アントニオ猪木vsストロング小林 1974~猪木 日本統一への野望


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今回はリクエストにお応えして、アントニオ猪木の名勝負を取り上げます。

1974年3月19日、蔵前国技館で行われたストロング小林戦です。


 

◆三国割拠時代〜国際プロレスとは

 

1970年代、日本には3つのプロレス団体がありました。

猪木の新日本プロレス(テレ朝)馬場の全日本プロレス(日テレ)そして国際プロレス(TBS)

交流なんかとんでもなく、熾烈な興行戦争、視聴率戦争を繰り広げていました。

 


 

新日プロ、全日プロより早い1967年に国際プロレスを立ち上げたのは吉原功氏。自身もアマレス出身で、早稲田大学出身のアイデアマンでした。

 

日本人マスクマンを登場させたのも、ビル・ロビンソン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダイナマイト・キッドなどのヨーロッパ強豪レスラーを日本に招聘したのも、入場テーマ曲を使ったのも、広報誌を作ったのも、巡業用の選手用バスを持ったのも、国際プロレスが初でした。

 

しかしこの国際プロレスには、最大の弱点がありました。

それは、猪木、馬場のような「圧倒的なエース」がいないこと。

 

そのため善玉ガイジンのビル・ロビンソンをエースにしたり、日本初の「金網デスマッチ」を実施したりと、さまざまな手法で生き残りを賭けますが、どうしても新日プロ、全日プロに比べると人気面で劣ってしまいます。

 

そこで国際プロレスはストロング小林とラッシャー木村の二枚看板で、正統派とラフファイトの日本人エースを作るべく、1973年にこれまた日本初の日本人同士の世界タイトルマッチ(IWA)を実施。2-1で小林が勝利し、続く第5回IWAワールドシリーズにも優勝。名実共に「ストロング小林が国際プロレスのエース」となります。

しかし、そんな小林に「小林が国際プロレスを辞めたがっているらしい」という噂が立ちます。

 


 

◆水面下での小林争奪戦、新日プロの策略

 

小林の不満は、マッチメイクを担当するグレート草津の存在でした。グレート草津はラグビー界から鳴り物入りでプロレス入りしたものの、ブレイクし損なってマッチメイクを担当していましたが、とかく小林とは仲が悪かったようです。

後に小林は「誰かの横槍で吉原社長に冷遇されるようになり、離脱を考えていた」と語っています。

 

猪木新日プロと馬場全日プロはそれぞれ、小林側と交渉を重ねますが、小林は新日プロを選択します。

 

そして1974年2月、小林はIWA世界王者のまま、国際プロレス離脱、フリー宣言を行い、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に内容証明郵便で挑戦状を送付します。

 

しかしこれは、小林獲得に成功した新日プロのシナリオでした。

 

普通の感覚なら「新日プロ、小林を獲得!」とするところを、敢えて小林に「国際プロレス離脱、加えて猪木、馬場に挑戦」と言わせることで、この対決の価値を「日本選手権」として引き上げるのと同時に、「小林の挑戦を受ける勇気ある猪木、逃げた臆病者の馬場」というイメージを世間に植え付ける、という作戦です。

 

当然、猪木は「いつ、何時、誰の挑戦でも受ける!」とすぐさま対戦を受諾、馬場は無視しました。

馬場からすると当然「既に猪木と話がついてる小林に、なんで俺が戦わないとならんのだ。そもそも格下の小林なんぞ最初から相手にしとらん」(正論)となりますが、新日側の戦略はズバリ的中。

馬場は蚊帳の外に置かれるだけでなく「なぜ挑戦を受けない!」とバッシングされまくりました。

 


 

◆国際プロレスは激怒、仲介役は東スポ!

 

団体エースであり、世界タイトルを保持した小林の離脱(事実上の新日プロへの移籍)に当然、国際プロレス側は激怒します。

 

プロレス業界には「移籍する際はベルトを置いて(残る選手に負けてから)去らなければならない」という不文律、暗黙の掟があります。小林の行為は「猪木にベルトを売り渡す」掟破りなのです。(もちろん、新間さんが「IWAのベルト巻いたままウチに来ちゃいなよ、後のことは任せて」とか言っていたに違いありません(笑))

 

吉原社長は小林の契約違反を主張し、裁判沙汰寸前まで拗れますが、これを仲介したのは東京スポーツでした。

なんと小林を東京スポーツ新聞社預かり選手とする、移籍金1000万円を東京スポーツが国際プロレスに支払う、小林はIWAベルトは返上する、という条件で和解が成立。

これで猪木vs小林戦実現へのハードルはなくなりました。

 


 

◆昭和の巌流島の決闘!

 

猪木vs小林戦は、日本人対決すら珍しい時代の「団体エース同士の激突」「来るべき日本選手権の序章」そして「昭和の巌流島の決闘!」と大盛り上がり。これは世間がかつて行われた「力道山vs木村政彦戦の再来」という受け止め方をした、という現れです。

 

1954年に行われた力道山vs木村政彦の一戦は、試合中に突如激昂した力道山が木村を頸動脈への空手チョップの滅多打ちでレフェリーストップ勝ち。日本選手権をかけた日本人同士の大一番として注目を浴びましたが、あまりに殺伐とした試合結果と、試合後の「八百長騒動」でプロレス人気を大きく下げる事になり、それ以来20年近く、大物日本人対決はタブーとされていたのです。

 


 

◆不穏過ぎる記者会見

 

1974年3月1日、猪木と小林が記者会見に臨みます。

席上、淡々と答える小林に対し、猪木は「連日、小林側からの嫌がらせが続いている」と暴露!

続けて、

「今からでも遅くはないと思うけどね。もし伸ばしても私も本当にこう、やる以上は正々堂々とやりますけど、本当に行く先はどうなるか。その辺は覚悟してやってもらわないと…それでも構いませんか?」

と不気味な通告。それに対し小林は

「それはもう挑戦した以上ね、おそらくね、正々堂々とやります」

としどろもどろ。尚も猪木は

「私はアンタの事は知らないけどね、まぁいろいろ国際の方々の話を聞いてね…だいたいオレに挑戦するっちゅうことがおこがましい!」

と追い討ち!このアンタ呼ばわりの言いっぷりに記者団から笑いが漏れ、小林は絶句。

「…まぁ当日の試合見て下さい…」

と返すのが精一杯。

 

そして報道陣からファイティングポーズを求められると、猪木は小林の顔面に猛烈な右ストレート!

ようやく小林がエキサイトして乱闘寸前になったところで猪木は笑顔で一言「試合ではその気でかかって来いよ」。

この不穏過ぎる記者会見に、世間の注目と期待は、ますます高まりまくりました。

 


 

◆年間最高試合の激闘

1974年3月19日、蔵前国技館。

当時の主催者発表で「1万6500人、超満員札止め」。映像を見ると通路まで観客がすし詰めで、いくら消防法もない時代とはいえ、よく事故が起きなかったと感心する程の入りです。

さらには全国から当日券を求めて観客が殺到し、印刷チケットが足らなくなりポスターを切って手書きで「当日券」と書いて発売するものの、それでも入場できなかった観客が約3000人溢れていた、と言われる程の熱気でした。

 

この試合では団体を離脱して挑戦する小林に声援が集まり、下馬評では「6-4で猪木有利、しかし捨て身の小林にも勝機あり」とされていました。当時、小林33歳、猪木31歳。

 

テレビ中継映像に試合前の控え室での両者のインタビューがありますが、「これはね、もうね、リング上を見てください」とゴニョゴニョ意気込みを(猫背で伏し目がちに)語る小林に対し、猪木は自信満々カメラを見据え、小林の意気込みを鼻で笑う余裕。両者の「役者の違い」を見せつけます。

 

試合はストロング小林の猛攻を凌いだアントニオ猪木が、29分30秒、必殺のジャーマン・スープレックス・ホールド、原爆固めで激勝。宿願の「日本統一」への第一歩を記します。

試合中、大技らしい大技は小林が放つカナディアン・バックブリーカーと、フィニッシュの猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドぐらいで、あとはひたすらグラウンドでの腕や足の取り合い、そしてパンチ、チョップ、ストンピングといった打撃技の応酬と最低限の投げ技だけ、なのですが、とにかく両者の殺気が凄まじく、ハチマキ姿の小林応援団の声援と鳴り物で、館内は興奮の坩堝と化しました。

 

特にこの試合のフィニッシュは、猪木が首だけで小林の全体重を支え、小林を打ち付けた反動で猪木のつま先がバウンドする、「猪木史上もっとも鬼気迫るジャーマン・スープレックス・ホールド」と言われています。

 

この試合はこの年からスタートした第1回東京スポーツ・プロレス大賞「年間最高試合」に選ばれました。

 

 

そして試合後、リング上での勝利者インタビューで語った猪木の

「こんな試合を続けていたら、10年もつレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない。負けることもあるかもしれない。しかし、どんな相手の挑戦でも受ける、それがファンに対する我々の義務ですから」

というコメントは、“過激なセンチメンタリズム(by 村松友視)”として後々、古舘アナの実況で語り継がれる事となりました。(実際はそれから20年ももつのですが)


 

◆その後のストロング小林と国際プロレス

 

小林は試合後、アメリカWWWF(現在のWWE)などの海外遠征を経て凱旋帰国、12月に猪木と再戦しますが、再び敗れて、新日プロに入団します。

 

その後は坂口征二とのコンビでNWA北米タッグ王座を保持していましたが、長州力にその座を追われ、1981年に腰を痛めて長期欠場。

スキンヘッドで「ストロング金剛」という芸名で俳優、タレント活動を開始し、1984年に現役を引退しました。

 

一方、小林を失った国際プロレスは「新日より格下」というイメージがつき、さらに人気が低迷。1974年2月にTBS中継が終了、9月から東京12チャンネル(テレビ東京)で中継を続けるもそれも終了し、1981年9月に崩壊。

 

ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西修、阿修羅原、マイティ井上ら選手達は全日プロ、新日プロに吸収されていきました。

 


 

◆猪木、新間氏が語る「ストロング小林戦」

 

アントニオ猪木 談

馬場さんとの対戦がなかなか実現しなかったからね。小林は次の大物だった。いい試合をして、プロレスに新たな時代をつくるつもりだった。感情がぶつかり合うケンカこそ、ファンが見たい試合だった。

2人が互角ではなく、どちらかの実力がズバ抜けていれば、最高のパフォーマンスができる。技をすべて受けて、相手の力を引き出すことができる。オレは小林のすべてが見えていた。見下ろして戦うことができた。

 

新間寿氏 談

小林さんは当時、国際プロレスを離脱していたが、私が3ヵ月間交渉して、「新日本プロレスに上がって、猪木さんとやっていい」と承諾してもらうところまでこぎ着けた。

私の中では、ストロング小林というのは力はあるけれども、非常に不器用なレスラーというイメージだった。実際、ストロング小林と猪木の試合を想定した場合、どう考えてもいい試合が成り立つようなイメージがわいてこない。不安に思い、試合前に猪木に「ストロング小林は、すごく不器用ですけど…」と話したら、猪木が「新間、俺はプロだぞ。そういうことは試合が終わってから言え」。そういう経緯があったから余計、あの試合は感動した。

試合開始早々、小林のアゴを猪木のパンチが打ち砕き、小林がリング上で1分ぐらい失神してしまった。このままでは、小林のK0負けでせっかくの試合が台な しになってしまう。猪木がそれに気づいて首4の字にいった。小林の目を覚まさせようとしたのだ。試合後、小林に聞いたら「その瞬間の記憶は抜けていた」らしい。私もあとでビデオを見るまで気づかなかったが、あんな芸当は猪木以外にできないなと、感心したものだ。

両者とも力を出し尽くしたあの試合で、小林の強さを引き出したアントニオ猪木はすごいと思ったね。

 


 

◆小林ウラ話

 

結果的に猪木の日本統一への足掛かりとして利用された小林ですが、この猪木との一戦は高く評価され、知名度もハネ上がりました。上記のコメント通り、猪木が小林の持ち味をすべて引き出して受け切ったことで、小林のレスラー人生の中でも屈指の名勝負となったワケです。その点が力道山vs木村政彦戦との違いです。

 

この時、新日プロで交渉に当たったのが新間寿氏です。新間氏は「3ヶ月かけて小林に猪木戦を了承させた」と語っていますが、どんな口説き方をしたのかは明らかにしていません。もちろん破格のギャランティも示したのでしょうが終始「小林さん」と相手を立てて話す新間氏に対し、馬場さんは「小林」と呼び捨て(歳下でずっと後輩なので当然)なのに気がついた小林母が「猪木さんのところにお世話になりなさい」と決めた、というウワサを聞いたことがあり、妙に納得しました(笑)。

 

このストロング小林には後に「オネェ疑惑」があり、新人時代の高田延彦らが「スパーリングで狙われた」「巡業先のホテルでボヤ騒ぎがあり、小林さんがネグリジェ姿で逃げてきた」、スタンハンセンも自伝で「小林はボディスラムで股間を握ってくる」などと証言していたりするのですが、この当時、猪木戦を控えたインタビューでも膝に愛犬のマルチーズを抱え、カステラを置いた和室の机で優しい口調で決意を語るなど、なんともピンク色な一面があった事は確かです(笑)。

 


ID:1209


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