力道山はなぜ、木村政彦に負けなかったのか①~1954 ベストセラーに対する私論 前編

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プロレス、格闘技ファン以外からも大いに話題となり、「木村政彦」という伝説の柔道家を一気に世に知らしめた、2011年刊行のベストセラー『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)。

 

 

いまから65年も前の出来事であるプロレスリング日本選手権、力道山vs木村政彦戦の不可解な決着から端を発しているのですが、私もこの試合は「歴史上の出来事」であり、断片的な情報しか知りませんでした。

 

前回の「日本テレビとプロレス」について調べているうちにやはりこの試合に行きつき、私なりにこの試合と、増田氏の著書に対する考えを書いてみようと思いました。

 

木村政彦氏はおろか、力道山についても詳しく知らない人の方が多いと思いますので、そこからスタートします。

 

 

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力道山、プロレスラーへの道

 

力道山は本名 金信洛(김신락)、1924(大正13)年に日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮)で朝鮮人の両親のもとに生まれました。

 

大相撲二所ノ関部屋に入門、1940(昭和15)年に大相撲初土俵。1946(昭和21)年11月場所に入幕、1947(昭和22)年6月場所では9勝1敗の星をあげ、横綱、大関らと優勝決定戦に進み、1949(昭和24)年には関脇に昇進するなど活躍しますが、1950(昭和25)年に自ら髷を切り、廃業。

 

 

廃業の理由は「出自問題で大関に昇進できなかったため」、「サイドビジネスを巡る金銭トラブルがあった」などが語られています。

 

ちょうどこの頃、大韓民国、北朝鮮が建国されますが、力道山はあくまでも「長崎大村の百田家に生まれた日本人(実際は養子縁組)」、というのが当時の通説で、出自については長く、伏せられていました。

 

力道山は大相撲廃業後、二所ノ関部屋の後援者新田新作氏が社長を務める新田建設に資材部長として勤務。

 

ナイトクラブでの喧嘩が元で、ハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合・・・マンガのようなストーリーです。

 

そのハロルド坂田が参加する米国フリーメーソン系慈善団体「シュライン」の在日連合国軍への慰問興行の練習に誘われ、力道山はそこでプロレス転身を志した、と言われます。

 

1952(昭和27)年2月には渡米してハワイ、ホノルルで日系人レスラー沖識名(後の日プロレフェリー)の下で猛特訓を受けます。

 

そして1953(昭和28)年、帰国して新田社長と当時の興行界のドン、永田貞雄氏の援助を受けて日本プロレス協会を設立

 

シャープ兄弟を招聘し、1954(昭和29)年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953(昭和28)年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームを巻き起こしました。

 

 

力道山(プロレス)とテレビ創成期の関係はコチラ

 

 

力道山と木村政彦

 

ちなみに、この頃のタッグパートナーが戦前戦中に「日本柔道史上最強」と謳われた木村政彦氏です。

 

木村がガイジンのタッグプレーに翻弄され、捕まってやられ、観客のフラストレーションが溜まったところで力道山怒りの空手チョップが爆発…というのが当時の展開でした。

 

これに不満を抱いた木村氏は他団体に参加、力道山と袂を分かちますが、興行人気ではまったく歯が立たず。

 

結核にかかった妻の医療費捻出の必要もあり金銭的に窮地に陥った木村氏は「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明。これを受けて

 

1954(昭和29)年12月22日、蔵前国技館
プロレス日本ヘビー級王座決定戦 力道山vs木村政彦

 

が決定。「昭和の巌流島」「相撲が勝つか柔道が勝つか」と大いに注目を集めました。

 

 

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

 

この試合中、力道山は突如激昂し、強烈な張り手、チョップ、蹴りの連打で木村氏をノックアウト。3本勝負を予定していた試合は、1本目15分で終了しました。

 

そのあまりに凄惨な喧嘩マッチに、真面目なスポーツファンは眉をひそめ、さらには試合後に「引き分けの約束があった」など八百長疑惑が噴出し、プロレス人気を一気に下げる結果となります。

 

この一連を木村氏視点で増田俊也氏が記したのが、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』です。この書籍、非常に大きな話題となり、各方面で絶賛されました。足掛け18年(!)に及ぶ丹念な取材により、これまで柔道界、プロレス界に封殺されて来た「木村氏の名誉を回復するための書」です。

 

―木村は力道山の卑劣な策略に負けたに過ぎない、本気でやれば木村が圧勝する―

 

著者はそれをテーマに取材を続け、この原稿を連載しますが、「木村氏を英雄として描きたかった」にも関わらず、導き出された結論は、その期待とは異なるものでした。

 

そして、記述は木村氏に肩入れした内容で、都合の悪いところは触れず、意図的に?隠すなどが多過ぎて、これをもって「正史」「ノンフィクション」とは言えるのだろうか?というのが、率直な私の感想です。

 

 

木村政彦とは何者か?

 

木村政彦氏は、戦前の柔道界において「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と賞されたほどの不世出の柔道家でした。

 

 

1936(昭和11)年6月、阿部謙四郎に敗れた後は公式戦の個人戦では無敗。1937(昭和12)年10月、拓殖大学予科3年在籍時に、全日本選士権で初出場初優勝を果たします。しかもプロの出場が認められている「専門の部」での快挙でした。以降、敵なしの三連覇を飾り大学を卒業します。

 

1941(昭和16)年に戦争のため徴兵されなければ、木村氏は何連覇していたかわからない、と言われます。戦後の1949(昭和24)年に開かれた第二回全日本選手権でも堂々、優勝を果たしているのです。

 

実に15年間不敗

 

現役時代を知る関係者は、口を揃えて「全盛期のルスカ、ヘーシンク、山下より上」それも「比べものにならないくらいの強さ」「史上最強の柔道家」と言います。

 

1950(昭和25)年2月、木村氏は内定していた警視庁の柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊氏が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道へ山口利夫、遠藤幸吉らと共に参加します。

 

しかしプロ柔道は客入りが悪く、スポンサーの経営不振も重なり給料未払いの状態が続きます。結核の妻の医療費を稼ぐ必要に迫られていた木村氏は、脱退してハワイへ渡航。

 

現地の日系実業家によるハワイ諸島での柔道巡業に参加し、プロレスのプロモーターに誘われ、プロレスラーに転身します。

 

そして1951(昭和26)年、今度はサンパウロの新聞社の招待で、ブラジルへ渡ります。

 

日系移民の多いブラジルでは、前田光世氏から受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術が発展しはじめていました。

 

伝説の木村政彦vsエリオ・グレイシー

 

木村氏は日本人柔道家を次々と破り、破竹の勢いであったエリオ・グレイシーの挑戦を受けます。

 

1951(昭和26)年10月23日、ブラジル・マラカニアンスタジアムにおいて行われた柔道対柔術の他流試合で、木村氏は得意の関節技でエリオを破りました。

 

2人の実力差は圧倒的で、木村氏はエリオに試合前に「関節技が極まったらすぐに参ったするように」と約束させたといいます。木村氏は2R、得意の大外刈から腕緘に極め、エリオの腕を骨折させます。しかしエリオは参ったせず、木村氏も骨折した腕を極め続けるという展開に、場内は騒然となります。

 

ついにセコンドが試合を止め、木村氏の一本勝ちとなりました。

 

▼実際の試合映像

 

 

>次回、後編はいよいよ、力道山vs木村政彦戦に迫ります!

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