「飛龍革命」③藤波辰巳の「凄さ」とは?

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新日プロにおいて旗揚げから長く猪木を支えたNo.2、といえば「世界の荒鷲」こと元柔道日本一の坂口征二 副社長ですが、人気面では「猪木二世」といわれた藤波辰巳でした。藤波といえば日本にJr.ヘビー級という軽量系のスピーディなプロレスを確立させ、ちびっ子と若い女性ファンを動員した事で知られていますが、「強さ」というよりも「巧さ」で評価される選手です。

 

70年生まれの私は、リアルタイムではちょうど藤波のヘビー級転向くらいのタイミングからプロレスを見始めたので、まさにそんな印象だったのですが、後にJr.ヘビー チャンピオン時代の藤波の試合ビデオを観て、その認識を改めました。

 

藤波は「巧い」だけではなく、しっかり「強い」選手だったのです。

 

今回は「飛龍革命」特別編として、藤波の入門からの足跡を辿り、その”凄さ”について振り返ってみたいと思います。

 


 

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16歳で日本プロレス入門

 

藤波が「強くない」と言われる根拠は、180センチそこそこ(公称183)のその「サイズ」と、「格闘家としてのバックボーンのなさ」と言われます。

 

実際、藤波は格闘技経験なしで1970年、16歳で日本プロレスの門を叩きます。

 

地元大分で中学卒業後、自動車修理工をやりながらボディビルジムに通い身体を鍛え、同郷の北沢幹之選手を頼って入門…というより潜り込みました。

 

新弟子募集オーディションなんて開催されていない時代。当時のプロレス界は大相撲出身がその多くを占め、ほかの選手もアマレスや柔道などの経験者ばかりで、190センチはザラの巨漢ばかりです。

 

そんな中に藤波は格闘技経験もなく飛び込んだのです。本人曰く「リングで練習させてもらえず、旅館の大広間で見よう見まねで受け身を取ったり、会場の隅でスクワットをやったりしていた」そうです。


 

猪木の新日プロ旗揚げに参加

 

藤波は北沢さんの計らいでアントニオ猪木の付け人に抜擢。そして猪木の日プロ追放に追従するカタチで1972年、新日本プロレスの旗揚げに参加。これも当人の意思とは関係なく、なんとなく気がついたらそういう事になっていた、という事らしいのですが、後発の馬場 全日プロとは対照的に厳しくハードな練習好きが集まった新日プロの創世記を、持ち前の根性で生き残ります。


 

カールゴッチ杯優勝、海外武者修行へ

 

続々とデビューする(グラン)浜田、荒川真、栗栖正伸、藤原喜明ら若手のリーダーとなった藤波は、小沢正志(後のキラーカーン)との決勝を制し、1974年「カール ゴッチ杯」に優勝。海外武者修行へ行くチャンスを掴みます。

 

藤波は木戸修と共に西ドイツに渡りますが、現地の実力者ホースト ホフマン(あの三沢光晴憧れの名レスラー)に子供扱いされ、ガチガチにやられたとか。

 

その後、アメリカへ渡り、フロリダのカール ゴッチのもとで再修行。この「ゴッチ道場」での特訓が後のシンデレラ ストーリーの原点となります。

 


 

ゴッチ道場の地獄のトレーニング

 

「プロレスの神様」「猪木ストロングスタイルの師匠」として知られるカール ゴッチのトレーニングは厳しい事で有名です。

 

木戸修が帰国したため、2人で借りていたアパートを引き払いゴッチ邸に住み込み。TVはおろか、日本の雑誌なども取り上げられ、読めるのはゴッチの本棚にあるレスリングの本のみ。試合もなく、ゴッチ以外の人との接触もトレーニング相手のマレンコ一家ぐらいで、しかもマットもない芝生の上。

 

文字通り「24時間カールゴッチ」な日々を送ります。

 

ちなみに、ゴッチ道場のスパーリング相手の人形には(ゴッチさんのキライな)「ロビンソン」という名前が付けられていたそうです(笑)。


 

アメリカ、メキシコ遠征

 

1976年より「ドクター フジナミ」のリングネームでジム クロケット ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区をサーキット。「あのゴッチの弟子」という事で警戒され、後にNWA世界チャンピオンになる若手時代のロニー ガービンに試合中にグラウンドで尻の穴に指を入れられるなど「仕掛け」られますが、ゴッチ道場で培ったグラウンドテクニックで切り替えし、事なきを得たそうです。

 

当時のプロレス界は「ポリスマン」と言われる腕利きの実力測定役がおり、門番のように新参者の腕前を試す、というのが当たり前でした。

 

その後「ドクトル フヒナミ」としてメキシコに転戦、当初はルード(悪役)扱いでしたが、後にテクニコ(善玉)に転向、「リング フヒナミ」として活躍します。

 


 

ニューヨークMSGで戴冠、凱旋帰国してドラゴンブーム到来

 

1978年1月、ニューヨーク MSG(マディソン スクエア ガーデン)にてカルロス ホセ エストラーダを秘密兵器ドラゴン スープレックスで破り、WWWF(当時)Jr.ヘビー級王座を獲得、チャンピオンとなります。

 

このドラゴン スープレックスは、試合前にカール ゴッチから「こういう技がある」と口で教えられただけの、練習なしのぶっつけ本番でした。フルネルソンからジャーマンスープレックスを放つこの技は当時、「受け身が取れない危険すぎる技」として恐れられた、というより顰蹙を買うレベル。試合後の控え室のレスラー仲間の反応も冷ややかだったそうです。

 

1978年3月に凱旋帰国

 

当時24歳の藤波はドラゴン スープレックスとメキシコ仕込みのドラゴン ロケットなどの飛び技、甘いマスクとブルースリーのようなバキバキの肉体美で若い女性やちびっ子ファンを大量にプロレス会場に動員する「ドラゴンブーム」を巻き起こし、腰痛で低迷していたストロング小林を抜いて猪木、坂口に次ぐ新日プロNo.3の座を獲得。

 

Jr.ヘビー級チャンピオンとして通算52回(!)に渡って同王座を防衛、さらに1980年2月にスティーブ カーンを破り、NWAインターナショナル ジュニアヘビー級王座を獲得、二冠王となります。

 


 

Jr.時代の藤波の強さ

 

チャボ ゲレロ、エル カネック、ダイナマイト キッド、木村健吾、さらに国際プロレスの剛竜馬、阿修羅 原などと激闘を展開。ロスアンジェルス、ニューヨーク、メキシコなど海外でも数多くの防衛戦を行いました。

 

 

見たことがない人は、藤波のJr.時代の防衛戦を見て欲しいのですが、この当時、カネさえもらえば安易に寝て(負けて)くれるような相手ばかりではなく、「負けてやってもいいけど、やることはやらせてもらうぜ」とか「なんなら恥かかせてやる」といった、曲者だらけの防衛戦です。

 

藤波はいまの総合格闘技のようなガチガチのグラウンドや、隙あらば「入れて」くるカタい相手に対して、さらにホームだけでなくアウェイのリングでも、怯むことなくバチバチやり合って、見事な勝利を収めています。

 

国際プロレスとの対抗戦、阿修羅 原戦では、相手のよさを引き出した上で、完璧な三角締めでフィニッシュ!UWFで脚光を浴びるはるか昔に、関節技で完勝しているのです。

 

これらの試合をきちんと観たら、「藤波は強くない」とは間違っても言えなくなります。

 


 

ヘビー級転向、飛龍十番勝負

 

1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まります。ボブ バックランド、ハルク ホーガン、アブドーラ ザ ブッチャー、ジェシー ベンチュラ、ディック マードックらスーパーヘビー級選手とシングルマッチを行いますが、体格差はいかんともしがたく、藤波は苦戦が続きます(私が見始めたのはこの時期です)。

 

しかもこの企画は途中で立ち消えとなりますが、同年8月にはまたもやニューヨークMSGでジノ ブリットを破りWWFインターナショナル ヘビー級王座を獲得しました。

 


 

損な役回り、長州との「名勝負数え歌」

 

1982年10月、メキシコ遠征から帰国した長州力が突如、試合中にパートナー(格上)の藤波に牙を剥き、反乱。以降、藤波vs長州は「名勝負数え歌」と呼ばれる激闘を展開し、新日プロ ブームの一躍を担いました。

 

当時、「反乱」「下克上」「革命」と持て囃れたのは長州でしたが、小学生から中学生になるタイミングだった私は、一方的にケンカを売られた側の藤波の心情が気になって仕方ありませんでした。

 

これまでの経緯を見ればわかるとおり、当時長州の主張した「藤波はエリートでスター、自分は雑草」というのは事実ではなく、長州の方がアマレス五輪選手からスカウトされたエリートで、格闘技経験のない藤波の方が余程雑草であり、数々の修羅場をくぐり抜けて来た苦労人です。確かにJr.王座戴冠などは新日プロ、新間氏の猛プッシュあってのものですが、与えられたチャンスをモノにするのだって大変で、団体が推したら素直に支持する程、プロレスファンは甘くありません。そして、そもそも長州が長く鳴かず飛ばずだったのはプロレスに本腰を入れなかった自身の問題で、藤波のせいでもなんでもないのです。

 

実はこの抗争を長州にけしかけたのは猪木だった、と随分後になって知ったのですが、藤波はもちろん当時なにも知らされておらず、いきなり後輩の長州にケンカをふっかけられ、ファンの多くは圧倒的に長州を支持する、という実に気の毒な役回りでした。

 

私も最初こそ長州を支持しましたが「よくよく考えたらケンカは売られた方が売る方よりシンドイんだよな」と気がつき、2戦目くらいから(どちらかといえば)藤波を応援していました。

 


 

大量離脱、混乱の新日プロを支える

 

クーデター事件の余波でタイガーマスクが引退、長州が全日プロに移籍し、藤波も離脱秒読み、と言われましたが結局、新日プロに残ります。

 

「この時、藤波が離脱していたら新日プロは崩壊していただろう」と言われていますが、藤波の猪木への忠誠は信仰にも近いものがありました。

 

1985年末にはブルーザー ブロディのボイコット欠場を埋めるべくIWGPタッグリーグ決勝で猪木から初のピンフォールを奪い、プロレス大賞MVPを初受賞するなど、低迷期の新日プロを支えます。

 

前田らUWF勢がUターンしてきた際も、多くの新日プロ勢が蹴り技に及び腰になる中で、前田のメガトン級の蹴りにも怯まず受け、86年の前田とのシングルマッチは目の上をザックリ切るアクシデントにも関わらず名勝負を残し、前田をして「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた」と評されました。

 

その後、長州らジャパン勢が復帰し、ニューリーダーvsナウリーダー抗争をするもグダグダになり、前田が長州の顔面を蹴り解雇され、「飛龍革命」へと繋がるのです。

 


 

腰痛で長期欠場、復帰〜NWA世界王者にも

 

「飛龍革命」で新日プロのエースとなった藤波は、1989年6月のベイダー戦で腰を負傷。重度の椎間板ヘルニアで1年3か月間にも及ぶ長期欠場となります。

 

痛みで横になることもできない状態が長く続き、自殺まで考えるほどだったそうですが筋肉を鍛え直す治療法と巡り会い、奇跡的にカムバック。

 

復帰後はリングネームを藤波「辰爾」と改名しました。

 

復帰後の藤波は長州と共に、台頭して来た闘魂三銃士を支えるように一歩下がる事が増えますが、1991年3月には東京ドームでリック フレアーを破りNWA世界ヘビー級のベルトを巻き、93年にはG1クライマックス初優勝、WARの天龍と対決して勝利するなど、時折、さすがの存在感を見せていた時期です。

 

この時期の藤波の名勝負といえば、94年4月、広島での橋本真也戦です。橋本の猛爆キックを全身に浴びせられながら逆転のグラウンド コブラでIWGP王座を奪取した試合です。この時も、藤波の破壊王の爆殺キックを物ともしないハートの強さには驚愕しました。

 


 

その後の藤波辰爾

 

1999年、坂口征二の後継として新日プロ社長に就任しますが、橋本、武藤、長州、健介らの相次ぐ離脱、総合格闘技ブームにも押され続け、オーナー猪木の介入で会社は大混乱に。後に「暗黒の00年代」と呼ばれる最低迷期の中で迷走を続け、結局2004年に社長辞任。2006年には自らも新日プロを退団。

 

「無我」「ドラディション」などの団体を経て、2011年からは長州、初代タイガーマスクと共に立ち上げた「レジェンド・ザ・プロレスリング」のリングで活動を続け、2012年にはデビュー40周年。

 

2015年にはアントニオ猪木に次いで日本人2人目のWWE殿堂「Hall of Fame」入りの快挙!2017年にはデビュー45周年となりました。

 


 

プロレスラー藤波辰巳の凄み

 

中卒でプロレスラーになった普通の若者がニューヨークでチャンピオンになって凱旋。それまでの怪物的オジサンレスラー像とは正反対の爽やかなルックス、体脂肪1桁の肉体美も異色でした。ロングガウン全盛の当時、腰までのブルゾンジャンパースタイルを広めたのも藤波でした。

 

英語とスペイン語もペラペラで、世界を股にかけて戦う藤波はとにかくカッコよく、後の初代タイガーマスクから繋がるJr.ヘビー級の世界が開けただけでなく、藤波に憧れてレスラーになった選手は数限りなくいます。武藤、三沢、川田、田村、棚橋など、その影響を公言する一流レスラーも数多く存在します。

 

やはりプロレスラーとしては体格に恵まれなかった事でヘビー級転向以降は返し技を多用せざるを得ず、余計に「強くはないが巧い選手」の代表のように言われるのですが、圧倒的に体格差のある相手にも一切怯まず真っ向から打撃を受け続けるタフネスさとハートの強さは、前田、橋本、ベイダーら対戦相手も賞賛する程です。

 

私が個人的に印象深いのは、1983年、長州との抗争初期に膝の半月板と内側靭帯を損傷していた藤波が膝にガスを注入して戦った試合です。後に私も器械体操の影響で膝の半月板と靭帯をやった経験があるので尚更わかるのですが、そんな負傷をしたすぐは激痛で歩くのもムリです。しかしそんな状態で藤波は20分近い激闘を繰り広げ、サソリ固めにもギブアップせず、根負けした長州がリング下の場外フェンスに逆さ吊りにしてリングアウト勝ちを拾わざるを得ない感じでした。

 

普通の競技ならこれだけの重症なら欠場するのが当然ですが、プロで興行の世界であるプロレスは、それでも試合をしないとならないのです…。私はこの試合を観て改めてプロレスラーという商売のシンドさを知りました。

 

後年はヘビー級転向以来の無理がたたって腰を痛め、持ち前の柔軟性がなくなり、その時期以降の藤波しか知らない世代からするとさらに「どこがすごいのかちっともわからん」のでしょうが…

 

さらには素のキャラの温厚な性格と天然ぶりに加え、クーデター事件では八方美人、優柔不断で「コンニャク」と呼ばれ、そして猪木傀儡社長時代のズンドコぶりでは、プロレスファンから数多くの失笑を買いました。

 

しかし、藤波は「叩き上げのプロレスラー」として、全盛期は巧さだけでなく強さ、凄みを感じさせる名レスラーだったのです。

 

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