、DVD化されています)。猪木は日プロから「無断欠場」呼ばわりされ、さらに保持していたアジアタッグもパートナーの吉村道明がタイトル返上を申し出た事で剥奪されます。


第6章 猪木追放

 

12月10日 -この時点で猪木の除名処分が社内決定しており、12月13日の記者会見に向けて準備が進みます。

 

12月11日 – 猪木は山本を練馬区のボウリング場に呼び出し、その席で山本は猪木との共闘を宣言します。

 

12月12日 – 『’71ワールド・チャンピオン・シリーズ』の全日程終了。

 

12月13日 – 代官山にあった日本プロレス興業で猪木除名に関する記者会見が開かれます。芳の里社長、大木選手会長、平井義一日本プロレス協会会長は

「猪木を日本プロレスから除名・追放する。理由は日本プロレスを乗っ取ろうと計画し、会社の重要書類を無断で持ち出した」「馬場の責任は問わない」

と会見。選手会全員の署名捺印による猪木除名の決議書が提出されたことを明らかにし、これに伴い猪木は日本プロレスから除名されました。奇しくもこの日は当初計画では猪木、馬場らが三幹部の追放を迫る予定日でした。

記者会見後、事務所にはビールが持ち込まれ一転、猪木追放祝賀会へと変わり、ミツヒライ、グレート小鹿らの音頭で一同は乾杯。馬場と上田は立場上この場には参加せず。宴会の真ん中には後に猪木と合流する坂口、星野の姿もありました。

追放が決定的となった猪木は辞表とともに保持していたUN選手権のベルトを妻の倍賞美津子に代官山の日本プロ事務所に返還させます。

 


第7章 猪木反論も猪木派解体

 

12月14日 – 猪木が京王プラザホテルで反論会見を開きます。

この席で、猪木と木村氏は「今回の騒動はクーデターではなくあくまでも組織改革であった」と強調し、「日プロ経営陣の不正を証明する書類を保管している」と公表。

また不正幹部として遠藤、吉村を名指しで批判、さらに馬場と上田を「裏切り者」として批判し、さらには「日本プロレスを商法違反で告訴する用意がある」という話までちらつかせます。

 

一方の日本プロレス側も同日に「日本プロレスは追放するメンバーを他にも決めていた」などと会見。同時に藤波辰巳、木戸修が日本プロレスを退団しました。

ユセフ・トルコは日本プロレスから猪木に協力していたとして謹慎処分を受けます(トルコは1972年1月12日付で日本プロレスを解雇)。

一方の主役である馬場は、同日早朝、逃げるようにロスに遠征。ジョン・トロスとのコンビでマサ斎藤、キンジ渋谷組との金網デスマッチに出場。

 

12月15日 – 芳の里から自宅謹慎を言い渡されていた山本小鉄が、これを不服として日本プロレスを退団(後に山本は日本プロレスを告訴して勝訴、約200万円の退職金を手にしました)。

 


第8章 猪木新団体設立へ

 

日本プロから追放されマット界の孤児となった猪木は、国際プロレスに参加する、海外に遠征し一から出直す…などの噂が飛び交いましたが、その裏で一度は「日本プロレスへの復帰」をコミッショナーである椎名悦三郎に懇願しています。

しかし、選手会の猛反対で復帰を断念した猪木はマスコミを通じて馬場、坂口を挑発。

「馬場は3分でKOできる、坂口は片手で3分だ!」

猪木の挑発に坂口は

「俺は3分とは言わない。15分で猪木さんをKOしてやる!」

とエキサイト。

馬場は

「除名になった猪木など言わば野良犬。プロレスは街の喧嘩ではない」

と一笑に付しました。

 

●1972年

 

1月13日 – 猪木が新日本プロレスリング株式会社の会社登記手続き

 

1月26日 – 猪木が京王プラザホテルで新日本プロレス設立会見を行います。

この時点での参加選手は、猪木、山本をはじめ、猪木の付き人の藤波、トルコの付き人であった木戸の4人のみ。

マスコミの予想では、東京プロ時代の朋友であるマサ斎藤、トルコシンパのミスター松岡、猪木シンパでメキシコに遠征していた柴田と北沢、ヒロマツダ、マティ鈴木などが参加するのではないかといわれましたが、マサ斎藤は14回ワールドリーグに参加、松岡はアメリカから日プロに忠誠を誓い、マツダ、鈴木はまったく猪木の新団体を相手にはしておらず、結局、参加したのは柴田と北沢の2人のみでした。

 

3月6日 – 新日本プロレス旗揚げ。


《エピローグ》

 

1972年10月には馬場が「全日本プロレス」を興し日本プロレスから離脱。2大エースと2つのテレビ局を失った日本プロレスは翌1973年4月に崩壊します。

 

この事件で馬場と猪木の対立、遺恨は決定的なものとなりました。

慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後多くを語らず、以降、信頼関係を第一に団体運営していきます。

「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方で、その行動には常にスキャンダルが付きまといました。

元来、お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となり、フリーとして悪役レスラーを貫き通しました。

 

次回、関係者コメント集へ続きます!

 

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