「UWF」とは何だったのか?~③新日プロUターン/後編


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●間接的な政権交代マッチ〜「新・格闘王」誕生

 

1986年10月「INOKI闘魂LIVE part1」と称したビッグイベントが両国国技館で開催されます。

メインイベントは猪木対レオン・スピンクス、リングサイドには堺正章やタモリらが駆けつけ、久々の猪木の異種格闘技戦に一般層の注目も集まりました。

しかし、この興行の勝者は前田でした。

対戦相手のキックボクサー、ドン・中矢・ニールセンはベニー・ユキーデのジェットジムからの刺客。「クルーザー級チャンピオン」と紹介されますが実力は未知数、見た目は柴俊夫。

しかし試合は白熱の攻防で、それまでの異種格闘技戦と違いパンチとキックを主体とした攻防は新鮮でしたし(古舘アナは「キックの鞘当て」と表現してましたね)スープレックスから片逆エビでのフィニッシュまでの流れも劇的でした。

メインの猪木-スピンクス戦が目もあてられない凡戦に終わったこともあり、この試合によって前田は広く世間的に「新・格闘王」としての称号を得ます。

私も「猪木時代の終わり、前田こそがその後継者」というエポックメーキングな出来事として受け取りました。

後に永田が「俺とヒョードルの試合と、あんたとニールセンの試合を一緒にしてくれるな」と発言した事でヤオガチ論争に火がつきましたが、私からしたらこのタイミングでこの試合、結果を残した前田の方を支持しますね。

いま観たら技術的なところは稚拙きわまりないですがそれは仕方のないことですし、アンドレ戦後の前田の新日フロントに対する被害妄想にも似た危機感から試合前の前田のトレーニングは明らかにオーバーワーク、顔を晴らした状態でリングに上がっていましたし、実際この試合も序盤にモロに顔面にパンチを受けて本人曰く「トンでる」状態での試合にも関わらず、ロープに逃げまくるニールセンをキッチリ、リング中央で仕留めたのは大したものだと思います。

(この時はまさか、前田生涯を通じてもベストバウトになるとは思ってませんでしたけどね…)

 


 

●イデオロギー闘争の終焉

 

その後。結論から言えば遠からず実現すると思われた猪木vs前田戦はとうとう実現しませんでした。

長州率いる(全日に残った谷津、永源らを除く)ジャパンプロレス勢と、高野俊二を除くカルガリーハリケーンズ=S.S.マシンとヒロ斎藤が新日に復帰し、ナウリーダーvsニューリーダーの世代闘争が勃発。

これには「言うことを聞かない前田は推せない」新日フロントと、「地方の客入りが悪い」新日営業と、視聴率の面で「前田エースは時期尚早、それなら長州が」というテレ朝サイドの思惑が一致したような印象がありました。

今にして思えば何よりも「前田は危ないから触りたくない、だったら長州を」という猪木自身の思惑だったのでしょうけどね…。

 

そして開幕した87年5月、第5回IWGPリーグ戦でも案の定、猪木と前田は別ブロックに振り分けられ直接対決は実現せず、開幕してすぐに藤波が怪我のため途中棄権、さらに全日(というより日テレ)との契約上、まだ試合に出場できない長州らジャパン勢が乱入を繰り返します。

前田はマサ齋藤戦の試合前に乱入したSSマシンにより大流血させられ、これまた怪我により途中棄権。盛り上がりのないままに決勝は猪木-齋藤で猪木優勝、という結末に。この決勝後に長州のマイクを発端とした「世代抗争勃発」となりますが、前田は独り冷めた様子でした。

「どうせやるんやったら、世代抗争とか言わんと、誰が一番強いか決めるまでやればええんや、決まるまで」

と噛みまくりながら正論を吐きます。

が、もはや猪木、新日プロ側にはUWFとのイデオロギー闘争をやる気はなく、うまく前田を取り込むカタチでの新しい世代抗争にシフトチェンジしました。

 


 

●世代闘争

 

ニューリーダー、と一括りにされた前田は長州、藤波、木村らと組み、1987年8月のサマーナイトフィーバー両国2連戦ではマサの帰国が遅れ武藤が抜擢され、もはや世代闘争なのかすら怪しい雲行きでも、たんたんと与えられた役割をこなしていました。ようやく契約問題が解決し、長州がテレ朝のブラウン管に復帰できた次期シリーズ最終戦は大阪大会でしたが、ここで世代闘争の足並みが本格的におかしくなり始めます。

 

猪木はマサ齋藤と巌流島をブチ上げ、10月に決行。長州がようやくテレビ放送に復帰できた1987年10月5日(猪木斎藤の巌流島マッチと同日放送)では、後楽園ホールで伝説の「ミスター高橋のコイントス」により、長州の相手は藤波に決定!これには会場だけでなく、全国のプロレスファンが溜息、苦笑しました・・・。

その後、猪木の若手(山田恵一)登用の撹乱により長州は藤波と決裂し「俺はフライングする」と世代闘争終結を宣言。これには前田が「けしかけといて無責任だ」「長州は言うだけ番長」と激怒します。

 


 

●顔面蹴撃事件

 

そして1987年11月。後楽園ホールでのUWF対ジャパン勢の6人タッグで、前田が背後から長州の顔面を蹴る「前田顔面蹴撃事件」が起こります。前田はサソリ固めを極める長州の顔面を思い切り蹴り上げ、不穏な空気の中試合が終了。蹴られた長州の顔面は腫れ上がり、診断の結果、眼下底骨折となり欠場を余儀なくされます。

この試合についても当人同士も含めさまざま語り尽くされていますが、私は一時期前田の語っていた「天龍さんと輪島さんの試合に感化された」的な発言や「肩を叩いたから故意ではない」などの言い分よりも、

 

「長州さんとシングル1983年11月3日)やって、最後サソリ(固め)でオレが耐えてレフェリーストップになったんだけど本気できたからね。落ちそうになった。やべぇな、そこまでやるんかこいつはと、ちょっと根に持ったんだよね。それでUWFとかいろいろあって帰ってきたら(蹴撃事件となった試合は)固いし受けないでしょ。あ、なんだこれ、ダメだ。だったら全日本で天龍と輪島がえぐいことやってんだから、じゃあオレもやっていいよなと思った。」

という発言が、もっとも本音に近い発言だと思います。

 

この試合も後に海賊版でダビングが出回りますが、長州も前田も明らかに「カタく」、互いに何しかけられるか、という緊張感の中での暴発、軍事衝突でした。

 


 

●前田解雇

 

前田と長州の衝突を知った時の率直な感想は、あぁとうとうやったか、的なものでした。

当時の前田はもはやUWFとして活動させてもらえず、UWFメンバーは各自、新日にとりとまれる契約更改を打診されており、その発端になった出戻りでやりたい放題の長州に対し「昔の俺じゃないぞ」「恥をかかせてやる」的な感情があったと思いますし、試合後に長州を慇懃無礼に挑発する前田のふるまいからも、溜まりに溜まった鬱憤が爆発したようにしか見えませんでした。

 

年末年始、前田は長い謹慎処分からのメキシコ行きを通告されます。当然、前田はそれを拒否して1988年2月、新日プロを解雇、という最悪の事態となります。

高校生活も終盤に差し掛かっていた私からすると、新日本隊vsUWFvsジャパンの三軍対抗戦はおろか、前田を飼い殺しにして力を削ごうとする新日やテレ朝、そして恥をかかされた前田に対してリング上で直接対決を望まない長州、そして「プロレス道に悖る」と処分を下した、とされる猪木にも大いに失望しました。

 

少なくともかつての猪木であれば「リングで起きたことはリングで決着を付けろ」と命じると思っていましたので、長州だけでなく猪木ですら、やはり前田は手のつけられない脅威でしかないのだな、と改めて思い知らされました。そして、前田を失った新日マットには魅力を感じられなくなりました。

 

実際、「ギブアップまで待てない!」のバラエティ路線大コケから87年暮れの両国ではたけしプロレス軍団からの暴動、88年には遂にワールドプロレスリングがゴールデンタイムから降格、と完全に迷走状態でしたし、雨天の有明での闘魂三銃士初結成、飛龍革命からの8・8猪木藤波戦、以外はやることなすことスベりまくり、という感じでした。

 

7月には札幌で長州が猪木から初のピンフォール勝ち、というサプライズもありましたが、私には所詮は前田に傷をつけられたままの長州に対する箔付けのようにしか思えず、長州離脱に猛烈な危機感を感じて決起した天龍、全日プロの方がよほど刺激的で面白かったですし、この後の新生UWF旗揚げからの爆発的な大ブームは、この新日ファンの失望が起爆剤となった、というのがリアルタイム世代である私の感覚です。

 

つづきます!

 


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2 Comments

  1. ズンとねる

    あれだけニールセン戦での名勝負の後、ジャパンカップタッグリーグは良いとして、年明けの高田とのコンビでIWGPタッグリーグにハァ?格闘技戦やれよ!と、長年の疑問だったんですが、井上譲二氏の本によると、実際格闘技路線を新日側は用意したんですが、このニールセン戦での新日への不信感から、前田が拒否ったらしいです、確か。

    • adminredcm

      レスありがとうございます!そうですね、あの時期に前田が異種格闘技戦を連発していたら、ますます前田人気が高まったでしょうね。

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