世界の荒鷲「坂口征二」~①柔道日本一・日本プロレス編

※当サイトで掲載している画像や動画の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属します。

ID:10978

「キムケン」を取り上げて、この方を取り上げないわけにはいきません。アントニオ猪木を支え続けた新日本プロレスの偉大なるNo.2、“世界の荒鷲“ “ビッグ・サカ“ “元柔道日本一”  坂口征二 です!

実は私は地元・久留米でとある縁でつながりがありまして・・・生まれて初めてプロレス生観戦した日にサインをもらい、久留米での引退興行も観に行き、社長就任時にはパーティに参加させていただいたり(三銃士がブレイク直前、北尾もいたなぁ)・・・と、何かと思い入れのあるレスラーなのです。

 

第①回は、柔道日本一~日本プロレス時代を振り返ります。

 

スポンサーリンク

坂口征二とは?

 

プロレス入り前は、‘65全日本選手権優勝の“柔道日本一”。当時の日本柔道界の悲願「打倒ヘーシンク」を期待された、大型強豪選手の1人でした。身長196Cm、体重100Kgの外国人選手にも引けを取らない均整の取れた筋肉質の巨体は、いま現在の柔道界にも見当たりません。

 

‘67年にプロレス転向。日本プロレスではジャイアント馬場と「東京タワーズ」を結成。

 

その後、アントニオ猪木率いる新日本プロレスに合流してからは「黄金タッグ」で活躍。リングの内外で長く「No.2」「副社長(後に社長)」として、新日本プロレスの屋台骨を支え続けました。

 

 

得意技はジャンピング・ニー・アタックとアトミック・ドロップ、逆エビ固め。決して目立たず、地味な試合ばかりでしたが、アントニオ猪木との直接対決や最もイケイケだった頃のUWF勢との対戦などで時折、規格外の強さを見せることがあり、「本気を出したら一番強いんじゃ・・・」との幻想を抱かせるレスラーでした。

 

入場テーマは和太鼓が印象的な「燃えよ荒鷲」です。

Moeyo Arawashi – Minotaur (Seiji Sakaguchi) 坂口征二

 

ちなみに・・・ご本人はこの勇壮な和太鼓の調べがあまり好きじゃなかったそうで、いつもイントロでさっさと入場してしまっていました。

 

坂口征二の「柔道日本一」時代

 

坂口征二さんは1942(昭和17)年、福岡県久留米市出身。久留米市立南筑高校で全国優勝し、1961(昭和36)年に明治大学に進学。柔道部で神永昭夫さん(のちの東京オリンピック銀メダリスト)の指導を受けます。

 

1964(昭和39)年の東京五輪で初めて「オリンピック正式競技」となった柔道。軽量級、中量級、重量級の各階級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したものの、無差別級で本家の期待を一身に背負った神永が、決勝でオランダのアントン・ヘーシンクに敗れるという波乱が起こります。

 

坂口征二は、その東京五輪翌年の1965(昭和40)年の全日本選手権で優勝し、晴れて「柔道日本一」に。同年ブラジルのリオで行われる世界柔道において、“日本柔道界の宿敵“「ヘーシンク打倒」の期待を背負います。

 

 

リオデジャネイロで開催された第4回世界選手権で坂口はヘーシンクと2回対戦し、いずれも敗れました。坂口に勝利したヘーシンクは重量級で優勝、続く無差別級出場を棄権。そしてヘーシンクは「私が今大会に参加した目的は、日本のチャンピオンを破ること。それを果たしたので引退する」と電撃引退。日本柔道は、「打倒ヘーシンク」という目標を失ってしまいました。

 

さらに柔道は、1968(昭和43)年のメキシコオリンピックでは競技から除外されてしまい、復活するのは1972年夏季大会(のちのミュンヘンオリンピック)から。年齢を考えると、この空白期間は「柔道五輪メダリスト」を目指すには、厳しい現実です。

 

そして1966(昭和41)年の全日本柔道で優勝を逃し(準優勝)たこともあり、去就について考える中で、日本プロレスから誘いの手がかかります。

 

坂口征二・日本プロレス入団!

 

坂口の務める旭化成工業(現:旭化成)は、宮崎県延岡市にありました。そこにはるばる東京から、日本プロレスの密使が再三、訪れます。

 

当時の日本プロレスで、こうしたスカウト活動が行われるのは異例。その裏には、豊登に誘われて日本プロレスを離脱、1966(昭和41)年に東京プロレスを旗揚げしたアントニオ猪木の存在がありました。

 

猪木を失った日本プロレスは、ジャイアント馬場と並ぶ大型日本人レスラー、「ポスト猪木」として、坂口がどうしても欲しい人材だったのです。

 

六本木のレストランに招かれた坂口は「芳の里社長、ジャイアント馬場さんらに『プロレスやらないか。いいぞ』なんて声かけられてさ。連日、しゃぶしゃぶやら、見たこともないぶ厚いステーキを振る舞われ、プロレスラーになればこんないいものが食えるのかと心が揺らいだ。会社勤めの片手間にスポーツをやってる中途半端な状態が性格的に我慢できなかったこともあり、プロレスに行くと腹を決めた」と、のちに語っています。

 

坂口は極秘裏に、日本プロレスの芳の里社長と共にコミッショナーの川島正次郎さん(自民党副総裁)に挨拶へ。すると一般紙である産経新聞に「柔道日本一の坂口がプロレス入り」とすっぱ抜かれてしまいました。

 

坂口のプロレス転向は、柔道界から予想以上の猛反発を招きます。この当時、1954(昭和29)年12月の力道山vs木村政彦戦の一件もあり、柔道界はプロレスに対するアレルギーが根強かったのです。

 

「東京郊外にある、日プロの後援者が所有するモーテルにこもらされて、芳の里社長と一緒に宮崎・延岡の旭化成や明治大学の関係者に頭を下げに行った。明治大のOB会からは『この野郎』と批判され、除名扱いになったよ」

 

1967(昭和42)年、坂口は旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。2月17日に赤坂のホテルニューオータニにて入団発表を行い、なんと同夜にハワイでの特訓に出発。これも柔道関係者からの反発と引き止めを警戒したからでした。

 

「ホテルで記者会見した後、本当にそのまま、どこにも寄らず、着の身着のままで飛行機に乗ってよ。馬場さんが『向こうに行ったら、いくらでも売ってるから』と言うんだよ。アメリカでは本当に大きなサイズの店があって、背広でも靴でも、何でも売ってて驚いたよ」

 

後にオリンピック銅メダリストの小川直也がプロレス入りした際、坂口はこの自身の苦い経験から、小川の所属するJRAや明治大学に自ら頭を下げ、円満なプロレス転向を実現させました。当時の坂口は小川と違い、五輪出場前で「まだこれからの選手」と期待されていたのです。

 

 

ハワイを経て、アメリカ本土での武者修行を開始。カール・ゴッチの指導を受け、1967(昭和42)年8月5日、カリフォルニア州サンバナディーノ、スティーブ・コバック戦でデビュー。4分51秒、跳ね腰からの上四方固めで勝利。黒いショートタイツに柔道着を羽織っての入場でした。翌月の9月20日には、ロサンゼルスでゴッチ相手に時間切れ引き分けを演じています。

 

その後もNWAの主要テリトリーを転戦し、「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動。「帰国命令が出たときは帰りたくなかった。水が合ったんかね、試合して練習して、渡米したときに100Kgだった体重が130Kgに増えてました」

 

坂口征二・日本デビュー

 

“元柔道日本一”坂口の国内デビューは、1969(昭和44)年、アントニオ猪木が初優勝した“春の本場所”「第11回ワールドリーグ戦」。

 

 

馬場、猪木に加えて新星・坂口の加入で大盛況、我が世の春を謳歌する日本プロレスでしたが、奇しくもこのリーグ戦中に、後に大きな火種となる事件が起こります。

 

それは日本プロレス協会がNET(現テレビ朝日)と新たに契約を結び、7月第1週からのプロレス中継の放映開始を発表したことでした。力道山時代からプロレスを中継する日本テレビと日本プロレス協会との間に、後発のNETが強引に割り込んだことで、亀裂が生じ始めます。

 

坂口は6週間のWリーグ戦を終えると、再度渡米。その後、通算3年6か月に及ぶ米国修行から帰国すると、日本マット界は激動に見舞われ始めるのです。

 

 

黄金タッグ結成も猪木が日プロ追放!~坂口、アジアタッグ/UN/インタータッグ戴冠

 

1971(昭和46)年、坂口はアントニオ猪木と「黄金タッグ」を結成。「第2回NWAタッグリーグ戦」でジャイアント馬場&吉村道明組との星争いに勝ち、11月1日、東京体育館で行われた決勝戦でバディ・オースチン&キラー・コワルスキー組からストレート勝ちを収め、見事初優勝を飾ります。

 

 

しかし同年12月、アントニオ猪木が「会社乗っ取りを企てた」として選手会を除名・永久追放に(翌年、猪木は新日本プロレスを旗揚げ)。これに伴い、日本プロレスでの坂口の存在感が一気に高まります。

 

12月9日、大阪府立体育会館で予定されていたドリー・ファンクJr. VS アントニオ猪木のNWA世界ヘビー級&UNヘビー級のダブルタイトルマッチが、猪木の欠場で中止に。代わりに急遽、坂口征二がドリーに挑戦するNWA世界ヘビー級選手権となりました。

 

ドリーへ5度目の挑戦となる坂口は善戦し、大きく評価を上げました(豪快なアトミック・ドロップで先制するも2本目、3本目と連取され、惜しくも1対2で敗戦)。

 

 

 

この後、同じく猪木の離脱で空位となったアジアタッグ王座争奪戦で、坂口は吉村道明とコンビを結成。シリーズ最終戦、12月12日、東京体育館で行われた王座決定戦でドリー・ファンクJr.&ディック・マードック組を破り、第26代王者となりました。

 

そして1972(昭和47)年2月11日、坂口は猪木が保持していたUNヘビー級王座を獲得。ザ・シーク、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらを相手に防衛を重ねていきます。

 

 

馬場と「東京タワーズ」結成、インタータッグ戴冠!~日テレとの亀裂が深まる

 

坂口は、猪木に代わるジャイアント馬場のパートナーとして、タッグチーム「東京タワーズ」を結成。1972(昭和47)年5月19日、ロサンゼルスでザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、キラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に、防衛を続けました。

 

 

しかしこの裏で、とうとう日本プロレスと日本テレビの亀裂が決定的になってしまいます。

 

看板選手であるアントニオ猪木を失ったNETは、日本プロレスに再三、ジャイアント馬場の放送解禁を要求。一方の日本テレビは、3月末で満了となった契約を暫定的に延長して第14回ワールドリーグ戦の放送を継続しましたが、「馬場のNET登場だけはNG」が絶対条件でした。しかし、日本プロレス社長の芳の里は、4月3日の放送からジャイアント馬場のNET登場を了承してしまいます。

 

 

以降、なし崩し的に馬場はNETに登場し、これに激怒した日本テレビは、ついに日本プロレスとの契約解除を決定。

 

ワールドリーグ戦決勝戦の放送をもって日本プロレスのテレビ中継から撤退し、6月末までは名勝負集を放送し続け、7月の番組改編から金曜夜8時の枠は「太陽にほえろ!」を放送することになりました。

 

そしてこの亀裂は遂に、ジャイアント馬場の退団にまで至ります。同年7月、馬場は日本テレビのバックアップを受けて、全日本プロレスを旗揚げすると発表しました。

これに伴いインターナショナル・タッグ王座は一旦返上となりましたが、12月2日に坂口は大木金太郎とのコンビでキニスキー&ブラジルを破り、再び戴冠しました。

 

しかし、猪木に続き不動のエース・ジャイアント馬場と日本テレビの中継を失った日本プロレスは、窮地に立たされます。NETはプロレス中継を月曜から金曜夜8時に移行しますが大木、吉村、坂口のメンツでは、視聴率も地方興行も苦戦。

 

「周囲からは『坂口も全日本に行くんだろう』と言われていたけど、馬場さんからは『お前は日プロを守れ』と言われてね。何十人いる選手、社員を捨てて自分だけというわけにいかなかった。あの時、馬場さんが積極的に誘ってくれてたら、どうなっていたかな」

 

そんな折、NET主導で、アントニオ猪木率いる新日本プロレスとの合併計画が浮上します。

 

 

次回は②新日本プロレス・前編です!

コメント

タイトルとURLをコピーしました