キングコング「ブルーザー ブロディ」〜1946-1988 ブロディvs猪木戦が「名勝負じゃない」理由

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本Blogでは昭和のプロレスを彩った個性豊かな“ガイジン”プロレスラーを取り上げてきました。

マスカラス、ブッチャー、ハンセン、アンドレ、ベイダー、キッド、マードック・・・

この流れで紹介しないわけにはいかない、当然紹介してしかるべきレスラーが、非業の最期で衝撃を与えた“キングコング” ブルーザー ブロディです。

 

  Bruiser Brody
本名:Frank Donald Goodish、1946年6月18日 – 1988年7月17日

 

ブロディは恵まれた体格と、モジャモジャヘアーにヒゲ、毛皮のブーツにチェーンに咆哮といった”フォトジェニックさ”においては超一流。マニアやマスコミでも「ブロディが最高、最強!」と推す人も多く、世界的な80年代を代表するレスラーであることは間違いありません。

 

しかしながら、私の見方は違います。正直言うと、ブロディというレスラーの”プロ意識”とそれに対する”高い評価”にはずっと疑問を感じていました。”自称プロレス好き”、という方にお会いして「猪木の名勝負といえばブロディ戦ですよねぇ!」と言われると、話す気力が失せてしまうのです。。。

 

おそらく、ブロディは「プロレス」というビジネスと、「プロレスラー」である自身のキャラクターというものを誰よりも研究し、それを公然と主張してきたレスラーです。ブロディに関するさまざまな書籍を読むと、

「プロモーターやマッチメイカーに同等と自己主張し、メインイベントでの出場、自身の勝ちを要求する」
「含蓄のある言葉でプロレスのサイコロジーを語る」
「怪物ギミックとは裏腹の知性的な人物」

だからブロディはスゴイ、そんな評価が並びます。

 

しかし私はそのせいで「高過ぎる自意識」「唯我独尊」のために「プロとしての美学」が常にズレていて、名勝負が生み出せなかった、という負の部分だけが目立ってしまうのです。そしてその結果、命まで亡くす悲劇に見舞われてしまいました。

 

今回は、私がそう考える理由を、足跡を辿りながら、ご紹介します。

 


 

●ブロディ 全日本プロレス登場

 

ブロディの初来日は1979(昭和54)年。

当時小学生の私の記憶にある、若き日のブロディは「ジャイアント馬場の16文キックを喰らっても倒れない、最初のガイジン」でした。ブロディは初来日ながら必殺のニードロップで馬場からフォール勝ちという快挙で注目を集めました。

この頃のブロディは、よく知られる後の全盛期より、一回り横に大きく、ふっくらしていていました。
その後、日本を重要なテリトリーと考えたブロディは体を絞り、2度目の来日時には10数キロ減量したと言われています。

 

その恵まれた巨体を活かした、とにかくスケールのデカい、久々に現れた新時代を感じさせるニューウェーブ。
馬場や若き日の鶴田らとの巨漢レスラー同士のぶつかり合いはド迫力でした。

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1982(昭和57)年。新日本プロレスから移籍したスタン ハンセンとの合体で、ブロディはさらに輝きを増しました。
ハンセン、ブロディの「ミラクル パワー コンビ」は強すぎてカッコよくて、プロレス史上でもこれ程、魅力的なタッグチームはありません。

師匠格のザ ファンクスを「老いぼれ」扱いして蹴散らす、ヤングパワーの勢いは圧倒的で、爽快でした。

抗争の相手は、テリー ファンクはハンセン、ドリー ファンクJr.はブロディ、という役割分担ができていたように思います。

 


 

新日本プロレスへの“スイッチ”

 

1985(昭和60)年。ブロディはハンセンとの人気コンビを解消し、単独で新日本プロレスにマーケットを“スイッチ”。
アントニオ猪木と対戦する道を選びます。

 

ブロディと猪木は、過去、ハンセンの新日登場前からWWFのMSGでニアミスしていて、猪木も「気になる選手」として名前を挙げていました。時が流れ、1985年当時の猪木はハンセンというライバルを失い、ホーガンがアメリカでの活動を最優先していた時期。ブロディは猪木にとって「積年のまだ見ぬ恋人」「ネームバリュー的にも、もうブロディくらいしかいない」存在でした。

 

衝撃の新日本プロレス初登場は1985(昭和60)年3月。ベートーヴェンの「運命」が鳴り響く中、後楽園ホール最上段から現れたブロディは髪を後ろで束ね、ダークグレースのスーツ姿で左手にチェーン、右手に花束という出で立ち。猪木と静かで激しい視殺戦を演じます。この知的なカッコよさはブロディの新たな魅力を期待させ、シビレました。

 

この新日本プロレス登場くらいから、ブロディはそれまでの「パワーファイター」「怪物」的イメージに加えて、「実はインテリ」というアピールが増えました。古舘アナも「インテリジェンスモンスター」「マンハッタン ターザン」という新たなキャッチコピーを用意。解説の櫻井康夫さん、山本小鉄さんと共に、ブロディの「プロレス哲学」が語られ、ブロディ自身もマスコミのインタビューでそれをダイレクトに披露するシチュエーションが増えて来ました。

 


 

ブロディ「猪木選択」の理由

 

そもそも、ブロディが新日本プロレス、というより「アントニオ猪木を選択」したのは何故でしょうか。プロとしてギャランティの高いところに行くのは当然ですし、さらには当時、急速に失速していた新日本からのオファーに乗ることで“救世主“として注目を集めたい、というブロディ特有の「自尊心」もあったと思います。

加えて、ブロディが”自身のプロレス スタイルに箔をつけたい、厚みを持たせたかった”という理由が考えられます。

「どうしても自分は怪物、パワーファイターとして見られているが、テクニカルなファイト スタイルを加えたら、同業者やファンから、もっとリスペクトされて、自身の商品価値が上がる。」そんな計算があったと感じます。

その証拠に、新日本プロレス転戦前に、鉄人 ルーテーズの下でサブミッションのトレーニングまでしています。


おそらくブロディは、「猪木vsロビンソン」のような試合をして、関係者やファンに「承認」されたかったのではないでしょうか。

 

もちろん、親友であるスタン ハンセンへのライバル意識もあったでしょう。ブロディは日本マットでの自身の評価が、ハンセンより下に見られることに対してずっと納得いかず、半ばコンプレックスに近い感情があったと思います。団体側はあくまで2人を互角としてなるべく序列がつかないよう、テーマ曲や入場、選手コールの順番などで配慮していましたが、ファンは正直です。世間一般的にどうしても「ハンセン&ブロディ」であり「ブロディ&ハンセン」とはならないのです。

ハンセンにあって、ブロディにないものとは?その一つが「アントニオ猪木との対戦経験」でした。

 


 

猪木vsブロディ戦は「名勝負」じゃない

 

猪木とブロディはこの年に東京・大阪・札幌・ハワイで短期間に実に7度も(!)シングルマッチで対決しました。

しかし、猪木vsロビンソン はおろか、猪木vsローランド ボック、vsスタン ハンセン、vsアンドレ ザ ジャイアント、vsハルク ホーガン、vsビッグバン ベイダーなどと比べても、オソマツなクオリティの試合しかありませんでした。カタチだけは「60分フルタイム戦」もありましたが、ただ時間が長いだけ。やりたかったハズのテクニカルな攻防はほとんどなく、ドタバタで大味な試合でした。

ネームバリューとして「名勝負」と言われていますが、それは「大一番」ではあって、私の基準での「名勝負」は一つもありません。

 

もっともこれはブロディだけの責任ではなく、この当時の猪木はすでに選手としての峠を越えており、ブロディ サイズのパワーを受けるだけの余力がなかった、ということも大きな要因です。しかしながら、それを差し引いても、ブロディと猪木とは何度試合しても熟度が高まることはなく、まるで噛み合わず、互いの良さを殺しあうような、虚しい展開に終始しました。

 

これは、ブロディの「自意識」が影響しているように思えます。断っておきますが、別に「ブロディが猪木に華を持たせなかったから」言っているのではありません。それならロビンソンやボック戦の方が、余程そうですから。また、「互いに信頼関係が築けなかったから」という考えについては「ロビンソンやボック戦はそれでも名勝負でしたよね」と思います(その頃は猪木が若くて無茶できたからというのもありますけど)

 

そうではなく、ブロディが常に主張する「プロレスとはサイコロジーなゲーム」「プロレスは作品」という点で、ブロディが落第点の試合しかできなかった、というところが不満なのです。前述の通り、ブロディは、おそらく誰よりもプロレスというビジネスと、自身のプロレスラーとしてのキャラクターを分析していました。その「マーケティング分析力」は正しいのですが、「客観的な自己評価」と「戦略」は疑問符だらけ、なのです。

 

ブロディ本人のコメントを引用します。

「プロレスファンは知識を持っているのだ。いったいだれがタフでケンカが強いかよりも、いったいだれがクレバーなのかが重要だ。レスラーの価値は、ゲーム展開のうまさで決まるといっていいだろう」

「プロレスはスポーツであって、大男のサーカスではない。プロレスは年々、複雑になっている。だからこそ、多少のエンターテインメント的要素も不可欠だ。しかし、人びとはあくまでもレスリングの勝負を観にきていることを忘れてはいけない」

「プロレスはレスリングごっこであってはならない。フィジカルとメンタル、そしてストラテジックなスポーツだ」

 

まさに、その通り。そこまで理解していて、新日本プロレスというマーケットにおいて、アントニオ猪木を相手にして、この程度の試合しかクリエイトできないの?と問い詰めたいレベルです。ブロディの考える「理想の名勝負」とは「自分が相手よりも強く見える試合」だったのでしょうか。

 

・ブロディは猪木に対して、これまで通りオーバー リアクションの「わざとらしい」「古くさい」プロレスを繰り返しました。

・ブロディの提示した「駆け引き」は試合前の交渉のタフさであり、「意外性」はチェーンがどうだの、なかなか入場して来ない、など試合前のどうでもいいことばかり。肝心の試合展開や駆け引きにはなんの意外性もなく、オーソドックスなスタイル一徹。レスリング的な攻防は皆無でした。

・この時代に求められていたスピード感にも欠けていました。一つ一つの技はスピードもインパクトも大なのですが、技を繰り出すリズムに間があり過ぎて、緩急がないのです。

・さらに“勝ち負け”のみにこだわりすぎるため、完全決着がつけられない点も、この時期としては致命的でした。

 

これらの結果、ブロディと猪木の試合にはプロレスの名勝負に必ずある「両者がスウィングする」ことがほとんど生まれず、観客はブロディ ファン、猪木 ファンの双方共に、カタルシスどころかフラストレーションが溜まる一方、の繰り返しでした。

 

要は観客に対して「オマエらの理解度はこのくらいだろ、このくらいわかりやすくしないと理解できないんだろ」
対戦相手である猪木に対しても「このぐらいのペースでなら返せるだろ、見せ場も作ってやるけど、俺の方が上だぜ」
という、”見下した感じが滲み出てしまっている”のが、ブロディvs猪木戦を観ていて感じる「違和感」の正体である気がしていならないのです。

 

猪木はブロディに対して「とにかく自分のモノサシでしか物事が見られないデクノボウ。いい試合をしようとしても、どうにもならない」と言い放っています。

 


 

トラブルメーカー

 

1985年12月、ブロディはジミー スヌーカとのコンビで出場していた「IWGPタッグリーグ戦」において、決勝戦直前にボイコットして帰国。「永久追放」となる騒動を起こします。その理由は諸説ありますが、自身の描いたストーリーと団体側の組んだ「ブック」が違い、気に入らなかったから、と言われています。猪木戦においても試合直前に「出ない」と言い出すなど、トラブル続きでした。

 

その後、一度は新日本プロレスと和解し、1986年9月に再来日して大阪城ホールで猪木と、福岡スポーツセンターで藤波とそれぞれシングルで対戦。ただしこれは未払いのギャランティを回収するためだった、と言われており、同年11月、契約していた次期シリーズを来日直前にキャンセルし、再び「永久追放」、絶縁となりました。

 

このシリーズでは、アンドレ ザ ジャイアント、前田日明とのシングルマッチが予定されていましたが、幻に終わりました。新日参戦により実現が期待されたハルク ホーガン戦も結局、実現していません。

 


 

全日本プロレスへの帰還

 

1987年10月4日、全日本プロレスに復帰。なにより信義を重んじるジャイアント馬場が、「裏切り者」を再雇用するのは異例の措置でした。

 

同年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕戦 後楽園ホール大会で、タッグマッチながらスタン ハンセンとの日本における最初で最後の対戦が実現しました。2人の接触はほんのわずかな時間でしたが、大熱狂の攻防は見応え充分でした。

1988年3月、ジャンボ鶴田からインターナショナル ヘビー級王座を奪取。
同年4月19日、鶴田にピンフォール負けを喫し王座転落。

 

結果的にこのシリーズが、ブロディ最後の来日となりました。
日本でのラストマッチは、1988年4月22日、川崎市体育館でトミー リッチと組んで天龍、原との対戦でした。

 


 

運命の夏

 

1988年7月16日、プエルトリコでのプロレス興行中、レスラー兼ブッカーのホセ ゴンザレスと口論になり、ドレッシング ルームで腹部を刺され、病院に搬送されますが翌7月17日、出血多量で死亡。享年42歳でした。なかなか救急車が来なかったことや、痛み止めのアスピリン乱用もしくは興奮剤の使用で出血が止まらなかったため、とも言われています。

 

さらに、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが脅迫を受けたり、出廷要請の通知が届かなかったりしたとは言え、揃って証言を拒否。最終的に刺殺犯であるホセ ゴンザレスは「正当防衛」で無罪判決となるなど、その最期はあまりに悲惨なものでした。

 

この「ブロディ刺殺」は衝撃的なニュースとして世界中を駆け巡り、全日本だけでなく新日本マットでも、追悼のテンカウント ゴングが鳴らされました。


 

誤った「プロ意識」と「プライド」

 

ブロディはアメリカでは1978(昭和53)年から、日本においても1981(昭和56)年にジャイアント馬場に敗れて以降、最後の来日での1988(昭和63)年のジャンボ鶴田戦までの間、一度も「ピンフォール負け」をしていません。

 

アントニオ猪木とも2勝1敗4分けで、勝敗はいずれも反則絡み、互いのピンフォール決着は一度もありません。

 

プロレスという仕組みを理解していれば、これがどのくらい異常なことか、わかると思います。

 

双方の良いところを引き出しあって、信頼関係の中で試合という「作品」を観客に提示する、いうプロレスの基本的な概念をブロディはプライドと自己愛のために否定し続けた、ということになります。自身が負けないことが最優先であるため、ブロディの大一番は両者リングアウトや反則がらみの決着ばかり。相手より自分が上だ、と主張するだけなので、試合はどれも同じパターン。

 

もちろん、それを納得させるだけの集客力と、実力があったわけで、だからブロディが最強!という人もいるかもしれませんが、
単に「負けを拒否する」だけなのが、強いということなのか?と疑問です。勝ち負けだけにこだわるのであれば、純粋なスポーツ競技をやればよいのです。

本当に素晴らしいレスラーは、試合結果としては負けであったとしても、観客の心には勝者として映るものなのです。

 


 

私的「名勝負」

 

私がブロディの試合で好きなのは、全日本プロレス復帰後の1988年3月、ジャンボ鶴田からインターナショナル ヘビー級王座を奪回した試合です。

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とはいえ、試合はいつもの通りで、大して面白くありません(笑)。

 

にも関わらず、これを「名勝負」と記憶しているのは、試合後にブロディが珍しく感極まった表情で観客と抱き合うなど、ギミックを棄てて「素」の感情を現した、後にも先にもただ一つの試合だから、です。

さらには翌月のリターンマッチで鶴田にピンフォールを許し、「プロレスの掟」に従ったのは、移籍したものの全日本プロレスに出戻ることになったブロディなりの、「禊」だったのでしょう。

 

この姿を見て、私は「ブロディはこれから変わるかも」と期待しました。
しかし、まさかこれが「死亡フラグ」になるとは。

 

新日本プロレスでの度重なるボイコット事件にしても、最期となったプエルトリコでのトラブルも、マッチメイクやブックを拒否したことからなのは明白です。ブロディは世界中のプロモーター、マッチメイカーに対して「なぜオレがセミファイナルなのだ。客はオレを観に来ているのだからメインにしろ」とか「なぜあんなヤツにオレが負けないといけないのだ」「言う通りにしないのであればリングには上がらない」などの主張を繰り返していました。また、試合でも自身の認めない、見下した相手の技はスカしたり、カタく当たることもしばしばでした(日本ではマスカラス兄弟や長州戦が有名)。

 

なので「ブロディが控え室で刺されて殺された」という報に対して「いつかはそうなると思ってたよ」という感想の関係者がほとんどでした。

 


 

もし、あの“プエルトリコ刺殺事件”がなければ、8月29日の全日本プロレス、日本武道館大会で、ファン待望の「スタン ハンセンvsブルーザー ブロディ」が行われる予定でした。

 

ブロディvsロードウォーリアーズ、ホーガン、アンドレ、前田、そしてハンセンとの一戦は「夢の対決」であり、見られなかったのは残念ですが、実現しなかったから伝説になった、とも思います。

 

ブロディは、「私のオーダー(評価)では、日本人なら 1.鶴田 2.天龍 3.猪木、ガイジンでは 1.ブロディ 2.ハンセン 3.ブッチャーとゴーディ」と語っていました。「鶴田がイチバン」とする辺りに、ブロディのプロレス観がよくわかります。実際、ブロディと鶴田は手が合いました。鶴田はサイズ的にもほぼ同じですし、テンポもオーソドックス、クラシカルなのも共通しています。そしてなにより、ブロディと違い「自己主張しないタイプ」なので噛み合ったのでしょう。

「好みの問題」といえばそれまでですが、おそらく上に挙げた「夢の対決」が実現していたとしても、「ブロディはブロディ」でしかなく、どれも似たような試合で終わった気がしてなりません。その自身のプライドを貫き通すところがブロディの魅力ではあるのですが。

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コメント

  1. はらしん より:

    楽しく読ませていただきました。

    ・ブロディVS猪木戦は「名勝負」ではない
      → ファーストコンタクトの際、スーツ姿に花束とチェーンを携えて
        入ってきたシーンが「名場面」なだけであると思います。

    ・ブロディVS鶴田戦に勝利し感極まったシーン
      → 若林アナの「紙吹雪の中、超獣が鳴(泣)いています!」は屈指の名実況だと思います。

    その他色々筆者さんに共感できました。
    長年「ブロディ最強説」に感じていたモヤモヤ感がなんかスッキリしました。

  2. 鎖と毛皮 より:

    初めまして。
    全く同意です。
    自分は猪木vsブロディ、全て
    リアルタイムで見ました(テレビにて)
    が、全て凡戦、全く噛み合っていないと
    ハッキリ感じました。

    実はブロディ、この猪木戦だけで無く、実は
    日本での闘いは(こう言うと語弊が有るかも
    知れませんが)何れもそこまで良い試合と
    呼べる物が無いんですよねぇ。

    敢えて言うなら、ハンセンとの、「あの」
    最初で最後の(タッグ)対決でしょうか?
    勿論当時、テレビに齧り付くように見てましたが
    あれは本当にブロディにとっても、ハンセンにとっても
    最高の名勝負と言えるでしょう!

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!あのハンセンとのタッグ戦の遭遇は燃えましたねぇ!
      シングル戦も予定されていただけに、残念です。。。
      新日ではアンドレ、ホーガン戦も(両者リングアウトでいいから)見たかった。。。
      ブロディは日本人では鶴田としか合わないですよね。

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