世界の荒鷲「坂口征二」~③新日本プロレス・後編

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令和の時代に「荒鷲」を語る!坂口征二SP、第3回は新日本プロレス・後編です!

第①回 柔道日本一~日本プロレス編
第②回 新日本プロレス・前編

 

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坂口征二 vs アニマル浜口 維新軍との抗争

 

長州力ら維新軍団が台頭した頃には、既に坂口は一歩下がったポジションでしたが、1983(昭和58)年11月3日、蔵前国技館で行なわれた「新日正規軍vs維新軍 綱引きマッチ」 には参戦。

 

4対4の柔道方式 全面対抗戦の第1試合、坂口征二vsアニマル浜口の副将格同士の一戦。

 

体格、レスラーとしての格からしても坂口の勝利は揺るがないところなのですが、この試合は浜口の独壇場。

 

珍しいブレーンバスターまで繰り出す坂口の猛攻をしのいだ浜口は場外戦に誘い込み、8分11秒、場外フェンスアウトで浜口の反則勝ち。

 

 

プロレスにはこうした損な役回り、引き立て役を引き受けるレスラーが必要なのですが、坂口にとっては久々の大一番だっただけに、いささか気の毒な一戦でした。

 

この大会について詳しくはこちら

坂口vs高田・山崎・木戸 ~UWFとの勝ち抜き戦で怪物ぶりを発揮

 

その後、前田日明らUWF勢が新日本マットにUターン。

 

この時も坂口は「5vs5イリミネーションマッチ」などの大一番には登場しませんでしたが、その後、1986(昭和61)年5月1日に両国国技館で行われたアントニオ猪木抜きの「新日本vsUWF 5対5勝ち抜き戦」で、久々の大活躍を見せました。

 

柔道の対抗戦形式で先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の5人による勝ち抜き戦。

 

新日本サイドは山田恵一、坂口征二、越中詩郎、木村健吾、藤波辰巳。

UWFは高田伸彦、山崎一夫、木戸修、藤原喜明、前田日明が出場しました。

 

UWFの先鋒、高田伸彦が新日本の先鋒、山田恵一を危なげなく下すと、次鋒として登場した坂口征二vs高田伸彦 となります。

 

高田がキックの連発からトップロープからのミサイルキックを狙ったところをかわし、坂口は豪快なカナディアンバックブリーカーでギブアップ勝ち。場内は久々の荒鷲殺法に大歓声に包まれます。

 

続く 坂口征二vs山崎一夫戦 では、山崎が仕掛けるアキレス腱固めをなんと立ち上がって防ぐという、前代未聞の返しを見せ、観客の度肝を抜きます。

 

対する山崎は体重差30kgの坂口にバックドロップ。すかさず腕ひしぎ逆十字を極めるも、坂口はまたも上体を起こしてブロック。場内は大歓声です。坂口はキックの連打を浴びるもその足を取り、渾身の逆片エビ固め。山崎はなんとかロープに逃れまずが、今度は強烈な殺人ボディスラムから、とどめの逆エビ固め。

 

たまらず山崎はギブアップし、完璧な貫録勝ちを収めます。

 

高田、山崎を連破した坂口の前に、UWFの中堅・木戸修が登場。坂口征二vs木戸修のベテラン対決が実現しました。坂口は木戸の関節技を難なくかわし、キド蹴りにも耐えますが、3試合目で息の上がる坂口はジャンピング・ニー・アタックの着地に失敗。

 

その後、坂口はアトミック・ドロップからボディスラムを狙いますが、木戸はすかさず首固めでスリーカウント。

 

坂口は中堅の越中に次を託しリングを下りますが、この日の主役は、久々に大爆発した坂口征二でした。

 

坂口征二vs前田日明 ブロディ欠場の余波

 

ファンの間で「本気になったら坂口が一番強い説」「骨太の坂口には関節技が効かない説」など、対UWFの最終兵器としてのビッグ・サカ幻想が膨らみまくる中、1986(昭和61)年11月24日、札幌中島スポーツセンターで急遽、坂口征二vs前田日明のビッグマッチが実現しました。

 

年末のジャパンカップ・タッグリーグ戦中に行われたこの試合は、当初予定されていた前田日明vsブルーザー・ブロディの代替えカード。

 

ブルーザー・ブロディが契約不履行で来日をキャンセルし、外国人招聘担当であった坂口が責任を取り、自分が前田と対戦したのでした。

 

試合は立ち上がりから関節技の応酬。前田がアキレス腱固めを極めると、またも坂口は立ち上がって返し、観客からどよめきが起きます。

 

ならば、と前田が足首を極めにかかると、坂口は腕ひしぎ逆十字。UWFの関節技に対し、柔道殺法で一歩も引けを取りません。

 

しかし、坂口が前田をコーナーに詰めて顔面を張ると前田は顔色を変え、坂口をコーナーに詰めて大車輪キックの後、ダウンした坂口の側頭部に蹴り!

 

これで鼓膜が破れた坂口は完全にスイッチが入り、エプロンから前田の足を取って鉄柱に打ち付けると、リングに戻ってコーナーポストに逆さ吊りにしてストンピングの嵐。

 

制止する柴田レフェリーを突き飛ばし、坂口の反則負けが宣せられました。

 

両者は試合後ももみ合い、前田は「反則で逃げるのか!」と挑発しました。

 

 

最後の坂口の「暴走」は、「危険な展開になる前に、試合を終わらせた」大人の措置にも思えます。

 

重爆キックにはタジタジでしたし、さすがに年齢的にも前田に勝てた、とは言い切れませんが、それでもあの体格とパワーは驚異的。

 

全盛期にストッパーを外した坂口はどれだけ強かったのか、幻想がさらに膨らみました。

 

 

アントニオ猪木vs坂口征二 頂上対決

 

坂口征二とアントニオ猪木の初対決は1974(昭和49)年4月26日、広島県立体育館。第1回ワールドリーグ戦の公式戦として行われ、30分時間切れ引き分けでした。

 

その後、通算対戦成績は猪木の6勝1敗3分。唯一、坂口が勝利したのが1986(昭和61)年5月30日、同じ広島での一戦です。

 

1982(昭和57)年3月の第5回MSGシリーズ公式戦以降、4年ぶりに実現した猪木vs坂口戦を、マスコミは「最後の頂上対決」と書きたてました。

 

坂口はシュミット式バックブリーカー、カナディアンバックブリーカー、ジャンピング・ニー・アタック、河津落しで猪木を追い込み、最後はロープ際でアトミック・ドロップの態勢で抱え上げ股間をロープに打ち付け、猪木のリングアウト負け。

 

 

猪木が写真誌で「六本木美人ホステスとの密会」をスクープされ、その禊として丸坊主にしていた時期で、「副社長が社長を制裁し、男のけじめをつけさせた」様相でした。

 

スーパーファイト IN 闘強導夢 猪木&坂口vs橋本&蝶野

 

アントニオ猪木の政界進出に伴い、新日本プロレスの社長に就任した坂口征二。さっそく大仕事をやってのけます。それが、1990年2月10日に東京ドームで開催される「スーパーファイトIN闘強導夢」への、全日本プロレス参戦でした。

 

4月に開催される全日本プロレスとWWFの合同興行「日米レスリングサミット」に新日本プロレスも協力する事が決まり、ジャイアント馬場と頻繁に顔を合わせる時期だったことも幸いしました。

 

馬場は坂口の社長就任のご祝儀として、なんとジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンの出場を許可。

 

ほかに元横綱・北尾光司のプロレスデビュー戦も組まれ、ドームは超満員に膨れ上がりました。

 

この日のメインは、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋組。久々の復活となる「黄金タッグ」が、愛弟子を迎え撃ちます。

 

試合は忖度のない橋本の重爆キックに苦しみながらも猪木をアシストし、辛くも勝利。

 

試合後、これが本邦初公開となる猪木の「1、2、3、ダー」を、目を細めて見守る姿が印象的でした。

 

 

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坂口征二 引退会見

 

ドーム大会を成功させた坂口征二は、社長業と現役の二足のわらじは自分にはムリ、と引退を決意。3日後の1990年2月14日、引退会見を開きます。

 

坂口は自身の引退記念シリーズの内容発表とレスラー生活の思い出を語りました。記者の「一番印象に残っている試合は?」という質問に対し「昭和46年にドリー・ファンクJr.と大阪でやったNWA戦ですね。猪木さんが欠場して、ピンチヒッターとして急遽、大きなチャンスをもらって、とにかく無我夢中で戦いました。確か3度目の渡米から帰ってきた直後だったと記憶しています。それ以外では、猪木さんと最初に広島でやった試合、福山で大木金太郎とやった喧嘩マッチ。プロレスちゅうのはキャリアの世界でもあるけど、若さっていうのも大きかったよね。若いころは何をやっても怖くなかったし…。年とってくるとやっぱり、そういう面ではね(苦笑)。まあ23年間のレスラー生活に悔いはありませんけど、欲をいえば馬場さんと一度、やってみたかったですね」

 

引退シリーズは、「1990年ビッグファイトシリーズ」中の3月15日の久留米県立体育館から23日後楽園大会までの全8戦。

 

「坂口征二引退記念シリーズ」と銘打たれ、15日の久留米大会で引退記念試合、23日の後楽園大会で引退記念エキシビジョンマッチが行なわれ、22日の愛知県体育館では試合出場はないものの、明治大学の後輩である中日ドラゴンズ・星野仙一監督による花束贈呈が行われました。

 

地元・久留米で引退試合

 

1990年3月15日、久留米県立体育館で行われた引退試合。23日の後楽園ホールはエキシビションですので、試合としてはこの日が最後の雄姿です。

 

私はこの日、当時住んでいた横浜から帰省し、人生初・生観戦の「プレ日本選手権シリーズ」以来、12年ぶりに祖父と2人で生観戦しました。

 

引退試合はメインイベント、30分1本勝負で行われた坂口征二&木村健悟vsスコット・ホール、マイク・カーシュナー戦。対戦相手のスコット・ホールは、1987(昭和62)年「ジャパンカップ・タッグリーグ戦」でタッグを結成した相手です。

 

この試合でなんと坂口はフィニッシュを木村に譲り、最後までアシストに徹する「坂口らしさ」を貫きました。

 

3月23日、後楽園ホールで行なわれた引退記念エキシビジョンマッチは、坂口征二&マサ斎藤vs木村健吾&木戸修戦。

 

猪木や藤波、長州もおらず、10カウントゴングと花束贈呈のみのシンプルな引退式でしたが、この地味な感じもまた「坂口らしさ」なのです。

 

 

社長として新日本プロレスの隆盛を築く

 

社長に就任した坂口は「新日本プロレスを会社らしい会社にする」ことを目指し、着実な経営で就任時に10億円以上あった負債も、8年で完済したと言われています。

 

坂口政権時の90年代の新日本プロレスは、今も続く大ヒット企画「G1 CLIMAX」をスタート。オフィシャルグッズを販売する「闘魂ショップ」を作り、nWoブームで莫大な利益を上げ、「1・4東京ドーム」「ベスト・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」などのヒット興行を連発。ついには東京×2・大阪・名古屋・福岡と年5回の「4大ドームツアー」を敢行するまでになりました。

 

「借金をゼロにした時な、取引銀行に挨拶行ったら幹部連中が5、6人いて、全部戻さないでいいから、また借りてくださいよって言われたって。」(坂口政権で現場監督を務めた長州力)

 

「堅実派だから。坂口さんが社長になったから銀行も『坂口さんだったら』って貸してくれた。あの人の信用ですよ。銀行関係は全部、会社の信用じゃない。坂口さんの信用です。」(営業部の上井氏)

 

坂口征二とアントニオ猪木

 

どこまでも堅実で誠実な坂口征二と、世間を驚かせることに喜びを感じ、壮大な男のロマンのためには人も裏切り金使いも粗いアントニオ猪木。まさに水と油の両者が合体したことで、新日本プロレスは業界の盟主となり、その繁栄はいまに続いています。

 

あの時、もし坂口が新日本プロレスに合流していなかったら・・・その貢献は計り知れないものがあります。

 

なぜ坂口は親しかったジャイアント馬場ではなく、アントニオ猪木と合体したのか。それが長年の疑問でした。

 

ご本人が語るように「馬場さんから日本プロレスを守るように言われたから」「NETから誘われたから」、が理由ではありますが、追放後に「片手で3分」「両手で5分」と対立した猪木ではなく、坂口は馬場の率いる全日本プロレスに合流する方が、自然な気がします。

 

 

巷では「坂口夫人が馬場夫人である元子さんとソリが合わず、当時の猪木夫人である倍賞美津子さんと仲が良かったから」という説もありますが、私は坂口さんの実姉に直接、その疑問をぶつけてみたことがあるのです。

 

お姉さんは「ほんとのところはわからないけど」と前置きしたうえで、「征二は猪木さんの練習熱心なところに惹かれていた」と語ってくれました。「馬場さんとは毎晩のように麻雀するくらい仲が良かったけど、全日に行った人たちは練習しない人たちばっかりだった(笑)。誰よりも練習する猪木さんを、征二は運動選手として尊敬していたんじゃないかしら」とも。

 

ご本人はインタビューで「馬場さんと一緒にならなくて、猪木さんと一緒になって良かったですよ。馬場さんと一緒になっていたら、何年かで(指を下に下げる仕草をして)こうなっていた。似たような性格だったし、猪木さんとは性格違うしよ。『猪木さんと一緒になったからのうのうと暮らしていますよ』と言ったら、猪木さん、笑っていたよ。」と語っています。

 

第1回IWGPで猪木が失神・入院騒ぎを起こしたとき、坂口は「人間不信」と書き残してハワイに雲隠れしたという逸話もありますが、暴動騒ぎ、レスラーの不始末の裏側で後始末をするのはいつも坂口。警察や消防にOBが大勢いる柔道界のつながりも、強固なものがありました。

 

「発想力はすごかったよね。モハメド・アリとやる、パキスタンで試合をすると言って、本当に実現させちゃったし。最初に聞いた時はなに言ってんですか!って制止したけど、話を聞いてると、あれ、できるんじゃないかって思えてくるんだよね。後楽園も満員にならない時期に東京ドームでやるって言いだした時は参ったなあ。でも本当に実現させただけではなく、定着させた。あれは猪木さんの神通力じゃないか。だってよ、ソ連で試合をする、北朝鮮で試合をするなんて、今考えても実現するとは思わないじゃない。さすがに30億円出すと公言していたウガンダのアミン大統領との試合は実現しなかったけどな。あとアラスカでの試合はさすがに無理だったな。当時はイケイケのスタッフが周囲にいたし、熱意のある営業部員や企画部員がいた。猪木さんの野望を正直に受け止める熱気があったんだよ。猪木さんだから許された会社運営だったね。」

 

アスリートとしての坂口のポテンシャルは、多くのレスラーが口を揃えて「規格外」と述べることからも垣間見えます。腕っぷしには自信があり、しつこく腕相撲で勝負を迫ったマサ斎藤を秒殺したというエピソードも。

 

「坂口さんはそんなに器用な人じゃなかった。真面目すぎちゃって。くそまじめ」「入って来た頃なんか、引きが強いんですよ。外国人なんか、その勢いで一回転しちゃう。だから『それじゃ危ないから、もっと緩めて投げないとダメだよ。外国人なんかすぐケガするから』って。案の定、外国人から『ビッグ・サカはクラッシャー』だって」(日本プロレス時代、練習相手を務めたザ・グレートカブキ)

 

「昔から見てきて、坂口さんみたいなレスラーは後にも先にもあの人だけだと思いますよ。ナチュラルな力が強い。ボディビルで作った身体じゃないですからね。腹筋は割れているし、腕は太いし、足も太い。ああいう人はもう出ない」(小林邦昭)

 

「腕相撲がものすごく強い。僕が二番目に強かったんですよ。みんなが腕相撲大会やっていて、自分が勝っていって、坂口さんが『じゃあ、お前来い』って。坂口さんとやったらポンとやられて、『お前、強いな』って言われたことあるんですよね」(佐山聡:初代タイガーマスク)

 

そんな坂口は、新日本プロレスでは常にアントニオ猪木の後ろに回り、バックアップする存在でした。営業本部長だった新間寿氏は著書の中でこう明かしています。

 

「私は坂口に頭を下げて頼んだ。『悪いけれども、新日本プロレスを売り出すか、坂口征二を売り出すかということになれば、私は会社を売りたい。新日本プロレスがよくなってこそ、あなたもよくなるから、二番手に甘んじてくれないか』アントニオ猪木を立ててやってほしい―言いにくいことをはっきり切り出した私に、彼は嫌な顔ひとつせず、私の言う条件を受け入れてくれた。『わかりました新間さん。新日本に入る覚悟を決めている以上、いいですよ。新間さんのやりやすいようにやってください。しかし、猪木さんに何かあった時は、私がメインを張りますよ。いつでも私はその立場にあることを忘れないでください」と言ったことを紹介し、「会社の発展を第一に考えていた坂口だったが、元日本プロレスのエースとしてのプライドだけは忘れていなかったのである」

 

 

最後に、坂口征二ご本人の語るアントニオ猪木へのコメントで、この連載を終わります。

 

「ブラジルのハイセルとか永久電気とかよ、こうしたら何十億円になるから、お前も面倒見てやるからな、そうですかって。猪木さん、将来レスラーのためにとか、辞めた人間のためとか、世界の何とかとか…。私利私欲でやったわけやない。金使って、夢があった。馬場さんはコツコツやって、コツコツ貯めて、それでゴルフ場会員になったり、ハワイに別荘買ったり。猪木さんは馬場さん以上に稼いでも投資したり、騙されても、またですか?ってね。憎むに憎めないところあるんだよね。助けてあげよう、ちゅうね」

 

 

参考文献:
「最強のナンバー2 坂口征二」佐々木英俊著(イーストプレス)
坂口征二公認ファンクラブ荒鷲(Facebook)
「やっちゃるけん 人間・坂口征二 全仕事と日本プロレス史断章」(週刊プロレス B.B.MOOK)

コメント

  1. たらこっち より:

    いつも拝見させてもらっています。
    ナチュラルに強いと言う点、体格部分、ジャンピングニー合戦やらで、
    坂口vs鶴田を見てみたかったですね。
    性格も似てそうです。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!私もまさに”真のNo.2対決”として坂口vs鶴田を想像してしまいました。ただし、すげー地味でつまらない、「凡戦」になってたでしょうね(笑)

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