ヒロ・マツダの視点からその足跡を振り返り、今こそ見るべき試合、1979年のプレ日本選手権シリーズ優勝決定戦、ヒロ・マツダvsアントニオ猪木戦に迫るシリーズ。
最終回・③の今回は、いよいよプレ日本選手権優勝戦・アントニオ猪木vsヒロ・マツダの1戦を取り上げます!
ヒロ・マツダとアントニオ猪木~
①国際プロレス旗揚げ時の東京プロレス・猪木との因縁
②日本選手権開催を巡る3団体の攻防と「日本リーグ争覇戦」
③宿命の一騎打ち―「プレ日本選手権」アントニオ猪木vsヒロ・マツダ戦
プレ日本選手権とは
プレ日本選手権シリーズは、新日本プロレスが1978(昭和53)年11月17日から12月16日にかけて開催したリーグ戦。以下の12選手による総当たり戦の予選リーグと、その後の決勝トーナメントに分かれています。
予選リーグに出場したのは、
■新日本プロレス勢:坂口征二、ストロング小林、藤波辰巳、長州力、星野勘太郎、山本小鉄、木戸修、永源遙
■狼軍団:マサ斎藤、サンダー杉山、剛竜馬、上田馬之助ら海外マットを主戦場とするフリーランス
決勝トーナメントから出場するヒロ・マツダは、「狼軍団」のリーダー役でした。
決勝トーナメントは、藤波、小林、坂口、斎藤、長州、上田、星野、剛の予選リーグ上位8人に加え、欧州遠征で予選免除のシード選手とされたアントニオ猪木に、同じくシード選手のヒロ・マツダを加えた、計10人によるトーナメント戦です。
以下、決勝トーナメントの対戦結果。
<1回戦>
□マツダ(不戦勝)上田■
○猪木(10分34秒/体固め)星野●
<2回戦>
○斎藤(12分10秒/体固め)剛●
○坂口(10分32秒/逆エビ固め)長州●
○猪木(11分50秒/変形エビ固め)小林●
○マツダ(11分53秒/体固め)藤波●
<準決勝>
○猪木(12分16秒/体固め)斎藤●
○マツダ(10分0秒/首固め)坂口●
<3位決定戦>
○坂口(6分42秒/反則)斎藤●
こうして優勝決定戦は、アントニオ猪木vsヒロ・マツダで争われることが決定しました。
シリーズ中、その「戦い方」を巡って狼軍団内部に対立が生じ、ストロングスタイル主体のマツダ派(マサ、剛)とラフファイト主体の上田派(上田、杉山)に分裂する騒動もありましたが、マツダが登場すると両派は結託します。
・・・ちなみにこのリーグ戦、福岡九電記念体育館大会が、私の記念すべき「生涯初のプロレス生観戦」試合でした。
バックランドとの世界戦に狼軍団が乱入、猪木の「殺してやる」発言に込められた真意
前述の通り、12月16日の蔵前国技館大会で猪木vsマツダの優勝決定戦が行われることになりましたが、猪木はもう一波乱、ドラマを演出します。
決勝前々日の12月14日、大阪府立体育館大会。ここで猪木は、ボブ・バックランドの保持するWWWFヘビー級王座に挑戦するタイトルマッチを敢行します。
そしてこの試合に、マツダ率いる狼軍団が乱入。猪木、バックランド両者は流血させられ、「猪木のリングアウト勝ち」だが「バックランドのタイトル防衛」という結末を迎えます。
猪木が奪うことが許されない世界タイトル戦をうやむやに終わらせ、さらにはマツダとの決戦に向けての遺恨を深めるという、言ってみれば「一石二鳥」の乱入劇ではありましたが・・・乱入や反則をよしとしないハズのマツダがこれを指揮するというのは、冷静に考えれば辻褄の合わない、なんともおかしな話です。
しかし試合後、猪木は怒髪天を衝く形相で「マツダ!明日殺してやるからな!」と、どストレートな殺人予告。いやがおうにも決戦への期待が高まります。
興行と試合のテーマを示すためには、先輩でありかつてのタッグパートナー、そして現在は重要なビジネス相手(ブッカー)でもある相手に対し、「ここまで言う」のが、まさにアントニオ猪木。
11月7日~29日の過酷すぎる狂気の欧州遠征の末のローラン・ボックとの死闘、帰国するや否やすぐさまプレ日本選手権のリーグ戦を戦い、さらにはバックランドとの世界戦を挟んでからのマツダとの優勝決定戦・・・この頃の猪木のタフネスぶりには、驚きを通り越して唖然とします。
その一方で猪木は、疲労も積み重なってマツダとの一騎打ちにどうにも「燃え上がるもの」を感じなかったのでしょう。本来ならこの試合は宿願である「日本統一」に向けた、大一番。しかし猪木自身があまりにテーマの多い闘いを短期間に繰り返していたことと、自身の不在もあってこの「プレ日本選手権」自体の盛り上がりは、イマイチでした。
この「殺してやる!」マイクは、観衆に対するアピールと同時に、自らの怒り、闘魂に着火するための”儀式”だったように思えます。
マツダと猪木、宿命の一騎打ち
1978(昭和53)年12月16日 蔵前国技館
プレ日本選手権/優勝決定戦
◯ アントニオ猪木 (23分6秒 卍固め) ヒロ・マツダ ●
結論から言えばこの試合、技巧派同士の「地味な試合」です。とはいえ凡戦という訳では決してなく、白熱した攻防の名勝負、ではあります。
しかし”名勝負製造機”であるアントニオ猪木のキャリアにおいて、例えばかつてのストロング小林や大木金太郎戦などとの「大物日本人対決」と並び称される程かと言われると・・・語られることの少ない「隠れた名勝負」的な一戦でしょう。
その原因は、大きく2つあると私は感じます。
一つは相手であるヒロ・マツダが「正統派のテクニシャン」であり、かつまた淡々と試合を作るクールなキャラクターであるため、(狼軍団との全面抗争という設定はありながらも)猪木プロレスの代名詞である「怒り」のテーマと、見せ場が少ないこと。
そしてもう一つは、決着をつけた卍固めが狼軍団の介入を回避する意味合いで、不完全な状態で唐突に「試合終了」となった点。そのため、名勝負に欠かせない「大逆転のフィニッシュ」のカタルシスがなかったこと。
故に、当時もその後も、この試合は「いい試合ではあるけど、ズバ抜けて面白い名勝負!ではないな・・・」というのが、私の率直な印象です。
ではなぜ、佐山聡氏はこの試合を「ホンモノの技術があり、地味なグラウンドの展開でも目が離せない、惹き付けられる」と”絶賛”するのか。
その視点で、改めて試合を解析していきましょう。
決戦当日。メインイベントの優勝決勝戦には、坂口、藤波らの新日本プロレス勢と上田、杉山以下、フリーランスの狼軍団の両陣営がセコンドに付く「全面戦争」の様相という”舞台装置”が施されました。
リング上で並び立つ両雄。この時ヒロ・マツダ41歳、アントニオ猪木が35歳です。
前述の通りこの時の猪木は、あの「シュツットガルトの惨劇」からまだ半月。アウェーでの殺人的スケジュールのダメージで、まさに”満身創痍”でした。
ゴングが鳴ってからも両者はなかなか組み合いません。マツダのタックルも猪木はバックステップでかわし、鋭い眼光で睨みつけます。
もつれて場外に降りるとマサや杉山、上田らが猪木に襲い掛かろうと、虎視眈々と狙っています。
緊迫したリング上では、マツダが見事な片足タックルで猪木のバックを取り、上から攻め立てます。
当時は何気なく見逃していましたが、この序盤戦で猪木がガードポジションの体制で両足を使い、マツダをコントロールして距離を取る(攻め込ませない)攻防は、現代の総合格闘技でも柔術における高等テクニックです。こうした技術が広く知られるようになる遥か昔、70年代にプロレスの中で「しれっと」使っているのが、まさにアントニオ猪木ならではの「特異点」。
ご存じの通り、マツダはゴッチからキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を伝授されていますので、当時は「ゴッチ門下生同士の対戦」というのがこの試合の売り文句でした。しかし、実際の攻防では両者に違いが見られます。オーソドックスに「上から」攻めるマツダに対し、猪木は終始、「下から」引き込むテクニックを繰り出して対抗します。
言ってみれば猪木はこの大一番で「自身は知っていてマツダが知らない」高専柔道=柔術のテクニックの引き出しを開けて、「どちらが優位かを見せつけた」とも言えます。
猪木はマツダの左腕に狙いを定めるとマツダはヘッドロック、後にUWFで脚光を浴びたクロックヘッドシザースも見せて、猪木の首を攻めます。ここで5分経過。
解説の櫻井康雄さんが「猪木は両肩を痛めている」とコメント。マツダはロープ際で張り手を見舞い、カッとなった猪木の隙をついて足を取り、再びグラウンドへ。猪木は強烈なスタンディングでのアームロックを切り返すと、腕ひしぎ十字固め。
ここからスタンディングでの攻防に。猪木は強烈なミドルキックでマツダの腕を攻め、投げを打ってから再び強烈な腕ひしぎ。マツダはロープ際で強烈なキチンシンクを見舞うと、猪木はエキサイト。そこから猪木は強烈なショルダー・アームブリーカーの連発。
「これはマツダの必殺技、ジャーマン・スープレックスを封じる意味合いがある」と解説の櫻井氏。マツダはチョップ、猪木はヘッドバット、回し蹴りなど打撃の攻防を挟み、マツダは尚も左腕を狙う猪木をすくい投げ、そしてスピニング・トーホールド。
この試合、ロープ際の攻防も終始、緊迫しています。マツダは猪木の内ももの急所に膝蹴りを見舞うと猪木はたまらず場外へエスケープ。すぐさま藤波、坂口が狼軍団のセコンドに睨みを利かせ、介入を許しません。
リングに戻った猪木は一瞬の隙をついて延髄斬り!当時は必殺技に昇華する前の時期で、ネーミングもされておらず、舟橋アナは「ハイアングルの回し蹴り」と呼称しています。そして猪木はストンピングのラッシュ。フォールを狙うも、ロープブレイク。
マツダは腹部へのチョップで反撃すると、サイド・スープレックス。しかし腕攻めが功を奏し、やや体制が崩れます。
そこからマツダは「エディ・グラハム仕込みの」(櫻井氏)4の字固め。ここで15分経過。
そしてマツダはコブラツイスト。肩を痛めている猪木にとっては、キツイ攻めです。猪木は左腕でマツダの足を抑えて堪えます。
マツダはレバーブロックから、股裂き気味のグラウンド・コブラ。足のフックも完璧ですが、猪木は持ち前の驚異的な柔軟さで、これを凌ぎます。
ここで場外でまたしても藤波と上田、杉山が一触即発。一歩も引かない藤波の気の強さが頼もしいです。
マツダはジュードー・チョップとストンピングで一気呵成に攻めますが、猪木は場外にエスケープ。猪木は場外にマツダを誘うと、鉄柱攻撃。リングに上がると猪木はナックルパートを連発。
そしてブレーンバスターでカウント2。
両者はロープスキッピングからコブラ合戦、これは猪木が制して完璧なコブラツイスト。するとエプロンに上がったマサ斎藤がマツダの腕を掴んで救い出し、またも両陣営が一触即発になります。
そして、猪木が場外から戻るマツダをロープに振って、「コブラツイストの上位互換」である必殺の卍固め!
卍固めが決まった瞬間、介入しようとする上田、杉山ら狼軍団のセコンドと、それを阻止すべく駆け上がった坂口、藤波らの新日勢とで、リング内は大混乱。
腰高のマツダも自力で脱出を試みますが、猪木はそれを許さず。
こうして12年前のアメリカ遠征時代からの猪木・マツダの邂逅は、23分06秒、猪木の「完勝」で決着となりました。
リング上での古舘アナインタビュー
「必死でしたね。(コンディションは)最悪だった。肩がいうことを利かなくて・・・コブラツイストを先に極められた時は、もうダメかと・・・。なんとか必死で(勝てた)。このシリーズ、休ませてくれとマネージャーと揉めましたが、今日こうやって考えると、出てよかったなと。来年は日本選手権。誰でも権利を持たせて盛大にやって、勝ち残って優勝のトロフィーを勝ち獲りたいと思います。」(猪木)
後年、アントニオ猪木はこの1戦を振り返り、こう証言しています(「アントニオ猪木の証明」木村光一著より)
「同じゴッチ門下ということもあるけど、マツダさんはすでに一つの型を持っていて、逆にそれが俺としてはやりやすかったんですよ。意外性がないんで安心というか。もともと俺とは体力や柔軟性の面で差がありましたし、すでに彼は年齢的にも下り坂でしたから。」
こうしてアントニオ猪木は「プレ日本選手権優勝」で激闘の続いた1978年を締めくくった・・・と思いきや。
なんと猪木はこの後ニューヨークへと渡り、12月18日のMSG(マジソンスクエアガーデン)定期戦で、テキサス・レッドを相手にWWWF認定マーシャルアーツ・ヘビー級王座の初防衛戦を行っています・・・。
まさに八面六臂、獅子奮迅の大車輪・・・この1976~1979年あたりが、アントニオ猪木の気力・体力がもっとも充実したピークだったように思います。
その後のヒロ・マツダ
マツダは翌1979(昭和54)年4月5日に、マサ斎藤と組んで坂口征二&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取。タイトルをアメリカに持ち帰り、6月15日にロサンゼルスにて坂口&長州力に敗れるまで戴冠しました。
その後、1982年6月には日本陣営の助っ人となって新日本プロレスに再登場。6人タッグマッチで猪木&藤波とトリオを結成しました。
「本拠地」であるアメリカマットでのヒロ・マツダは、1960年代から70年代、アメリカ南部フロリダ地区(CWF)の南部ヘビー級、フロリダ・タッグ、NWA世界タッグ、ジョージア地区でNWAコロンバスヘビー級、ミッドアトランティック地区(南北カロライナ、バージニア)のNWAミッドアトランティック・サザンヘビー級、NWAイースタンステーツヘビー級、NWAトライステーツタッグ王座(オクラホマ)など数々の王座を獲得。
そして「Matsuda Wrestling & Judo School」を開校し、数々のプロレスラーを輩出しました。IWGPとWWFを制したハルク・ホーガン、WCW世界タッグ王者のポール・オンドーフ、WCW世界ヘビー級王者レックス・ルーガー、WCW世界ヘビー級王者ロン・シモンズをはじめ、海外で活躍する日本人レスラーのパイオニアとして、マサ斎藤、剛竜馬、谷津嘉章、武藤敬司、西村修らがマツダの薫陶を受けました。
CWFの後継JCPが1989年にWCWに買収されると、”ヤマサキ・コーポレーション(The Yamasaki Corporation)”なる悪のユニットを結成。「日本の大企業の御曹司」設定のスーツ姿のヒールマネージャーとなり、リック・フレアー、バリー・ウインダム、ブッチ・リード、マイケル・ヘイズ、ケンドール・ウインダムなどをサポートしました。
そして1990年9月29日、アントニオ猪木「レスラー生活30周年記念パーティー」の席上、ルー・テーズを発起人とする「過去に猪木と闘った」プロレスラーおよび格闘家によって構成された「グレーテスト18クラブ」に名を連ね、久々に新日本プロレスのマットに上がります。
1990年12月26日、新日本プロレスの浜松大会において、木戸修とのエキシビション・マッチが行われ(木戸が逆さ抑え込みで勝利)、これが日本での最後の雄姿となりました。
その9年後の1999年11月27日。ヒロ・マツダは肝臓がんのためタンパの自宅で家族に看取られ、亡くなりました。享年62歳。
それから23年後の2022年10月1日、アントニオ猪木が亡くなりました。今ごろ天国で再会した両者は、どんな会話を交わしているのでしょうね。
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