「UWF」とは何だったのか?~⑤UWFインターナショナル編

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④からの続きです。

 

松本大会での万歳三唱により、てっきりフロントを一新してUWFは継続するものと思っていましたが、分裂して活動する、という事態となり、何が起きたのかまるで理解できませんでした。

 

なかでも、前田だけ独り仲間はずれにされるカタチとなったのは衝撃的でした。今でこそいろいろと当時の真相が明らかにされていますが、当時はあまりに不可解で、ハッキリしているのは、誰一人前田について行くものがいない、ということと、ほかは新エースとして高田を選び、船木と鈴木はそれに合流せず、藤原と我が道を行く、ということだけでした。

 

確かに、前田の性格的な問題は言わずもがなですし、新生UWFでの前田は、理想は語るが(佐山とは違い)やってることは相変わらずプロレス団体のソレであり、若手の台頭は許さず、自身がエースでないと気にくわない割に、練習不足、見た目の説得力のなさ、肝心の試合のクオリティも、かつて自身が散々批判した猪木の同年齢時と比べても比較にもならないお粗末さでした。

 

しかし、その前田ワンマン体制に不満を抱いて対立が表面化していた船木、鈴木はまだしも、高田が前田抜きで新団体、というのは予想外だったのです。

 

ここからは3派の足取りを時系列でまとめます。

 


 

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●UWFインターナショナル

 

3派分裂中、布陣としては圧倒的にUインターがUWFの正当継承者でした。高田は前田と違い若手の兄貴分的存在で、旗揚げ当初のUインターは「若手だけでノビノビ自由にやっていこう」的な明るい雰囲気を感じました。

 

1991年5月には後楽園ホールで旗揚げ戦を開催します。初期の宣材はドーベルマンと並ぶ高田を始め、デザイン面でも実にスタイリッシュ路線で新鮮でした。

 

その後、Uインターは格闘技追求路線に加え、さまざまな独自コンセプトを打ち出します。中でも「プロレス最強、原点回帰」というコンセプトは鮮烈でした。

 

カール・ゴッチ、というブランドは藤原組に持っていかれましたので、ルー・テーズを最高顧問に就任させ、さらにはダニー・ホッジやビル・ロビンソンといったビッグネームを権威付けに起用したり、「ダブルバウト」というネーミングでタッグマッチも採用します。そして高田1人を突出したエースとして、ルーテーズ認定のプロレスリング世界ヘビー級チャンピオン、として最強ブランド化を推進します。

「そんなのUWFじゃない」というU信者相手ではなく、「プロレスこそ最強の格闘技である」とした、かつての猪木新日プロの理念「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」を再興するかのようなこのマーケティング戦略は大当たりします。

ボックの再来的な殺人スープレックス、ゲーリー・オブライトの発掘、元WBCヘビー級王者のトレバー・バービックとの異種格闘技戦、元横綱 北尾光司の参戦、さらにはハシミコフ、ベイダーまで引っ張り上げ、完全に新日をターゲットにして明確なコンセプトの元で攻撃的な運営を行います。

 

私はこの当時、全日の武道館と、Uインターばかり生観戦していました。

横アリでの北尾-山崎戦、高田-オブライト戦

武道館での高田-北尾戦

神宮球場での高田-ベイダー戦

などなど。

 

この頃の高田は新生UWF時とは見違えるようにグッドシェイプで精悍でカッコよく、「新バージョンのアントニオ猪木」的な存在感でした。

 

特に94年10月、日本武道館での北尾戦で見せたハイキックからのKO勝利がクライマックスですね。あの時の会場の殺気と熱狂は、猪木の異種格闘技戦をリアルタイムで体験できなかった私にとって、疑似体験のような感覚でした。

そしてその攻撃的な姿勢は、遂に本家、新日にも及びます。

高田対蝶野戦の実現に向けルー・テーズを引き連れて新日プロ事務所を訪問して、交渉内容をマスコミに暴露して絶縁されたり、

1994年には現金1億円を積んでメジャー5団体のエース(橋本、三沢、天龍、前田、船木)への招待状を用意して「プロレスリング・ワールドトーナメント」開催の記者会見をして、唯一反応した前田と宮戸が「どこの馬の骨」問答をしたり、安生が「200%勝てる」と発言したり、

もはや攻撃対象は全方位にますますエスカレートしていき、そのズンドコぶりでとにかく注目を集め続けます。

 

そして1994年10月の武道館、北尾戦の前のリング上で、Uインターはヒクソン・グレイシーと対戦交渉をしていることを明らかにします。これまで同様、単なる話題づくりでは、とする見方が大勢を占める中、Uインターの実権を握っていた安生・宮戸と、ヒクソンの日本での窓口となっていた修斗の佐山の間で舌戦が展開されるなどした挙句、1994年12月、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーへ道場破りに行った安生が無惨に返り討ちにあうという衝撃的な展開へ。

Uインターは必ず仇を討つ、としながらも興行的にトーンダウン、田村が離脱するのを尻目に、1995年10月、「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」へと突入します。

 

フロントSさんの「初戦で高田が武藤に負けたのがミステイクだった、星は取り返したがダメージは取り返せなかった」とのコメント通り、このダメージが払拭できないままUインターは迷走を続けます。

 

対抗戦もひと段落した1997年5月、国立代々木競技場第2体育館で田村を除くUインターのほとんどの選手の受け皿となるキングダムが旗揚げ。

 

プロレス団体としては初めてオープンフィンガーグローブ着用による顔面パンチとマウントパンチを公式ルールで認め、ブラジリアン柔術、ルタ・リーブリといった総合格闘技の選手を招聘しつつ興行を続けるも、エース高田が正式には参加せず、翌1998年2月に崩壊します。

 

そして高田は1997年10月、東京ドームでのPRIDE.1においてヒクソン・グレイシーと対戦、なすすべなく敗れ、日本中を震撼させました。

つづきます!

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