「IWGP」とは?後編〜1983 6・2蔵前、猪木失神KOの衝撃

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IWGP構想とは?の前編に続く後編では、1983(昭和58)年に開催された第1回大会について、リアルタイム世代の視点でご紹介します。

 


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タイトル返上

 

「世界に乱立するタイトルを統一する」IWGP構想に向け、新日本プロレスはそれまで保持していたタイトルの廃止、チャンピオンベルトの返上を行います。

 

1981(昭和56)年4月23日、猪木がスタン ハンセンとの防衛戦を最後に、自身のNWFヘビー級王座を返上、封印。

以降、

・WWF北米ヘビー級王座(坂口征二)

・NWA北米タッグ王座(坂口征二&長州力)

・アジアヘビー級王座(タイガー ジェット シン)

・NWF北米ヘビー級王座(タイガー ジェット シン)

・アジアタッグ王座(タイガー ジェット シン&上田馬之助)

の6つのタイトル(チャンピオンベルト)を返上して凍結。

 

ただし、Jr.ヘビー級のベルトと、藤波辰巳が1982(昭和57)年8月に獲得したインターナショナル ヘビー級の、WWF王座は対象外でした。

 

「アントニオ猪木 NWF 激闘の歴史」はコチラ

 


ブッチャー電撃参戦!

 

1981(昭和56)年5月、全日本プロレスの常連エースガイジンであるアブドーラ ザ ブッチャーが「IWGPへの参加」を理由に、新日本マットに電撃参戦。

 

しかしこれが馬場の怒りを買い、報復にスタン ハンセン とタイガー ジェット シンを引き抜き返されます。

 

また、ヨーロッパ代表の本命だったローランド ボックは1月の来日時に体調不良を露呈し、その後、消息不明に(この試合で引退とのちに判明)。

 

ハンセン 、シン、ボックと立て続けに目玉ガイジンを失い、さらに猪木自身にもアクシデントが襲います。

 


深刻な猪木の体調不良

 

4月のドバイ・韓国遠征の際、猛烈な体調不良に見舞われた猪木は、検査の結果、糖尿病が発覚。

それも血糖値590と正常値110以下を大きく上回る、普通の人なら昏睡状態レベルだったといいます。

猪木は入院加療しますが、医師の勧めるインシュリン注射を拒み、階段昇り降り&氷風呂で強引に血糖値を下げたといいます。

当時は「内臓疾患」としか発表されず、わずかな欠場期間を挟み、強行出場を続けていました。

 


グダグダなアジア地区予選

 

アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力、キラーカーン、ラッシャー木村の6選手によりリーグ戦が行われ、5戦全勝の猪木と2勝1敗2引き分けのカーンがアジア地区代表に選出されました。

 

しかしこのリーグ戦、1981(昭和56)年4月から1983(昭和58)年4月までの複数のシリーズに渡り、しかも3年間もの間、かなり間延びして(きちんとした告知もされず)行われたこと、さらにはエントリーされていないタイガー戸口(全日本からの移籍)と猪木との一戦が唐突に「アジア地区予選」と発表されたり、ストロング小林や木村健吾も1試合だけ参加していたりと、かなりテキトー。

ファンにもわかりづらく、まったくもって意味不明でした。

 

なぜIWGPは開催まで3年近くかかったのか。それは準備に時間が必要だったということに加えて、前述の猪木の体調問題も関係していたのかもしれません。

 

しかし、新日本プロレスは長州力の「噛ませ犬」発言からの藤波辰巳との名勝負数え歌、そしてタイガーマスクの異常人気に支えられ、興行人気もTV視聴率も絶好調でした。

 


結局は単なる国内でのシリーズに

 

こうした紆余曲折を経て、IWGP決勝リーグ戦の日程がようやく決まります。

1983(昭和58)年5月6日の福岡スポーツセンターから、6月2日の東京 蔵前国技館までの全28戦。

 

前編でお伝えした「世界各国を巡り、決勝戦はニューヨークMSG」というプランはいつの間にか消滅し、「全戦、日本国内での開催」に。もはや前年まで同時期に開催していた「MSGリーグ戦」とどこが違うのかわからないレベルで、スケールダウンにも程がある「普通のシリーズ」になってしまいました。

 

その理由を新間寿氏は「国内のプロモーターの強い要請があった」と弁明しますが…

時を追うごとに各国プロモーターからの協力が得られなくなり、NWAやAWAはおろか提携先のWWFチャンピオン、ボブ バックランドの参戦すら敵わなくなったことは明らかでした。

 


決勝リーグ戦 参加選手

 

記念すべき初回の IWGP決勝リーグ戦の参加選手は、以下の10名です。

 

日本代表 : アントニオ猪木、キラー・カーン

北米代表 : アンドレ ザ ジャイアント、ディノ ブラボー(→ ラッシャー木村 に変更)

米国代表 : ハルク ホーガン、ビッグ ジョン スタッド

中南米代表 : カネック、エンリケ ベラ

欧州代表 : オットー ワンツ、前田明

 

これまた“世界統一“を掲げた大会としては、物足りない顔ぶれでした。

 

しかもディノ ブラボーは前夜祭参加後に「留守宅に強盗が入り、妻が心配だ」との理由で1試合も戦わずに電撃帰国!急遽ラッシャー木村が代打出場という、のっけから波乱の展開に。

 

ビッグ ジョン スタッド、エンリケ ベラは初来日。「まだ見ぬ強豪」でもなんでもなく、「誰だよオマエ」の員数合わせ的存在でした(スタッドはプロモーション時は素顔だったのに「アメリカでアンドレと抗争中で日本でタッグを組む姿が報道されたら困るから」という妙な理由でマスクマンに)。

 

そして、IWGP参戦を理由に移籍してきたハズのブッチャーは参加せず。

前年の猪木戦で噛み合わなさを露呈していたことに加え「地方で根強い集客力があるブッチャーはIWGP後のシリーズに温存する」という営業方針もあったようです。

 

そして何故日本人の前田が欧州代表なのか、藤波、長州を差し置いて?という声に対しては、「前田がヨーロッパヘビー級王者であるから」という強引な説明がなされるなど、なかなかのグダグダぶりでした。


戦前の予想

 

大本命はもちろんアントニオ猪木。顔ぶれを見ても強敵はアンドレのみで、全日、馬場ファンからは「猪木が優勝するためだけのIWGP」と嘲笑の声があがりました。

 

ホーガンはこの前年、前々年に猪木とのタッグで年末のMSGタッグリーグ戦でニ連覇を達成、「一番」とアックスボンバーで人気急上昇中、ではありましたが“ハンセンの二番煎じ“的な存在で、まだ猪木に勝てるとは誰も思ってない時期でした。

 

注目は前田明。前年に欧州遠征から凱旋帰国し、「七色のスープレックス」「レッグラリアート」の“スパークリング フラッシュ“として注目を集めるホープで、番狂わせの活躍に期待が集まりました。

 


リーグ戦の展開

 

開幕戦は福岡スポーツセンター、猪木vsアンドレ戦。私は生観戦しました。

▲新日プロのパンフレットが豪華な冊子にリニューアル。会場では即完売でした。

 

立錐の余地もない文字通りの超満員札止め。5月にも関わらず、蒸し風呂のような暑さで館内は酸欠になりそうなスシ詰め状態でした(ここはアイススケート場なので、冷房設備がないのです)。

 

試合は、猪木がアンドレを場外フェンスの外にショルダースルーして反則負けの黒星発進でした(ホーガンはカーンを下し、好スタート)。

 

その後、オットーワンツが2試合したところで早々に負傷で帰国、以降不戦勝に。ベラは案の定、ワンツとの不戦勝以外、全敗ロードを突き進みます。

 

台風の目として期待された前田明は、徳島での猪木戦(TVマッチ)は健闘したものの、ノーTVマッチでスタッド、ラッシャー木村にもピンフォール負け。試合結果を見るたびに「やっぱりまだ顔じゃないのか」とガッカリしたのを覚えています。

 

中盤戦、大阪で行われた猪木vsホーガンはアンドレの介入で両者フェンスアウトのドロー。

 

その2人を抑えてリーグ戦をトップで独走したのはアンドレでした。

しかし、決勝戦の前夜、愛知県体育館でカーンと痛恨の両者リングアウト。

 

リーグ戦全戦を終えた時点での勝ち点は、猪木37点、ホーガン37点、アンドレ36点、スタッド25点、カーン24点、木村21点、前田14点、カネック5点、ワンツ5点(負傷により途中棄権)、ベラ4点。

 

これで決勝戦は猪木vsホーガンに決定しました。

「猪木優勝間違いなし」という空気が出来上がり、猪木は何の技で勝つのか?やはり卍固めか延髄斬りか、IWGP決勝だから久々にジャーマンで決めてくれないかな、とか思ってました。

 

IWGPは確かに、当初の構想からするとどうしようもなくスケールダウンしてしまったけれど、「優勝した後に世界各国を巡り、各地のチャンピオンと防衛戦を行なってIWGPの価値を高める」ということに、当時の猪木ファンは希望を抱いていたのです。

 


衝撃の6.2蔵前!

 

1983(昭和58)年6月2日、東京 蔵前国技館。

IWGP決勝リーグの優勝戦 アントニオ猪木vsハルク ホーガンは、時間無制限1本勝負として行われました。

 

この日は木曜日で、TVは翌日に録画中継。当時のビッグマッチではよくある手法で、試合結果は中継まで、伏せられるのが通例です。

 

ところが夜、22時から放送のテレ朝「速報!TVスタジアム」で「プロレスラーのアントニオ猪木さんが、試合中に負傷し、東京医科大学病院へ救急搬送されました」との速報が流れます。

 

私の家にも、友人たちから次々と電話がかかりました。インターネットもない時代、地方の中学生プロレスファンは何の情報もなく、私はこの夜、友人たちとあれこれ話しながら「そうか、猪木はIWGP決勝戦で死んで、力道山になるのか」と、縁起でもないことを考えていました(笑)

 

翌朝の新聞は一般紙も含めて「猪木が試合中のアクシデントで失神」と扱い、ライバル局の日本テレビ「ズームイン朝」でも報じられるという異常事態に。夜8時からのワールドプロレスリングを待ちました。

 

そして始まったTV中継。タイガーマスクvs小林邦明戦に続いて、いよいよ決勝戦です。

 

 

満場の猪木コールの中、決勝戦に相応しい白熱した攻防が続き、猪木がホーガンを担ぎ上げたところで両者がもつれあってリング下へ。

 

そして背後からアックスボンバー、猪木は額を鉄柱に打ちつけます。フラフラとエプロンに上がった時、助走を付けたホーガンのアックスボンバーが炸裂、猪木は場外へ転落。

 

次に映った姿は、坂口、木村健吾らにエプロンに押し上げられたものの、舌を出してうつ伏せのまま、まったく動かない猪木の姿でした(坂口が猪木のアタマをバンバン叩いていたのが印象的です)。

騒然とする中、まだ試合は終わっていません。リングに駆け上がった新間氏に声をかけられようやくゴングを要請するレフェリーのミスター高橋。裁定は「21分27秒、KO(ノックアウト)でホーガンの勝利」。

最初こそジャンプして喜んだものの、すぐ真顔になり猪木の容態を心配して狼狽するホーガン。

プロモーターでありご当地きっての人気レスラーである猪木をアクシデントでKOしたとあっては、ホーガンは業界を干される事態になりますから、このリアクションは当然です。

 

リング内はセコンド、関係者が駆け上がり、猪木はリング中央に寝かされ、リングドクターの福家隆さんによる応急処置がとられます(何やら注射していましたね)。

 

この時、鳴り止まない猪木コールを「乾き切った時代における雨乞いの儀式のように、猪木コールが降り注いでいる!」と描写した古舘アナの言語能力は流石でした。

 

それを「静かにしてやってくれ」とジェスチャーで観客をなだめるホーガンのいい奴ブリ、なぜかTシャツを脱いでその場を仕切る山本小鉄さん。タイガーマスクの姿も見えました。

結局、猪木は目を覚ますことなく、場外へと搬送され、騒然とする場内の風景が映し出される中、中継が終了。

 

画面が変わり、TV調整室での古舘アナと解説の山本小鉄さんのツーショットが映し出されます。

2人によって猪木がKOされたシーンの解析が行われ、猪木は試合後に入院し、脳震盪で安静、集中治療の必要はない、という説明がなされてこの日の放送は終了しました(エンドロールはうつろな表情のホーガンのベルト+トロフィー姿でした)。

 

 


“呪われたIWGP“

 

こうして、「猪木失神KO負け」という誰も予想しなかったエンディングを迎えたIWGP。

興行としてみると、日本中をサーキットして全28戦中超満員が18大会、満員が5大会という、異常人気ブリでした。

 

当初IWGPはこの1回きりのイベントとなるハズだったのだと思いますが、翌年に第2回大会が開催されることになり、以降は

「年に一度の大会」に。

 

IWGPはあくまでそのリーグ戦の覇者への称号で、タイトルマッチ(防衛戦)が組まれる通常のタイトルになるのは、第5回大会が開催された1987(昭和)年以降からです。

 

そして後に「6.2蔵前 猪木舌出し失神事件」は、猪木が周囲の誰にも告げずに行った“自作自演“説がまことしやかに囁かれ、その目的は借金返済から雲隠れするためとか、プロレスを一般マスコミに取り上げてもらうため、など数々の憶測が流れました(入院してすぐに猪木が姿をくらましたとか、知らされていなかった当時の副社長、坂口征二氏が“人間不信“との書き置きを残して会社を休んだ、などのエピソードも含めて)。

多くの関係者が「これが真相」と当時の舞台裏を明かしますが、猪木本人は決して多くを語らないため、真相はいまもって藪の中(どの証言も事実が食い違い、信ぴょう性に欠けるのです)。

 

ともあれこの「第1回IWGP決勝戦」を機に、猪木と新日本プロレスを取り巻く環境が大きく変わり始めたことだけは確かです。この年の夏にクーデター事件が起こり、タイガーマスクが電撃引退。猪木は責任をとり社長を辞任(やがて復権)、新間氏が退社に追い込まれてUWF設立へ…などなど。

 

第1回の決勝で起きた猪木失神に加えて、第2回大会決勝では長州乱入からの暴動事件も勃発。前夜祭に来日したカナダの有力プロモーターらフランク タニー氏が日本からの帰国の途中立ち寄った香港で急逝。翌年以降も、ビンス マクマホン(シニア)氏、フランシスコ フローレス氏、吉原功氏(新日本プロレス顧問、元国際プロレス代表)など関係者が開催期間中に相次いで亡くなる不幸に見舞われ続け、“呪われたIWGP”と言われました。

 

翌1985(昭和60)年の第2回大会は、また項を改めて・・・

 

コメント

  1. タミー(元猪木信者) より:

    懐かしいですなぁ…
    自分は当時から裏に筋書きを感じていた物の、プロレス最強を信じていましたね。
    それでもコノ猪木失神だけはガチの事故だと思ってました。
    リングサイドのレスラー総出で失神した猪木をリングに戻したりして、子供心に「猪木反則負けじゃね?」と思いつつ、猪木失神は新聞記事にもなったので長いことガチの事故だと思ってました。
    なのでミスター高橋の『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』を見ても大方予想通りだったので驚かなかったのですが、唯一驚いたのが猪木失神の裏話でしたね。

    YouTubeで『最後の闘魂』を見てると奥さんが亡くなられてから猪木が急激に老けたのが哀しい…

    • MIYA TERU より:

      初めまして、コメントありがとうございます!
      猪木失神は”大いなる謎”ですね。ミスター高橋はじめ、いろんな関係者が「コレが真相」的なことを言ってますが、話を聞けば聞くほどどうしてあんなに食い違うのか、ってくらいに証言がブレブレで・・・。
      中でも「高橋本」はテキトー過ぎて信憑性としてはアヤシイ箇所が多々あります。もともと逆恨みから書かれた本ですしね・・・。
      もっとも猪木さんご本人がもっともインタビューの難しい方で(笑)、聞き手のスキルとタイミングが異なるとそのコメントは曼荼羅模様で聞けば聞くほど迷宮入りするんですよね。
      だから面白いんですが(笑)

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