アントニオ猪木「格闘技 世界一決定戦」~①1976 vsルスカ、アリ、アンドレ、ペールワン 

※当サイトで掲載している画像や動画の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属します。

ID:3756

アントニオ猪木の代名詞とも言える、もう一つの闘いが「異種格闘技戦」

 

モハメド アリ戦など超有名試合は、もはや語り尽くされてる感があり、これまで敢えて避けてきたのですが…

 

「昭和のプロレス」と「アントニオ猪木」を語る上でやはり、避けては通れないテーマです。

 

アントニオ猪木の「格闘技 世界一決定戦」にカウントされる試合は、全部で20試合あります。

 

今回から開催年ごとに数回に分け、時系列で、なるべく私の選ぶ「本当に面白い、隠れ名勝負」を含めて、ご紹介します。

 

 

スポンサーリンク

●そもそも「異種格闘技戦」とは?

 

正確には「格闘技 世界一決定戦」

そもそもの大義は「常に八百長、ショー、と色眼鏡で見られるプロレスの地位向上」と、当時、猪木が提唱していた「プロレスこそ世界最強の格闘技」の証明を掲げて行われたものです。

 

要はアントニオ猪木を「プロレス代表」として、その他の格闘技の代表と「どちらが強いか決めようぜ」というものだったのです。

 


 

●現在の「総合格闘技」との違い

 

現在の“総合格闘技”が1つの確立した競技で、あくまで「選手個人の実力測定」であるのに対し、

猪木の場合は「プロレスというジャンル全体」vs「相手の格闘競技ジャンル全体」という、ムダにスケールのデカい戦いであり、それ故に「格闘技 世界一決定戦」なのです。

 

これは「プロレス(猪木)vs世間(の偏見)」の戦いでした。

この当初の目的は、「世間の認める強い人」である柔道オリンピック金メダリストのウィリエム ルスカと、そしてなんといってもボクシング世界ヘビー級チャンピオンの英雄 モハメド アリを引っ張り出しただけで、大成功でした。

この点は、②アリ戦編で詳しく解説します。

 


 

●プロレス界で「傍流」であるが故の挑戦

 

アントニオ猪木がなぜ、他の格闘競技と闘うのか。その理由の一つは、猪木がプロレス界において「傍流」であるから、とも言えます。

 

プロレス界の「権威」は当時、世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座。アメリカを中心にカナダ、メキシコ、日本のプロモーターにより組織された連盟、NWA(ナショナル レスリング アライアンス)とのラインは、力道山の日本プロレスから、宿敵 ジャイアント馬場の興した全日本プロレスに独占されていました。猪木 新日本プロレスもNWAに加盟を申請しますがことごとく却下。後に加盟だけは許されますが、チャンピオンの招聘権は回ってきません。

 

猪木がNWAに挑戦することができ、王道を歩めたのなら…あるいは「異種格闘技」という路線に進むことはなかった…のかもしれません(それでもやった気がしますが)。

 


 

●猪木にしかできない「戦い」

 

「猪木の格闘技戦は所詮“プロレス”であり、筋書きのある、あらかじめ勝敗の決められたフィックストマッチじゃないか」今ではそういう批判があります。それはその通りで、現在の総合格闘技と同列に扱う訳にはいきません。

 

しかしこれらの戦いの中には、必ずしもそれだけではない、いわゆる「ガチ」の試合も混じっています。それも、今もって「前代未聞のスケール」の試合です。

 

さらに言うと、フィックスト マッチの数々も猪木側に「あらかじめ勝敗を決める権利」があるだけでも、十分スゴイことなのです。いささか詭弁に捉えられるかもしれませんが、事実、後の、猪木以降のプロレスラーの多くは、その時点で敗れ去っています。

 

そして、プロレスができない、やったことのない相手と、普段プロレスを観ない、好きでもない観客が観ても面白い、良い試合をしてみせる、ということは、非常に難しいことなのです。

 

その証拠に、猪木でさえどうにもならなかった、つまらない試合も数多く存在します。さらには、猪木以外の異種格闘技戦で「名勝負」と言える試合はごく僅かで、その多くはプロレスファンが観てもつまらない、どうしようもない試合だらけ、なのです。

 


 

◆01 1976(昭和51)年2月6日 日本武道館   アントニオ猪木(20分35秒TKO)ウイリエム ルスカ

 

初戦のルスカ戦は「プロレスvs柔道」。「力道山vs木村政彦」以来の古典的なテーマであり、当時の(普段プロレスなど馬鹿にして見ない)識者、文化人を巻き込み、世間で熱い激論が交わされました。これこそが猪木の狙いでした。

 

さらには記者会見で発した互いのコメントから、互いの好物である「納豆vsチーズ」の戦いとも言われました(笑)。

ルスカは1972年ミュンヘン オリンピック柔道 男子 無差別級、重量級の金メダリスト。オリンピック同一大会で2階級を制覇した、史上ただ1人の柔道家です。

この試合は、ルールの異なる(そもそも試合を成立させるのが困難な)ミックスト マッチでありながら、ルスカによる柔道の強烈な投げ、絞め技などの強さが提示された上で、猪木が柔道にはない当て身とケンカ殺法でペースを握り、最後はプロレスの大技 バックドロップ3連発でKO、というド派手な展開。興行も超満員、テレビ視聴率も34.6%と驚異的な数字を叩き出し、「大成功」となりました。

 

この異種格闘技戦の成功は、エポックメーキングな「発明」。もちろん、その意義は大きいのは言うまでもありません。

 

「柔道家の金メダリストとプロレスのチャンピオンが一騎打ち」という舞台設定も完璧ですし、ファンが観たいと期待した、柔道家がプロレスラーをブン投げる、奥義の絞め技で追い詰める、そして一方のプロレスラーが大技を繰り出し、打撃技で逆転する。さらには、プロレスラーが柔道家を投げるといったサプライズまであり、観客の期待に応える、という視点では完璧な展開

 

当時を知る世代は口を揃えて「ものすごく興奮した」「猪木の名勝負」と語るのも当然です。

 

しかしながら…

率直なところ、その試合内容と展開はいささかリアリティに欠け、私が中学生で初めて観た80年代時点ですら、「うーん」というクオリティである、というのが私の正直な感想です。そしてこれはとどのつまり、ルスカの「大根」ぶりに依るところが大きいのです。いきなりプロレスのリングで作り込まれた展開をしてみせるには、ルスカはあまりにピュアでした。

 

そしてルスカはこの後、プロレスラーに転身してかなり長い期間、活動を続けましたがとうとう、大成することができませんでした。

 

格闘家としてのポテンシャルは天下一品でフィジカル、テクニック共に「最強」だった、と評する関係者も多いルスカですが、それこそがプロレスの難しさ。「強い」のと「強く魅せる」のは違うのです。さらには「どんな相手でも魅力を引き出して面白い試合をする」というのは非常に難しい作業であり、格闘競技のアスリートとしてトップクラスだからといって誰でもできるわけではありません。

 

逆にいえばそのルスカ相手に、さらには自身も初、前例のない異種格闘技戦初戦でありながら、ここまで盛り上げられたのは猪木ならでは、と言えますね。

 


 

◆02 1976(昭和51)年6月26日 日本武道館   アントニオ猪木(15R引き分け)モハメド アリ

 

続くアリ戦は「プロレスvsボクシング」。さらにスケールアップして「EAST MEETS WEST(東洋vs西洋)」とまで言われました。

>この猪木vsアリ戦については、次回②で詳しくご紹介します

 

この試合はアリのネームバリューから世界40カ国に配信、クローズド サーキット(劇場での有料上映)が行われ、全米ではニューヨーク、シカゴ、ヒューストン、ロスアンジェルスの4都市でこの上映に合わせて「格闘技オリンピック」と呼ばれる興行が開催されました。

 

テレビ朝日の放送は昼と夜の1日2回放送され、瞬間最高視聴率54.6%全世界で14億人が見たと言われる、文字通りの「20世紀最大のスーパーファイト 」となり、アントニオ猪木の名は、世界の津々浦々まで広がりました。

 

しかし、真剣勝負で行われたが故に、フルラウンドで派手な展開のない引き分けとなり、試合後は「世紀の茶番劇」と批判、バッシングの嵐。さらにはアリに支払うファイト マネーは610万ドル、当時のレートで約22億円。交渉の結果、それでも猪木と新日本プロレスは約9億円の大借金を背負う羽目になります。テレビ朝日もニューヨーク支局を担保に入れてまで援助していた、と言われます。

 

当時は名勝負といわれたルスカ戦がいま観るとそうでもなく、凡戦と笑われたアリ戦の凄さがようやく理解されるようになる、というのが面白いですね。

 


 

●異種格闘技戦 量産の理由

 

そこでテレビ朝日が講じた猪木、新日本プロレスへの救済措置が、「異種格闘技戦のシリーズ化」でした。

「異種格闘技 世界一決定戦」としての興行は、通常のレギュラープロレス中継番組「ワールドプロレスリング」とは別枠の「水曜スペシャル」で放送され、テレビ朝日からボーナス的な放送料が支払われます。これにより猪木の異種格闘技戦は、「男のロマン」であるアリ戦を実現した身代わりに背負った「大借金を返済するための戦い」となってしまいました。

 

そのため、徐々に対戦相手に事欠き、「無名だがやたら強いヤツ」と「オマエ誰やねん的なすっとこどっこい」や「とんだいっぱい食わせ者」が入り混じる、玉石混交状態に。試合によって大きくアタリとハズレがあるのがまた、この異種格闘技戦の魅力です。

 


 

●「1976年のアントニオ猪木」

 

異種格闘技路線初年の1976年は vsルスカ戦、vsアリ戦の後、アンドレ戦、ルスカ再戦、ペールワン戦、と続きました。

特筆すべきは、格闘技戦 初年度の1976年の1年間に、5試合も行われた、という点です。

しかもルスカにアリにペールワン…もちろん並行してプロレス試合も行っていて、ルスカ戦の直前にはシンと血だるまの死闘があり、韓国ではパク ソンナンをガチでぶっ潰して、ルスカと再戦したなんと3日後にはパキスタンで現地の英雄アクラムと…普通のレスラー10年分くらいのタフさです。

この1年は「1976年のアントニオ猪木」(柳沢健著 文春文庫)という書籍が出版される程、特筆すべき年でした。

 

◆03 1976(昭和51)年10月7日 蔵前国技館 アントニオ猪木(23分44秒TKO)アンドレ ザ ジャイアント

なぜプロレスラー同士が?なのは、「そもそも猪木がプロレス代表って…」という異論から生まれた、という設定で、アンドレとの試合を強引に格闘技戦に仕立て上げた、というお話。3戦目にして既に異種でもなんでもありません(笑)。

 

◆04 1976(昭和51)年12月9日 蔵前国技館 アントニオ猪木(21分27秒 レフェリーストップ)ウイリエム ルスカ

あまり知られてませんが、ルスカとは同年末に再戦していて、事実上のルスカ プロレス国内デビュー戦、という試合でした。
ルスカは海外でプロレスラー修行を経て、赤いショートタイツ姿で試合に臨みます。
ルスカは寝技で再三、猪木を苦しめますが、猪木のケンカ殺法で流血させられた後、初戦と同じくバックドロップで撃沈しました。

- YouTube
YouTube でお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。

 

◆05 1976(昭和51)年12月12日 カラチ ナショナル スタジアム アントニオ猪木(3R1分05秒 ドクターストップ)アクラム ペールワン

ある意味でアリ戦と並ぶ伝説の死闘。③で詳しくご紹介します。

 

次回、②ではアントニオ猪木vsモハメド アリについてご紹介します!

コメント

タイトルとURLをコピーしました