力道山はなぜ、木村政彦に負けなかったのか②~1954 ベストセラーに対する私論 後編


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前編はコチラ

 

◆昭和の巌流島、力道山vs木村政彦戦

 

そして木村氏は帰国後、力道山が興した日本プロレスに参加、やがて対立して1954年の一騎打ち、となるのは前述の通りです。

 

調印式は1954(昭和29)年11月27日、鎌倉の松竹大船撮影所にて行われました(当代きっての人気者である力道山は映画撮影の真っ最中だったのです)。世間は「相撲が勝つか、柔道が勝つか」で空前の盛り上がりを見せました。

 

そして同年12月22日、超満員の観衆を集めた蔵前国技館において

プロ・レスリング日本選手権大試合 60分3本勝負 力道山 vs 木村政彦戦 

が開催されます。

前座を含むすべての試合が終わり、この試合のゴングは夜9時19分。テレビとラジオで全国中継です。

試合は静かな立ち上がりから白熱した攻防を見せますが、15分が経過した頃、木村が放った一発のキックで突然、状況が一変します。

このキックが「急所への反則」と力道山は形相を変え、すさまじい喧嘩殺法で木村を殴る、蹴るで一方的にノックアウト。

15分49秒、1本目は力道山が先取します。そして、ダメージの大きな木村は戦意喪失、ドクターストップのような形でそのまま試合が終了となり、力道山は初の日本選手権王者となりました。


 

◆試合当日の両者のコメント~衝撃の「八百長謀議」暴露

 

この力道山の圧勝、木村氏の惨敗には「木村氏がプロレスを甘く見ていた結果」「力道山側の卑怯な騙し討ち」など、さまざまな説があります。

 

私は今回、当時刊行された「真相」(1955年2月1日号/真相社)という共産党系暴露雑誌の記事を読みました。タイトルから

力道・木村戦のリング裏――眞劔勝負という名の八百長始末記

という刺激的なもので、驚くべきことに、試合直後の力道山自身のコメントが、

 

「木村は卑怯なヤツだ。木村は今夜の試合前から自分のところへ引分にしてくれといってきた。しかもハンコを押した文書までよこした。こちらとしては、試合は八百長でないから、もちろん初めから引分はできないと思って返事も出さなかった。そうしたら試合の最中に木村は、〟引分のはずだな〝といってきた。自分は腹がたってたまらないから徹底的にやった。すると木村は急所を蹴ってきた。そこで殺してしまうつもりでまた徹底的にやった。木村はあそこでのびてしまったからいいようなものの、もし起きてきたなら本当に殺していたかもしれない」

 

というものだった、という事を知りました。私は長い間、引き分けとする証文を公表して八百長を主張したのは負けた木村氏側だと思い込んでいましたが、真相はまるで逆でした。さらに、この雑誌にはその夜、神田の千代田ホテルに宿泊していた木村氏にも取材、試合当日夜のコメントを掲載しています。

 

以下、雑誌から転載(原文ママ)————————————

 

力道山のしゃべった内容が本当かどいかと、木村に問いただしたわけである。木村はもちろん負けたことも手伝い、不愉快な顔つきであったが、一瞬「それは誰から聞いた」と反問した。そこで、力道から直接きいたと知った木村は憤然として「力道は仁義を守らぬやつだ。大体こういうことはふせておくべき事柄だ。しかし、むこうがバラした以上はこちらもバラス」といって語りだしたのは、つぎのような力道との「真剣勝負」にかんするカラクリであった。「自分が力道と試合をするかどうかということを聞きにきたのは毎日新聞事業部長の森口〔忠造〕だ。そのとき森口には自分に力道との試合をやらないかといった。そのときの条件として、第一回戦は引分にする。第二回戦については、一回戦が終ったあとでまた相談しようということだった。だいたい今までのプロ・レスには、試合前にどちらが勝つか負けるかは、さきに話し合いをつけておいてからやることがあったので、自分は力道さえ引分を承知するのなら、それでよいと答えた。しかし、いろいろ考えてみると、力道の空手打ちは危険だからやらない方がいいのではないかといったところ、それはやらないということになった。そういうわけで、自分は始めから今夜の試合は引分だと思ってのぞんだ。そうしたら試合の空気がちがう。いったいどうなのかと力道にきいたわけだ。自分は力道の急所なんぞは蹴ったおぼえはもちろんない。それにもかかわらず力道はちからいっぱい空手で撲ってきた。危険でたまらないのでレフェリーに注意してもらおうと思って、横を向いたとたん徹底的に撲られ、倒れてしまった。今夜の試合は、あれはスポーツではない…」

 


 

・・・どうでしょう。八百長の取り決めが双方合意していた、していなかった、という食い違いはありますが、木村氏の言い分は多分に言い訳がましく、力道山の空手チョップには敵いません、と言ってるようなものです。

 

この後も両者は新聞、雑誌上で延々と水掛け論を繰り返し、結局は双方の後ろ盾の暴力団同士の仲介で手打ち、なります(増田氏の書籍に記述はないですが、木村氏は力道山から和解金をもらっています)。この過程で多くの日本人はプロレスの仕組みと、興行の闇の部分に気がついていったのです。

 


 

◆力道山vs木村戦を検証!

 

▼晩年の木村氏本人が語る力道山戦

 

これを見てから、現存する当時の試合映像を観ると、残念ながら木村氏の言い分はそうは思えません。

 

▼試合映像

 

木村氏は試合中盤から、明らかにスタミナが切れています。対する力道山は見るからにコンディションがよく、ものすごい肉体をしています。体格差だけでなく、試合運びや技のキレ、格闘家としての格までも数段上に見えてしまいます。

 

そして問題の終盤。木村氏の言う「急所に触れただけ」の前蹴りで力道山は突如激昂し、猛烈な打撃で攻め立てます。

 

ここで重要なのが、木村氏の主張する「引き分けの約束だった」という点です。これが「負ける約束をしていた」のなら納得できるくらいの、一方的なヤラレぶりなのです。木村氏が言われる通りの格闘家であれば、「約束が違うぞ!」とやられたらやり返すのが普通ですが、明らかに圧倒され続けているのです。

 

ご本人の言う「カラテの構えをしたのでわざと当てやすくした」というシーンもありません。必死に防御するものの、それより早く打撃が飛んでくる、という感じです。そのくらい、力道山の打撃、特に掌打は強烈です。そして木村氏は必死にタックルから寝技に持ち込もうとしますが、力道山は余裕でそれを振り解く足腰の強さを見せます。そこからの、四つん這いになった木村氏の顔面への蹴りは凄惨です。試合後の木村氏は目と唇を大きく腫らし、流血していました。

 


 

◆力道山はなぜ、木村に負けなかったのか?

 

木村氏は翌日が試合にも関わらず、前夜も大酒を飲んでいたといわれます。当時の記録でも「試合2日前の夜8時半に熊本から上京、前日もまったく練習しないで試合に臨んだ」とあります。実際、試合映像を一目見ただけで、コンディションは悪そうですし、肉体も萎んでまるで「強そう」に見えないのです。

 

「所詮プロレスだから」という意識だったからだけでしょうか。それとも、既に全盛期を過ぎ、タイミングの問題でしょうか。増田氏の著書を読むと、かつての木村氏の肉体はものすごく、私は後者だった気がします。

 

一方の力道山は、この一戦で日本統一、なにがなんでも、どんな手を使ってでも勝つ、そしてプロレスというビジネスを成功させて富と名声を得るのだ、という覚悟だったのでしょう。客観視しても肉体の充実ぶりも目を見張ります。

 

約束を破る、という事は、自身がやり返されたら言い訳ができないワケで、実は条件は差がありません。汚い、卑怯、と言われようとも、勝つ、負けるという結果の前には大きな差があるのです。

 

試合前後のやりとりについても、完全に力道山が一枚上手でした。木村氏の書いた「引き分け」の念書は残っていますが、力道山のは残っていません(木村氏側によると力道山は「書くのを忘れた」と言って出さなかったのだそうです)。そして試合後、双方の後ろ盾である暴力団などの仲介を受け、翌1955(昭和30)年2月10日に、両者は「手打ち」をします。試合当日も木村氏は力道山と握手していますし、こんな笑顔の握手写真まで公開されては「木村は負けを認めた」と世間が思うのが普通でしょう。

 

「1対1、正々堂々と勝つのが真剣勝負だ」という風潮がありますが、兵法においては「闘う前に勝つ。段取り8割。身体を使って闘うのは残り2割」と言われます。巌流島で言えばやはり力道山が武蔵で、木村氏は小次郎。

 

柔道家時代、「負けたら切腹する覚悟」と公言していた木村氏は、あまりに無様な、言い訳無用の負けを喫してしまいました。事実、木村氏には「開局まもないテレビにより惨敗する様を全国に晒された」という残酷な結果だけが残りました。

 

勝った力道山は日本プロレス界を平定し、一躍時代の寵児になりますが暴漢に刺され、1963年、39歳の若さで亡くなります。

その後の木村氏は柔道界に戻り、拓殖大学の監督を務めて全日本選手権で優勝に導くなどした後、1993年に75歳で亡くなりました。

 

一世を風靡し時代の寵児となりながらも、暴漢に刺され若くして命を落とした力道山。「最強」を自負しながら「力道山に負けた男」として75歳まで生きた木村政彦氏。

 

どちらが「幸せ」だったのでしょうか。

 


 

◆木村政彦とグレイシー柔術

 

そして、この因縁には、さらに壮大なサイドストーリーがあります。長い間、木村政彦氏は柔道界、プロレス界の歴史から忘れ去られた存在でした。

 

1993年、木村氏の亡くなった年に米国で「アルティメットファイティング(UFC)」という「バーリトゥード(なんでもあり)」格闘技の第1回大会が開催されます。プロレス、空手、レスリングを始めさまざまな格闘家が参加したこの大会で優勝したのは、無名のブラジル柔術家でした。

 

その名はホイス・グレイシー。木村に敗れたエリオの息子です。ホイスは

「私の兄であるヒクソンは私より10倍強い」

と発言し、同時に

「マサヒコ・キムラは我々グレイシー一族にとって特別な存在」

と、木村政彦氏の名前を挙げたのです。

 

その後、グレイシー一族は格闘技界を席巻し、「400戦無敗」の異名を持つヒクソン・グレイシーはプロレスラー高田延彦、船木誠勝らに連戦連勝。2000年に桜庭和志がホイスを敗るまで、日本プロレス界は文字通りズタズタにされ続けました。

エリオはヒクソン、ホイスの父親としてグレイシー柔術の創始者として注目を集め、頻繁に来日。ホイスを桜庭が破る歴史的な試合でも、東京ドームのセコンドに姿を見せていました。

その一連の「グレイシーブーム」の中で、かつての木村政彦氏との死闘が日の目を浴びたのです。

 

エリオは

「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家、木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」

と語り、自分の腕を折った技「腕緘」を「キムラ・ロック」と呼んで自身の技体系に組み込んでいたのです。


 

プロレス界統一のために力道山に利用され、歴史から抹殺された男がかつて、地球の裏側で腕を折った男の息子達に、今度は日本プロレス界が復讐される、という、実に50年越しの壮大な大河ドラマ。

 

リアルはフィクションより面白いものですね。(完)

 


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